大江戸写真散歩
JR田町駅より JR品川駅まで
JR田町駅から、まずは札の辻に向かう。その間約150mである。 札の辻の歩道橋から北の方向に国道1号(桜田通り)の方を見ると、正面に東京タワーが見える。 歩道橋を降りて、北東方向に国道15号を見ると田町駅前の歩道橋が遠くに見える。 札の辻とは、高札場があった所である。 |
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札の辻から第一京浜に沿って150mほど南下してくると右手に住友不動産三田ツインビル西館があり、その右手奥に小高い斜面が見える。見逃しやすい所だが、ここが三代将軍家光が元和9年(1623)、原水主ら50人のキリシタンを火刑に処したところで「元和キリシタン遺跡」の碑が建てられている。 上記ツインビルの先に、「御田八幡神社」の縦型の大きな標識が掲げられている。 |
キリシタン遺跡 | キリシタン遺跡 | 御田八幡神社標識 |
御田八幡神社は、三田、芝、芝浦、高輪の広い範囲を氏子地域としている神社である。 御田八幡神社の筋向い側の歩道に、伊豆産の火成岩でできた石垣が保存されている。この植え込みを囲んでいる石は、ビルの建設工事中に出土したもので、おそらく当時の護岸用の石であろうと思われている。 |
御田八幡神社 |
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御田八幡神社より、第一京浜を400mほど南下してくると道の左側(西側)に高輪大木戸の遺構が見えてくる。 高輪大木戸は、宝永7年(1710)芝口門に建てられ、享保9年(1724)に現在地に移された。天保2年(1831)には、札の辻から高札場も移された。当時は海岸の景色もよく、付近には茶屋などもあって月見の名所でもあった。 白井左近はこの近くに住んでいて、道端で占いをしていたのであろう。伝次郎は、品川の貧乏長屋に住んでいたことになっている。 東海道においては、高輪大木戸が江戸の出入口であった。伊能忠敬は、この高輪大木戸を基点として日本地図の測量に着手している。 大木戸跡から200mほど南下して来ると、泉岳寺交差点に至る。 |
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交差点に、鉄筋コンクリートの3階(2階?)建ての稲荷神社が見える。銀座などでよく見かける都市型のお社である。 泉岳寺交差点から約250m南下してくると右手(西側)に高輪神社がある。昭和4年(1929)、社名を稲荷神社より高輪神社に改称したという。 |
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高輪神社から約150mで高輪2丁目の交差点に至る。北西角に「高輪」の説明板と高輪海岸の石垣の説明板が建っていて、その石積みが展示されている。石は、相模湾や伊豆半島周辺で採石された安山岩であるという。 また、「高輪」の地名は、高台の縄手道(まっすぐ長い道)から高縄手と称されていたものが転じて高縄から「高輪」となったものという。 また、泉岳寺の門前に近い辺りは「車町」と呼ばれていた。これは、京都から召し寄せられた石材の牛車運搬業者たちが、御用が済んだ後も帰郷がかなわず、この地に住み着いたことによるという。 なお、車町は江戸三大火事のひとつ「文化の大火」、別称「車町火事」(文化3年1806)の火元として知られている。 |
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高輪2丁目の交差点を西に入るとすぐ桂坂である。桂坂のいわれは、葛(つたかずら)が覆い茂っていたからという。また、かつらをかぶった僧が品川の色町からの帰途この坂で急死したからとの説もある。 米国生まれの建築家ウイリアム・メレル・ヴォーリズが手懸けた旧朝吹邸の瀟洒な建物が木の間にちらほらと目に付く。今は「東芝山口記念会館」となっているが、「入館はできません」とのことであった。東京電気と芝浦製作所が合併して東京芝浦電気(現東芝)が創立した時の初代社長山口喜三郎の記念会館であろう。今は社員倶楽部にでも使われているのだろうかと思いつつ、門の右側の坂道を上がる。 |
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この坂を洞坂(ほらざか)という。この辺りの字(あざ)を洞村(ほらむら)といったことによるが、法螺貝が出たとも、また窪地だから洞というなど諸説がある。 坂の標識を境に左折して下り坂になる。細い道を曲がりくねりながらほぼ道なりに進むと東禅寺の横に出る。 |
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山門の前に「最初のイギリス公使宿館跡」と刻した石柱が立っている。はじめは宿館に割当てられていたが、安政6年(1859)日本初のイギリス公使館が当寺におかれた関係で、攘夷派の水戸藩士による襲撃事件や、護衛役の松本藩士による襲撃事件などが起きている。 赤みを帯びた仁王門が目につく。門を入ると、境内は広々としている。 |
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本堂に向かって左手に三重塔がある。狭い間隔で梁が2層に並び、その白い木口の下に並んだ斗栱(ときょう)の配列が美しい。 三重塔の裏手の通用口を出て右に行くとお地蔵さんを祀った角に出る。ここを右折して道なりに進むと、暫くして桂坂の通りに出る。左折して200mほど行くと二本榎通りとの交差点に出る。右手に、昭和8年(1933)落成した高輪消防署二本榎出張所の、屋根に望楼があるモダンな庁舎が見える。 |
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二本榎出張所 |
交差点を左折するとすぐ高野山東京分院の山門が見え、奥に本堂が遠望できる。 この寺は、延宝元年(1673)高野山江戸在番所高野寺としてこの地に完成した。 |
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寺を出て二本榎通りを左(南)に約250m進むと左手に光福寺がある。 ここの地蔵尊は石にレリーフ状に彫りだした地蔵尊で、品川沖で揚がったという。そのためか、彫刻面が磨耗して地蔵尊のお姿が幽霊のように見えるというものである。子授け、安産、栄華にご利益があり、幽霊地蔵の寺として有名である。 |
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光福寺の前の直線的な道を二本榎通りという。この道筋には多くの寺がある。その中の上行寺という寺(今はない)に、二本の榎があったことによるという。この通りは旧東海道をなしていたという。 現在の第一京浜の辺りは、往時は海岸線であった。家康が東海道を整備する以前は、旧東海道は高台を通っていたことになる。 光福寺を出てなお50mほど進むと、左手に古い木造の門が見える。木の看板はかろうじて「味の素株式会社記念館」と読めた。初代社長鈴木三郎助の邸宅跡という。研修センターの一部を「食とくらしの小さな博物館」として一般開放されており、多くの人が訪れていた。 |
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記念館 |
味の素株式会社記念館の横の細い道を東に100mほど入って行くと、円福寺がある。その先300mほどでグランドプリンス高輪の貴賓館の前に出る。ザ・プリンスさくらタワーの横を通って300mほどで品川駅に至る。 なお、グランドプリンスホテル高輪貴賓館は明治44年(1911)建設、昭和47年(1972)改修の竹田宮恒久王(北白川宮能久親王第一王子)の邸宅跡という。現在は、結婚式場などに使われている。 |
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あとがき 「ちきり」について広辞苑を開いて見ると、 「ちきり締め」の略。木または石の合目、割目などに填(うずめ)て鎹(かすがい)に するもの。 両端が広く、中がくびれて狭い。「ちぎり」ともいう。それを図案化したもの。 と説明されている。 旧東海道であった二本榎通りは中原街道でもあった。道が直線的であるのは、狼煙を焚いて測量し、道を造っていったためといわれている。 今回の散歩は、前半は往時の海岸線を歩き、後半は高輪台の旧東海道筋を歩いたことになる。 |