大江戸写真散歩
門前仲町から 富岡八幡宮一周
門前仲町駅の5番出口から、永代通り沿いに東に250mほど来ると赤門がある。赤門から境内に入る手前左手に深川公園がある。公園に面している道が、辰巳新道である。 参道の途中にある永代寺がある。この寺については、あとがきにおいて触れることにする。は、廃仏毀釈により一旦廃寺となるが、後年復興した寺である。江戸六地蔵尊像(六番目)があったが、取壊されたので現存しない。江戸時代の永代寺は、広大な寺院で、富岡八幡宮の別当寺として栄えていた。門前仲町の地名は、永代寺の門前に由来する。 |
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深川公園 (不動堂西) |
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境内を入ると左手に、3頭の竜が吐水している手水舎がある。裏手に竜神様が祀られている。 本堂の左側では新本堂が建設中である。深川不動堂については、あとがきを参照。 境内の東南角に、開運出世稲荷、勝軍地蔵尊などが新しく祀られていた。 |
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建設中の新本堂 (2010/11現在) |
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以前、不動堂境内の東南角に石碑などが多くあったが、今は整理されて見当たらない。その一つに、石造燈明台がある。これは日清戦争(1894〜95)の戦勝記念として奉納されたものであるが、平成19年境内整備に伴い江東区に寄贈され、翌20年西側に隣接する深川公園に、約1ヶ月をかけて境内を横切って、移設された。移設工事は、本体に枠囲いの保護工事を施し、移設地までレールを敷いて、時速1.5mの「曳家工法」で行われた。かくして平成21年2月移設工事が完了し、江東区民の永久保存運動が結実した。高さ839cmで、側面には歌舞伎の名優や地元遊郭など寄贈者の名前を刻んだ石板が359点貼られている。上部にあった八角形の火袋は、関東大震災で破壊して今はない。 |
(2007/03現在) |
(2007/03現在) |
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石造燈明台が移設された前辺り(西側)に、「富岡八幡宮別当永代寺跡」の石碑が立っている。 本堂右手奥には、多くの石碑群が並べられている。以前境内東南角にあった五世尾上菊五郎の碑も、この中に見出すことができた。しかし、志満寿さくらの碑は、所在が分からなかった。 |
富岡八幡宮別当永代寺跡の碑 |
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不動堂の東側に隣接した深川公園に「園女歌仙桜」の碑がある。芭蕉の弟子でこの近くに住んでいた渡会園女は、「三十六歌仙」にちなんで36本の桜を寄贈したという。 公園の東側の道を北に200mほど行くと、高速道路の手前に油堀川の和倉渡し場跡がある。関東大震災の後、和倉橋が架けられたが昭和50年(1975)堀が埋められ、現在は親柱が残るのみである。和倉とは、幕府賄方の椀を納めておく倉である。 |
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今来た道を200m戻って、富岡八幡宮の西の門(西参道の鳥居の手前)を入る。門を入った左手に境内社があり、その右手に力石や力持の碑がある。その奥が二層の本殿の前である。富岡八幡宮は江戸随一を誇る八幡宮である。正面大鳥を入ったところに、日本一の本社神輿が展示されている。説明はあとがきを参照。 この境内で富くじ興行が盛大に行われていたところに久蔵がふらりと現れ、千両の大当りを知るのである。 |
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本殿右手奥に横綱力士の碑がある。江戸時代最後の横綱十二代陣幕久五郎が中心になり、明治33年(1900)に建てられたもので、碑の後ろには、歴代横綱の四股名を連ねた碑もある。その他、陣幕、不知火顕彰碑、日月石寄附碑、魚かし石柱、玉垣などがある。また、当八幡宮は、日本における勧進相撲発祥の地といわれている。 正面の大鳥居を入ったところに、大関力士碑がある。横綱昇進の力士と実際に取組みに入らなかった看板大関を除いた大関の顕彰碑である。 大関力士碑の前に、ガラス張りの神輿庫がある。 |
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正面の参道の途中で西参道、東参道が左右に延びている。東参道に面して木場木遣之碑がある。また、七渡神社(弁天社)の鳥居をくぐると右手に針塚や庚申塔がある。粟島神社も祀られている。 奥は弁天池になっていて、その左手は八幡宮の境内社が並んでいる。 |
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話が戻るが、横綱力士の碑の北側に駐車場があり、道の向側に数矢小学校がある。この道を右(東)へクランクしながら100mほど行くと八幡橋(旧弾正橋)がある。この橋は、明治11年(1878)アメリカ特許を基本として造られた国産第1号の鉄橋で、京橋楓川(中央区)にあったものを昭和4年(1929)ここ八幡堀(今は遊歩道)に移設して保存している。 八幡橋を渡ってなお100mほど行くと信号のある広い通りに出る。スグ右手に三十三間堂跡の碑がある。 寛永19年(1642)京都東山の三十三間堂を模して浅草の地に堂を建てたのが始まりで、後この地に再建されていたが、明治に入って堂宇は廃却された。今は、数矢小学校にその名を残している。 |
(旧弾正橋) |
(旧弾正橋) |
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大鳥居を入った大関力士碑の前に、伊能忠敬の銅像がある。この近くに住まっていて、測量の旅に出かける前には、かならず富岡八幡宮に参拝して出掛けたという。銅像の傍にあるのは、この地点の三等三角点で、カーナビゲーションなどに使われているGPSの基準点ともなっている。回りの3個の半球石が、なかにある三角点を保護している。 大鳥居を出たところに石の大灯篭がある。 |
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明治21年根津遊郭移転のために開かれた洲崎遊郭跡が1kmほどのところにあるので、足を伸ばして見ることにする(谷根千コースその4参照)。 巴橋を渡り大横川の南の筋を約300m行った左手に東富橋がある。橋の南西詰めに、松平定信海荘(はまやしき)跡の説明板がある。 そこから150mほどで、平久橋を渡る。橋の袂に、津波警告の碑と波除碑がある。 |
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説明板 |
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その先で三つ目通り(環状3号線)の歩道橋を渡ると、すぐに洲崎神社(弁天社)と弁天池がある。 境内に、豊川稲荷と於六稲荷が祀られている。後者は、家康の側室於六の方に関わりがあるのだろうか。 |
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洲崎神社
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寛政3年(1791)9月深川洲崎一帯に来襲した高潮により多数の死者、行方不明者を出した。幕府は平久橋袂と洲崎神社に地上6尺、角1尺の波除碑を立て、これより海側に人が住むことを禁じた。これが今日でも両所に、津波警告の碑(波除碑)として保存されている。 魚釣竿(江戸和竿)制作の名人中根忠吉(元治元年〜昭和5年)の徳富蘇峰の筆による「名人竿忠之碑」がある。 |
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洲崎神社の南の筋を西洲崎橋を渡って200mほどいくと大門通りに出る。ここは、旧洲崎遊郭の真っ只中である。通りを渡った角の八百屋の二階に見える派手な色彩の円柱が、当時の街並みを髣髴とさせる。その先の角を右折したところに、大賀楼の建物が残っている。 街を歩いていると、遊女の供養碑があった。「洲崎遊廓開始以来先亡者追善供養執行記念 洲崎三業組合建之」と読める。 |
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街中を一巡して、今は緑道公園になっている旧洲崎川跡に戻ってくる。ここに架かっていた洲崎橋が撤去されたので、銘盤だけが残されている。 丁度ここが廓の大門があった地点で、洲崎川を堀にして、廓の内と外が区切られていた。 永代通りに出て、大横川に架かる沢海橋を渡って、巴橋に戻る。 |
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左漢字、右仮名 |
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巴橋は、八幡宮を南に200mほど来たところの大横川に架かる橋である。 巴橋を渡るとすぐ左手に住吉神社がある。関西から呼び寄せられた佃島の漁師が網干し場としてこの地(海浜)を与えられ、深川佃町と称し、佃島住吉神社より分霊された小祠を祀ったことに由来するという。 境内には学問上達、商売繁盛、売掛金回収にご利益のある車折(くるまざき)神社とこれに合祀されている芸能神社がある。木場と花街の願いが伝わってくる神社である。 |
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合祀の芸能神社 |
住吉神社を出て牡丹町通りを250mほど来ると、牡丹町公園前の交差点にいたる。この辺りは海岸を埋め立てた土地であり、牡丹を栽培する農家が多かったことに由来する地名である。 その先に、古石場橋がある。橋の下は、遊歩道形式の公園になっている。橋の名は、この辺りが幕府の石置場であったことに由来する。 |
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古石場橋を渡ってすぐ先の角を右に入ったところに、黒船稲荷がある。 江戸戯作界の第一人者四世鶴屋南北(東海道四谷怪談など)の居宅がこの地にあり、文政12年(1829)75歳で没するまで住んでいたという。 詳細は、境内の説明板(右の写真)を参照されたい。 |
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黒船稲荷から牡丹町通りに戻ると、道の斜め向かい側に於三(おさん)稲荷と古木弁財天がある。 於三稲荷は、「怪談阿三(おさん)の森」の於三の菩提を弔った稲荷社で、昔は「スズメの森」といっていたという。 |
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於三稲荷から牡丹町通りを西に100mも行くと清澄通りに出る。右折するとその先100mほどで黒船橋である。欄干のデザインに趣向が凝らしてある。橋の下は、両岸が桜並木の大横川である。川下に船着場があり、桜祭りのときは遊覧船が発着している。 橋の北詰に、高さ3丈(約9m)ほどの、上部に半鐘を取り付けた江戸時代の火の見櫓が建てられている。門前仲町の櫓は、今の門前仲町交差点付近、かっての富岡八幡宮一の鳥居の近くにあり、深川一の繁華街を火災から護っていた。特にこの近辺は櫓下と呼ばれ、辰巳芸者で賑わった花柳界の一角である。また、八幡宮周辺には。広い範囲にわたり深川七場所と呼ばれた花街が発展していた。 この先の門前仲町の交差点で、出発地点の地下鉄門前仲町駅に、一周して戻ってきたことになる。 |
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あとがき 落語は、演者によって噺の筋は同じでも、具体的な細かい点になると、いろいろと異なっていることがある。「富久」の富くじ興行の場所にしても、多くの演者は椙森神社か湯島天神に設定しているが、八代目桂文楽は富岡八幡宮に設定している。今回の散歩を「富久」と題して富岡八幡宮を歩いたのは、文楽の噺に準拠している。 富くじは、番号が書かれた木札を錐(きり)で突いて抽選することから「富突(とみつき)」「突富(つきとみ)」と呼ばれていた。寺社の修復、再建のために、江戸では宝永年間(1704〜11)頃に始まったといわれている。時代を経るに従い次第に市民の射幸心をあおって盛んになり、最盛期には30ケ所以上で興行があったといわれる。なかでも有名なのが谷中感応寺(かんのうじ)、湯島天神、目黒不動で、「三富」と呼ばれていた。最終的には、天保13年に禁止令が出て終息した。 富くじが主題の落語には、ここでとりあげた「富久」のほか「御慶」「水屋の富」「宿屋の富」などがある。 話は替わるが、富岡八幡宮の深川祭は、神田祭(神田明神)、山王祭(日枝神社)と並んで、江戸の三大祭となっていた。そして、富岡八幡宮には、豪商紀伊国屋文左衛門が寄贈したとされる総金張りの本社神輿3基があったが、関東大震災で焼失したという。 戦後佐川急便が本社神輿を復活させるに際して、総金張りでは重くて担げないので(江戸時代は山車で曳いていたという)金塗りとし、代わってダイヤモンドを鳳凰の目4カラット2個、鳳凰の火焔7カラット、狛犬の目3カラット2個1対、ルビー鳳凰の鶏冠2千10個など、昔に優るとも劣らない豪華な10億円神輿を1基復活させた。ガラス張りの神輿庫に展示してある。 最後に深川不動堂について触れておこう。元禄(1688〜1703)の初め頃より、江戸で成田山不動が盛んに信仰されるようになり、元禄16年(1703)始めて成田山新勝寺の本尊不動明王の江戸出開帳が行われた。これは五代将軍綱吉の母桂昌院が発願したものという。この開帳の場所が永代寺の境内であった。明治11年(1878)になって、成田山不動堂新勝寺の出張所として深川不動堂が当地に遷座され、明治14年に堂宇が建立された。 本堂は、戦災により全焼した後、昭和26年(1951)千葉県印旛沼の龍腹寺を移築したものである。本堂の裏手には4階建ての内仏殿が建てられており、バックの高速道路が見えないように設計されている。本堂左手では新本堂が工費30億円で建設中である。落慶法要は、平成24年9月15日となっている。 一方、江戸時代の永代寺は広大な寺院で、富岡八幡宮の別当寺として栄えていた。門前仲町の地名は、永代寺の門前に由来している。しかし、 明治に入って神仏分離令により一旦廃寺となり、現在の寺は後年復興した寺である。江戸六地蔵尊像(六番目)があったが、取壊されたので現存していない。 |