大江戸写真散歩

鐘ヶ淵駅から   浅草駅へ

まえがき
 落語「花見酒」の粗筋は、
 手元に2両しかない2人が、銭儲けを考える。行きつけの酒屋で「あんまりよくなくてもよいが悪くない酒を」と断って2両分の酒4斗樽に入れてもらい、これを担ぐ棒や柄杓(ひしゃく)を貸してもらい、その上に、三日も何も食べていない相棒の腹ごしらえのために1貫前借して、花見客目当て向島に出かける。2両の酒を倍に売れば4両になり、この4両でまた仕入れて倍に売れば8両になると、道々取らぬ狸の皮算用をしながら歩いていく。
 が4斗樽の底の方でチャポンチャポンと揺れて、いい匂いが立ってくる。風下の後棒は辛抱ができなくなり、手元にある腹ごしらえ用の1貫でコップ一杯飲ませてくれという。もし芋を買って食べれば芋屋が半分儲けをとってしまうから、無駄であるが、もしこの酒を自分が買えば儲けは内に残るので無駄がない、と相棒を言い含める。
 こんなわけで、先ずは後棒が1杯を飲み、次は先棒がもらった1貫を渡して、1杯飲み、また後棒が1貫を渡して、その次は先棒がと、1貫をやりとりしながら、向島についた頃には全部の酒を飲んでしまった
 結局酒は完売したが、売上金1貫しかない。「2両の酒を倍で売ったんだから4両なければおかしいじゃないか」「1貫出して先ずお前が買って、次に俺が買って、またお前が買って俺が買って・・・・それで売り切れた」「あっ!そうか、なるほどぉ、ハハ、してみりゃ無駄がねえやぁ」ーーこれがオチである。

 
今回の出発点は、東武伊勢崎線の鐘ヶ淵駅である。
地図

地図および画像は
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 鐘ヶ淵駅を出て鐘ヶ淵通りを隅田川の方向に200mほど行くと墨堤通りに出る。中央分離帯に「鐘ヶ淵陸橋」のモニュメントが建っている。鐘ヶ淵の由来は、隅田川が大工の使う曲尺(かねじゃく)のように急カーブしているからという説と、普門院が北千住から越してきたとき、船に積んだ梵鐘をこの地点で沈没させてしまったのでこの名ができたという説(落語編「中村仲蔵」の項参照)がある。

 墨堤通りを南に100mほどくると右手に梅若公園がある。以前は、木母寺梅若塚があったところである。今は、榎本武揚の像だけが残されている。榎本は幕府の海軍奉行を勤め、明治政府の要職をも歴任した。退職後は向島に隠遁した縁で、ここに像が建てられている。

 近くに隅田川神社参道蹟の碑もある。
鐘ヶ淵陸橋の
モニュメント
榎本武揚の像
隅田川神社
参道蹟の碑
 隅田川の堤防と平行して都営の高層アパートが延々と建ち並んでいる。アパート西側の東白鬚公園少年野球場の北側に木母寺がある。

 平安中期梅若丸が人買い信夫藤太にかどわかされて京都から連れてこられ、ここで病を発し「訪ね来て 問わば応えよ都鳥 隅田川原の露と消えぬと」の歌を残して12歳没した。そこへ来合わせた僧中円が追福祈願の「梅若塚」を築いた。翌年、物狂い母人がわが子を探してこの地にいたり、幻の中梅若と対面するというのが、かの有名な謡曲「隅田川」の筋である。
 なお、寺の名は「梅」の字を「木母」と分けて書いたものという。

 梅若塚の入口は、変形な鳥居を形作っている。

 身代わり地蔵尊は、以前から門前に安置されていて、多くの人々から深い信仰を集めていた木母寺にゆかりの深いお地蔵様である。
 
木母寺
身代地蔵尊
梅若塚
天下の糸平の碑
 生糸商人田中平八は大相場師で、後成功を収めた。親交のあった伊藤博文の揮毫になる「天下の糸平」の碑は、高さ5mの都内最大の石碑という。

 「隅田堤桜花に題す」の詩碑は亀田鵬斎の作ならびに書になるものである。また、浄瑠璃「隅田川」に因んで、浄瑠璃塚がある。

 三遊塚は、三遊亭円朝が先師初代円生追福のため明治22年(1889)に建てた碑で、題字は山岡鉄舟の書、銘文は高橋泥舟の筆によるものである。これに対する柳派の「昔ばなし 柳塚」の碑が法性寺に建っていることは、さきの落語編「中村仲蔵」の項でとりあげてあるので、写真など参照されたい。
題隅田堤桜花
の碑
浄瑠璃塚
三遊塚
 木母寺を出て隅田川沿いに200mほど下ったところに、水神社とも呼ばれている隅田川神社がある。かっては樹木が繁茂し、隅田川の増水にあっても沈むことがなく、水神の森とも浮島とも称されていたという。

 神社を出て東白鬚公園のなかを進み墨堤通りにでて「橋東詰」の信号で道路の反対側に渡る。ここからさらに350mほど南下すると、白鬚神社にいたる。
隅田川神社
隅田川神社
東白鬚公園
 神社の入口に立つ石柱に、鬚文字で刻まれた「白鬚」の文字が目に付く。下に「神社」と楷書で書かれているので「白鬚」という字だということが推察できる。
 また、石玉垣の基礎部に寄進者の「玉の井 いろは通り商店街」の名が読み取れる。「玉の井」は知る人ぞ知る私娼街であったが、空襲で焼けてしまった。その後娼家の一部が「鳩の街」に移って特飲街を開いた。今回は「玉の井」まで足を延ばすことが無理だから、「鳩の街」だけを歩くことにする。
白鬚神社
白鬚神社
「寺島ナス」の
説明板
 この辺りは隅田川の上流から肥沃な土が流れてきて農耕適した土地であり、「寺島ナス」の産地として有名であったという。

 境内には古い石碑が多く見られる。その中に鷲津毅堂の碑がある。毅堂文政8年(1825)尾張生まれ、江戸に出て昌平こうに学び、後尾張徳川康勝侯に仕え、晩年は明治政府要職歴任して明治15年(1882)58歳す。なお、毅堂は永井荷風母方の祖父に当たるという。

 高灯篭がひときは人目を引く。これは、隅田川を往来する船の安全のための灯台役であったと思われる。
石碑群
高灯篭
 白鬚神社から細い道を南東方向に200mほど来たところに向島百花園がある。

 百花園は文化・文政期(1804〜30)に、骨董商佐原鞠塢(さはらきくう)により開園され、人手を経て昭和13年東京市に寄付され、翌年から有料で公開された。
面積約3万坪である。

 園内には多くの歌碑句碑がある。その中で、芭蕉の句碑をとり上げてみる。
「春もやや けしき ととのう 月と梅」
「こんにゃくの さしみもすこし 
              うめの花」
名勝向島百花園
春もやや句碑
こんにゃく句碑
 こちらは、茶室の前の「茶筅塚」と二世河竹新七の「狂言塚」である。
茶筅塚
狂言塚
 百花園を出て墨堤通りに戻る。歩道に「旧墨堤の道」説明板が立ててある。この辺りは、旧墨堤の面影を今日に残しているという。詳細は、写真をクリックして読んで頂きたい。

 その先の交叉点に子育地蔵尊が祀られている。ここお地蔵さんは、文化年間(1804〜17)に隅田川の堤防修築工事の際、土中から発見されたと伝えられている。お堂の前の坂道は、明治44年(1911)の堤防修築のときにできた坂で、今でも「地蔵坂」の名で知られている。
「旧墨堤の道」の説明板
子育地蔵尊
子育地蔵尊
 子育地蔵尊から墨堤通りを「高速入口」の交叉点に向かって約300m歩く。

 「高速入口」の交叉点から南東に向けて、先にも述べた鳩の街が延びている。昭和20年の空襲焼け残った地域が今でも見られる。道幅は予想よりも狭かった。木造長屋のカフェが見えたり、玄関に透彫(すかしぼり)の欄間がある家がみられた。

 再び墨堤通りに出て、「少年野球場前」の交叉点に向かう。ここで墨堤通りは右に曲がり、真っ直ぐ行く道は「見番通り」と呼ばれる。この先に長命寺と弘福寺が並んでいる。
鳩の街
木造長屋の
カフェ
欄間のある玄関
 長命寺の由来について、次のような話がある。三代将軍家光鷹狩りに来た折急病を発し、この寺の井戸水で薬をのんだところ、たちまち快癒した。家光は霊験を感じ、長名水の名を捧げた。以後、寺号を長命寺と改めたという。

 芭蕉の句碑は、全国に千五百余を数えるというが、中でもこの「いざさらば 雪見にころぶ所まで」雪見の句碑は、最も優れたものの一つという。

 成島柳北(1837〜1884)は、随筆家であり実業家である。日本における生命保険制度創設者で、この碑は実業家としての功績を記念して、明治18年(1885)に建立されたものである。
長命寺
雪見の句碑
成島柳北の碑
 境内の宝篋印塔が、遠目には灯篭のように見えていた。

 堤防に出ると、「長命寺の桜餅」で有名な和菓子屋がある。今日もまた、行列ができるほどの大入り満員である。買う人は、予約が必要とのこと。桜餅は、川を向いて(皮をむいて)食べるものだそうだが、今日は(口?)に入らなかった

 弘福寺の裏門近くに、牛嶋神社旧跡の標柱があった。
宝篋印塔
長命寺の桜餅
牛嶋神社旧跡
 黄檗宗(おうばくしゅう)の弘福寺は、禅宗の中でも中国色の強い宗派だという。門前の標柱亀の背の上に立てられており、山門二重瓦屋根をもつ特色ある建築である。

 本堂屋根にも特徴があり、また正面の両脇には禅宗様の花頭(火灯)窓ではなく、丸窓がしつらえてある。
弘福寺裏門
弘福寺
弘福寺山門
弘福寺本堂
 弘福寺を出て見番通りを約300m来ると、三囲神社にいたる。

 見番とは、お客に対し芸妓料理手配料金の精算などを取り仕切るところであり、芸妓が芸事のお稽古をするところでもある。

 三囲神社の由緒は、中世に社改修に際し、稲を持った神像を土中より掘り出したとき、何処からともなく白狐が現れ、このご神体の周りを3回まわって消えて行ったことによるという。
見番通り
三囲神社
三囲神社
 近代的百貨店の創始者で三越呉服店の会長 日比翁助(1860〜1931)の石垣の歌碑「いしがきの 小石大石持合ひて 御世はゆるがぬ 松ヶ枝の色」がある。

 雨乞いの歌碑は、元禄6年(1693)の大干ばつのとき、宝井其角「遊(ゆ)ふた地や(夕立や)田を見めぐりの神ならば」と詠んだところ、早速翌日雨が降ったという。そこから三囲神社を俳諧の霊場と呼ぶ人もいて、発句塚がある。
石垣の歌碑
雨乞いの歌碑
発句塚。
 古い石灯篭火袋には三つの穴が開いている。藤堂高睦(伊賀上野城主)が宝永3年(1707)に奉納したもので、当神社で最も古い年代を示す石像物という。

 狐を呼び出して願い事を叶えてくれた老翁老嫗(ろうおうろうく)の石像がある。

 目じりの下がった温和な表情の人を「みめぐりのコンコンさんみてぇだ」というそうである。
古い石灯篭
老翁老嫗の石像
みめぐりの
コンコンさん
 三囲神社より300mほど来ると牛嶋(島)神社に至る。途中の言問橋東交叉点から、建設中のスカイツリーがよく見える。

 牛嶋神社は、関東大震災後に、弘福寺の裏手より現在のところに移された。総桧権現造りの社殿は、東都随一という。

 本殿前には、袖(脇)鳥居を持つ珍しい形の三輪鳥居がある。
 
 文政10年(1827)建立の獅子山の獅子が、動的な姿で岩の上から参詣者を見下ろしている。
スカイツリー
牛嶋神社
獅子山(左、雄)
獅子山(右、雌)
 境内には「撫牛(なでうし)」があり、心身快癒の祈願物として信仰されている。この牛の像は、文政8年(1825)ごろ奉納されたといわれ、それ以前は牛型の自然石があったようである。

 「いそかすは 濡れまし物と 夕立の あとよりはるヽ 堪忍(かんにん)の虹」 この狂歌碑は、江戸落語中興の祖と称された烏亭焉馬(うていえんば)が文化7年(1810)に自ら建てた碑である。

 この辺りは向島の花柳界に隣接している関係で、境内には、料理関係の慰霊碑とか包丁塚などが建っている。
 
撫牛
焉馬の狂歌碑
 牛嶋神社を出て、言問橋を渡る。歩道には、桜の絵のタイル板がはめ込まれていて、桜の名所であることをアッピールしている。今年は天候不順で、今日(3月27日)では、まだ3分咲といったところであった。

 右岸の墨田公園内を通って、東武線の上野駅に着く。総行程7km程度であっただろうか。
 
桜の絵のタイル
3分咲の墨田公園
あとがき
 今回の落語「花見酒」は、NHK落語名人選21 六代目春風亭柳橋師のCDに依る。

 今年(平成22年)は温暖化の影響で、桜の開花が早まると予想されていたが、三月に入って寒い日が続き、月末(27日)になってもまだ三分咲の状況であった。落語「花見酒」の舞台「三分咲の向島」ということになっているので、丁度よかったかもしれない。

 現在の隅田川の花見は、隅田公園言問橋近辺が中心になっているようだが、昔は長命寺から三囲神社辺りが、花見の中心であったようである。したがって、この落語の中で花見酒を売りに出向いたのも、この近辺であったろう。
 また落語「やかんなめ」で、武士が頭をなめられたのも、この辺りでの噺のようだ。

 「花見酒」では、「あんまりよくないが悪くもない酒」を2両分買って、4斗樽に入れて担いでいくわけであるが、果たして何升買ったのであろうか。落語の世界において、そんなことを詮索することは野暮というものであるが、チョット探ってみよう。
 超インフレに見舞われた幕末における金1両の価値は、3〜4千円であった。一方、現在の吟醸酒1升の値段が3〜4千円であるから、2両では丁度2升位仕入れたことになる。
 そして噺の中では、樽の底へばりつくくらいしか入っていないことになっているので、やはり2升位であっただろう。また、二人飲み切ったことになっているので、多めにみても2升くらいが限界であろう。というわけで、2升くらいの酒を担いで向島に出かけたことになるのである。ただしここでは、樽の借り代などは無いものとする。

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