問答海岸より 品川神社まで

まえがき

品川宿の探訪は、北品川宿の北端にあたる京浜急行の北品川駅を出発地点とし、終着地点は南品川宿の南端にあたる青物横丁駅とした。

途中旧東海道から外れて脇道に入り、品川神社沢庵和尚の墓所その他の寺院旧跡を訪ねながら歩を進めた。

なおこの機会をとらえて旧東海道を2kmほど南に足を伸ばし、鈴ケ森刑場跡まで探索した。
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北品川駅のすぐ東側を旧東海道が通っている。駅を出た左手の角に問答河岸跡の石碑がある。うっかりすると見過ごしそうな大きさの碑である。

三代将軍家光と東海寺の住職沢庵和尚が、この海岸で問答をした。
将軍「海近くにして東(遠)海寺とはこれいかに」、
和尚「大軍のみを率いても将(小)軍というがごとし」。

以来ここを問答河岸と呼ぶようになった。

江戸時代の人はウイットに富んでいて、しゃれを連発していたようである。



寿司屋の角に建つ碑

その先に品川一の大旅籠(はたご)相模屋の跡がある。

今はビルになっており、写真に見るような説明板が立っているだけで、昔日の面影はない。相模屋は、海鼠(なまこ)壁の土蔵造りであったので、土蔵相模と呼ばれていた。どこかに文化財として残しておけなかったものかと悔やまれる。

万延元年(1860)桜田門外の変のとき水戸浪士が事前の謀議をしたところであり、文久2年(1862)品川御殿山の英国公使館建設に反対した攘夷論者の高杉晋作や久坂玄瑞らが密議を凝らしたところで、歴史的な事件の舞台となった旅籠である。

土蔵相模から海側に進み八ツ山通りの歩道橋を渡ると鯨塚のある利田(かがた)神社に出る。



土蔵相模跡

寛政10年(179851日、暴風雨で品川沖に迷い込んだ鯨を漁民総出で捕らえた。11代将軍家斉(いえなり)がご覧になるというので、鯨を浜御殿まで曳いていったという。

三角形の碑(右)は昔のもので表面が崩れている。このため、昭和44年に地元の鯨塚保存会が大改修したものがあり(左)
「江戸に鳴る 冥加やたかし なつ鯨」
(当時の俳人谷素外の句)が彫られている。


   新しい鯨塚  


 
古い鯨塚

旧東海道に戻ると、すぐ善福寺がある。

本堂は漆喰塗りの土蔵造りであるが、傷みが極端に激しい。

壁には鏝(こて)絵で龍が描かれているが、相当の部分が既に剥落している。

伊豆の長八の作とも、その弟子の作とも伝わるが、
ともかく傷みがひどい状態である。。



 善福寺

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痛みが激しい鏝絵などの装飾
昔は、この辺りは海岸線に沿って護岸用の石垣が築かれていた。
波浪により崩れるたびに修復せねばならないので、宿場にとって大きな負担となっていた。
当時の石垣は僅かにここに残るのみであるが、これも
2年後には民家の改築によりなくなると、休憩所を兼ねた駄菓子屋のおばさんの話である。

写真の奥突き当たりに見える店が、その駄菓子屋である。

昔懐かしいラムネを飲みながら、そしておばさんの話を聞きながら一休みをさせてもらう。

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護岸石垣の名残

駄菓子屋の筋向に品海公園があり、入口に日本橋より2里の標識が立っている。
品川宿の道路の舗装は、旧街道の感じを出すように配慮されており、往時の宿場町の情景を再現している。

天保4年(1833)から数年続いた天保の大飢饉により、農村から多くの流浪民が品川宿に辿り着いた。幕府は御救小屋を建てて救助に当たったが、891人という死者を出し、法善寺と海蔵寺に葬られた。

法善寺には円墳状の塚が造られた。明治4年(1871)、塚の上に流民叢塚碑が建てられ、昭和9年(1934)、コンクリート造りの納骨堂が建てられ、碑はその上に安置されて今日に至っている。



法善寺 流民叢塚碑


日本橋より二里

道の右側に品川虚空蔵(こくぞう)で知られる養願寺がある。

その向かい側に品川不動で知られる 一心寺が見えてくる。

左の門柱に貸座敷中とある。即ち、東海道筋で貸し座敷屋を営んでいた連中が寄進したことを表している。



品川虚空蔵、養願寺

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   品川不動、一心寺

そろそろ山手通りが見えてくる。

山手通りに出る手前の道を左折して100m弱進むと、品川宿本陣跡がある。今は、本陣跡がそのまま聖蹟公園になっている。本陣の広さなどが想像できる。

この公園に「聖蹟」の名がついているのは、明治元年(1868)明治天皇が始めて江戸に下られた折に,ここに宿泊されたからである。そのいわれを記した碑が建っている。子供の格好の遊び場になっている。


山手通りを渡るとすぐに目黒川に出る。

品川宿は、目黒川を境にして北品川宿南品川宿に分かれていた。



品川宿本陣跡
目黒川に架かる品川橋境橋行会い橋あるいは中の橋とも呼ばれていた。
橋は当初の木製から石製、鉄製と変わってきたが、橋のデザインは昔の面影をとどめるように配慮されている。
品川橋を渡らず右折して川を遡る。
荏原神社は今は川の北側にあるが、これは川の付け替えによるもので、江戸時代には川の南側にあって、南品川宿の郷社(鎮守)であった。
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品川橋と赤い鎮守橋


荏原神社の鳥居
ちなみに、北品川宿の郷社は、品川神社である。
品川橋の上流に鎮守橋、その上流に荏川橋があり、その先に稼穡(かしょく)稲荷の大イチョウが見えてくる。
イチョウの木は樹齢5〜600年を経た稲荷神社のご神木で、遠くからその美しい樹形が望める。

イチョウの木については説明書きがあったが、稼穡稲荷については由緒書きなどは見当たらなかった。


荏川橋


かしょく稲荷の大銀杏
稼穡稲荷から京急電鉄の新馬場(しんばんば)の下をくぐって第一京浜国道に出るとその向こうに品川神社の鳥居が見える。
今日はここまでとして、品川神社以降は、次回「その2」のお楽しみとする。


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