天妙国寺より  海雲寺を経て鈴ケ森へ

まえがき
ホームラン地蔵の海徳寺を出て、再び旧東海道を南下する。

300mほどで天妙国寺につく。
このあと品川寺海雲寺南品川宿のはずれに近づく。

この機会にあと2kmほど足を伸ばして、鈴ケ森の刑場跡をたずねてみる。


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天妙国寺は日蓮宗のお寺で、朱塗りの山門である。墓地には、浪花節(浪曲)で一世を風靡した桃中軒雲右衛門(1872〜1916)の芸名墓「桃中軒雲右衛門日正居士」がある。

その脇に「桃中軒風右衛門」の墓石もある。

また、「浪曲界先覚慰霊塔」があって、浪曲師の共同墓地のようになっている。



天妙国寺


雲右衛門の墓


風右衛門の墓


浪曲界先覚慰霊塔

江戸から明治にかけて浪花節全盛時代が到来し雲右衛門のレコードもよく売れたが、昭和初年に掛けての音丸(19061976)のレコードもそれに劣らないものであった。

当時の民謡歌手は小唄勝太郎をはじめ芸子さんが多かったが、音丸は家庭の主婦であった。昭和
10(1935)に大ヒット曲となった「船頭可愛や」の歌詞が船の帆の形をした碑に、音丸の力強い筆跡で記され、永井家の墓域に建てられている。音丸の本名は、永井満津子である。


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音丸(永井家)の墓


お祭り佐七の墓
此処の墓地にはもうひとつ、釣鐘の形をしたお祭り佐七の墓碑がある。

火消しの若い衆で「いい男」と評判の佐七が町を行くと、娘達が一目見ようと寄って集(たか)ってお祭り騒ぎになるので、「お祭り佐七」と呼ばれるようになったとも、また、木遣りを唄わせたらその美声は右に出るものがなかったので、あちらこちらのお祭りから声が掛かり、その結果、どこの祭りに行っても佐七が唄っているので、何時しか「お祭り佐七」の異名となったという。

歌舞伎狂言「お祭り佐七」(江戸育於祭佐七)や落語の人情噺「雪とん」になっている。
品川寺(ほんせんじ)は太田道灌公の創建になり、境内には樹齢約600年、幹周り5.35m、高さ25mの大イチョウがある。

大銀杏の下に2メートルの自然石からなる、江戸時代の民間信仰を代表する見事な庚申塔(こうしんとう)があり、当時の繁栄を今に伝えている。

 江戸時代を通して、品川寺は本尊水月観音と大梵鐘、江戸六地蔵第1番尊の3つを、お寺の三宝(さんぼう)として町の人々の深い信仰を集めていたが、江戸時代の末(1850年代)から明治維新を迎えるころ、寺域は全く荒廃し、大梵鐘も海外に搬出され、草堂一宇に本尊を安置し、江戸六地蔵と共にわずかに法灯を伝えるのみとなっていた。


品川寺


大銀杏と庚申塔
大正8年(1919年),大梵鐘はスイス国ジュネーブ市アリアナ美術館にあることを確認、昭和5年(1930年)贈還された。

 宝永五年(1708年)9月、江戸深川の僧、地蔵坊正元の発願によって、座高2メートル75センチの青銅地蔵菩薩座像が江戸・神田鍋町の鋳物師・太田駿河守正義によって鋳造され寄進された。
 
役の行者もお祀りしてある。足腰がいつまでも丈夫でありますようにと一礼して寺を出る


江戸六地蔵


役の行者

海雲寺は品川の千躰(せんたい)荒神さまと呼ばれており、火と水と台所の神様が祀つられている。

門を入ってすぐ右手に「烏瑟沙摩(うすさま)明王」のお堂がある。

烏瑟沙摩明王は便所の神様である。お堂の後ろに便所がある。



千躰荒神堂


烏瑟沙摩明王堂

門を入って左手の塀に沿って「橘流寄席文字 筆塚 家元橘右近」と彫られた筆塚がある。

その後ろ側の 塀には、落語家などの芸人や寄亭、料亭の名前が入ったブロックが積み並べた形になっている。

また境内には、かって若者たちが力自慢をした大石が置かれ、そこには橘右近師匠の筆になる「力石」と言う文字が掘り込んである。。

海雲寺を出て大経寺まで約2km南下して、鈴ケ森刑場跡につく。
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筆塚


力石
大経寺の境内に鈴が森刑場があった。処刑された人を弔うために開かれた日蓮宗の寺である。

鈴が森刑場遺跡の大きな標識が建っている。

刑場は慶安4年(1651)設置で、広さは、間口47m(40間)、奥行き16m(8間)と予想外に狭い。

歌舞伎の舞台や時代劇でよく見かける「南無妙法蓮華経」の七文字題目碑、即ち死者を弔う「ひげ題目」は元禄11年(1698)の建立となっている。

この刑場での処刑第一号は丸橋中弥であるが、そのとき磔柱を立てた台石や、八百屋お七が火炙の刑に処せられたとき柱を立てた台石、あるいは首洗い井戸などが現存し、今なお周りの空気を重いものにしている

これらの写真は省略した。


大経寺

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鈴が森刑場遺跡


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お題目

あとがき
江戸四宿の第一番目として品川宿を取り上げ、「大江戸写真散歩」のスタートを切った。品川宿は北と南に別れているが、それでも2km程度の街道である。
それが、脇道にはいったり、南大井まで足を伸ばしたりして、3倍も4倍もの道のりを歩く結果となった。
始めて行くところは、その近くに行ってから入り口探しなどで案外時間がかかるものである。また、社寺の境内に入ってから写真を撮るために、なかを相当歩き回るものである。
今回のホームページ作成の経験をもとにして、次回は甲州街道の内藤新宿や中山道の板橋宿などを掲載してみたいと思っている。 乞う、ご期待

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