品川神社から  海徳寺へ

まえがき
その1」では、問答海岸から荏原神社までを歩いた。いわゆる北品川宿の範囲である。

今回は旧東海道筋から脇道にそれて、北品川宿の郷社(鎮守)である品川神社を振り出しに、目黒川の両岸をコの字型に歩く。そして、品川橋に近い海徳寺まででひと区切りとし、「その2」としてまとめた。

これ以降は再び旧東海道に戻って南品川宿を歩いて「その3」とし、「その3」には付録的に鈴ケ森刑場跡もつけ加えた。



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京急電鉄の新馬場駅北口を出てその先の国道15号線の信号を渡ったところが品川神社で、大黒天の大きな立像が手を上げて参拝者を出迎えている。大黒天はインドの神様であり、大国天(大国主命、大国さま)は日本の神様である。ここは東海七福神のひとつである。

国道15号に面して立つ鳥居には立派な登り龍、降り龍が彫られている。

品川神社は武蔵野の高台にあり、そこから品川の海にかけて急激に低地となっていく崖の上にある。


大黒天
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降り龍
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登り龍
本殿前の鳥居には茅の輪が設けられ夏越(なごし)の神事の準備がなされていた。

境内には土を盛って富士講のお山が造られており、登り口に、足神様 猿田彦神社が祀ってある。足腰が達者であるようにと奉納された多くの草鞋がぶら下がっていた。

1合目から順次10合目まで道標が立ててあり、頂上からは、品川インターシティが彼方に見下ろせて見晴らしがよい。

お山を無事下山し浅間神社が祭られている出口で、親子の蛙が「ぶじ(富士)かえる(帰る)」と出迎えてくれる。こんなところにも、江戸っ子の洒落が転がっていた。


茅の輪くぐり


ぶじかえる


足神様
猿田彦神社
国道15号線に戻って山手通りまで南下し、右折して200mほど行くと道の南側に東海禅寺の石柱が見える。その奥には広々とした境内が見える。

東海寺は、三代将軍家光が寛永14年(1637)沢庵和尚のために創建した寺で、当時の境内は5万坪、17の塔頭が並んでいたという。

山門を入った右手の鐘楼には、五代将軍綱吉の生母桂昌院が家光の菩提を弔うために寄進した、元禄5年(1692)鋳造の梵鐘がある。



東海寺石柱


東海寺


鐘楼
東海寺から5〜600m離れた所で山手通りは東海道線の下をくぐる。その先にある、官営品川硝子製造所跡の記念碑が沢庵和尚の墓所に行く入り口の目印である。

この記念碑の横を入っていくと東海寺の墓地がある。墓地入口の階段の脇に「東海寺開山 沢庵禅師墓道」の石柱が立っている。

沢庵和尚の墓は竹垣で区切られているが、直径1m、高さ50cmくらいの自然石を置いただけの飾り気のない簡素なもである。

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東海寺大山墓地入口
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沢庵和尚の墓
墓域に入ったすぐ右手に、宝暦3年(1753)当時の住職閑田義関が建てた沢庵和尚の生涯と徳を讃えた漢文の碑がある。

この碑を背中に載せた亀と向き会って、茶筅(ちゃせん)塚がある。

重荷を背負った亀と、頭をすりつぶして茶をたててきた茶筅は、互いに向き合って、いったい何を語り合っているのであろうか。



讃碑


茶筅塚
硝子はギヤマンと称して、江戸後期には一般に普及しだしていた。ギヤマンとはダイヤモンドのことで、後にダイヤモンド加工したガラス製品のことをギヤマンというようになった。

明治6年(1873)太政大臣三条実美が、東海寺の境内に日本初の硝子製造所「興業社」を創業し、同年9月に官営工場となった。明治18年に民営の「品川硝子会社」となるが同25年に倒産した。此処に史跡として立派な碑が建てられている。

さて、ここから目黒川を対岸に渡り、最初に清光院へ行く。
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日本初の硝子製造所

清光院の黒塗りの井桁門をくぐって境内に入っていくと、広い墓域に突き当たる。左手奥に、200坪弱の墓域を瓦積み土塀で囲んだ、3m余の石塔3基をはじめ89の墓標が建ち並ぶ奥田家歴代の墓地がある。

大名墓地としての規模と様式をよく今日に残している、都内でも数少ない墓地である。

奥田家は美濃10万石の譜代大名で、その後、古賀、宇都宮、山形、再度宇都宮を経て、九州豊前中津藩主として幕末まで続いた大名家である。



清光院
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奥田家墓所
天龍寺の墓地入口左側の塀の下部に、小振りな3体の地蔵尊がある。大正7年(1918)に、ここから近い東海道線の踏み切りで人身事故があり、その責任を感じた踏み切り番2人が自殺するという事件があった。地蔵はその踏み切り番と事故の犠牲者を供養して建てられたもので、責任地蔵と呼ばれている。江戸時代の話ではないが、武士の腹切りを思わせる話である。

天龍寺の先に海蔵寺がある。この寺は品川宿の投げ込み寺として知られ、鈴が森での処刑者や品川宿の遊女の死骸を葬った。無縁塚の上には観音様が祀ってあり、首塚という。
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天龍寺
 責任地蔵
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海蔵寺(投込み寺)

海蔵時から国道15号線をわたった右側に願行寺がある。
境内には地蔵堂があり有名な縛り地蔵がおわす。地蔵の体を縄で縛ると、人の苦しみを地蔵が肩代わりしてくれるという。願を掛けるときには地蔵堂に並べてある地蔵の首を1個そっと持ち帰ってこれを拝み、願いが叶ったときには、これを2っにして返すことになっている。うまいことを考えた坊さんがいたものだ。今でも、病気、災難、貧困に苦しむ人のお参りが絶えないという。

国道15号線に戻って、道の東側の妙蓮寺に行く。ここには、新吉原三浦屋の遊女・薄雲太夫の立派な墓がある。当時太夫と名乗れた遊女は3人だけだったという。冠をいただいた石塔は並みのものではなく、さすが太夫の墓である。
薄雲太夫は鳥取藩士島田重三郎に操を捧げて、仙台藩主第三代伊達綱宗が、太夫の背の丈ほどの小判を積んで身請けするというのを断り、大川の屋形船の中で吊るし斬りにされたという。

しかし、この手の話には異説があるもので、実は、おなじ三浦屋の花魁・二代目高尾太夫にまつわる話であるともいう。

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願行寺縛り地蔵
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妙蓮寺薄雲太夫の墓
清光寺と清光院は紛らわしいが、ここ清光寺は、目下本堂の補強工事中で、屋根と柱だけを残して壁や床板などは全部外し、縁の下に枕木で台をこしらえ、お堂全体を2m程持ち上げて、ウインチで移動中であった。この近代工学には、仏様もビックリ,阿弥陀様も仰天といったところであった。お寺の本堂が宙に浮いたような珍しい光景に出会ったので、写真に収めておいた。

次は本光寺である。寛永
19年(1642)、三代将軍家光がここ本光寺を訪れた時、当時の住職日啓と増上寺の意伝とが、沢庵和尚立会いの下で「念仏無間」を行った。後世、これを「品川問答」という。
境内には松の木が多く、三重塔がそびえている。
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清光寺


本光寺
海徳寺には、慶応4年の太政官「」(通達)の立て札「邪宗門之儀ハ固く禁止候事」が壁に取り付けてあった本ものかどうかは、何も説明がない



海徳寺 
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邪宗門の禁札
話は江戸時代からそれるが、この寺には野球のバットを持った少年姿の地蔵尊がある。

この地蔵尊は岩崎一夫君という野球少年が不治の病になったとき、若き日の王貞治選手が少年に、「ぼくもホームラン王になるように頑張るから、君も病に負けないように頑張れ」と激励に病院を訪れたというエピソードにちなんだお地蔵さんで、別名ホームラン地蔵ともいう。

王選手はその後、この約束を果たすように「ホームラン王」を目指して頑張ったという。



ホームラン地蔵
あとがき
今回は、東海道品川宿の街道筋から脇道にそれたが、品川神社といい、沢庵和尚の東海寺といい、その他大名墓地の規模の大きさ、投げ込み寺から縛られ地蔵尊、果ては太夫の立派なお墓まで、結構見所の多い散策であった。

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