大江戸写真散歩

JR秋葉原駅から  神田径由  JR秋葉原駅へ

まえがき
 大店の若旦那が、夏の暑い時期に紀州の蜜柑(みかん)が食べたくなり、恋患いならぬ蜜柑患いということで痩せ衰えていく。番頭さんが方々の八百屋を訪ね歩くが、夏場は蜜柑が腐っていて手に入らない。遂に神田多町の青果市場の一軒の果物屋に行き着き、そこの蔵のなかの山積みの蜜柑の中からたった一つだけまともな蜜柑を見つけ出す。値段を聞くと「千両」だという。千両で息子の命が買えるなら安いものだということになり、早速買ってきて息子に食べさせた。10袋の蜜柑を7袋まで食べ、残りの3袋はお母さんとお父さんと番頭さんにあげるという。3袋を手にして部屋を出た番頭は考えた。来年ののれん分けの時、多くもらっても50両。今、手の中に3袋300両がある。
えぃ!ままよ」と蜜柑を手にして店を逐電してしまった。

 さてこの蜜柑を商っていた店は、上方落語では天満の「赤もん市場」(「赤もん」は果物、「青もん」は野菜のこと)の蜜柑専門店、ということになっているが、江戸落語では神田多町万惣こと万屋惣右衛門の店、ということになっている。

 今回の散歩は、落語の舞台となった「
」の店と、神田の「やっちゃ場(青物市場)」跡を訪ねてみる。スタートはJR秋葉原駅電気街口とする。
地図

地図および写真は
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 JR秋葉原駅の北西側にある秋葉原UDXビル入口に神田青果市場の説明板がある。昭和3年(1928)から平成元年(1989)の61年間、ここに日本一の「神田青果市場」があったことが記されている。この青物市場の前身は、後述する神田多町の「ヤッチャ場」である。現在は大田区東海に移転し、大田市場と名称が変っている。

 中央通を渡って昌平小学校の北側にある公園に来ると、公園南西隅に宝井馬琴旧居跡の説明板がある。宝井馬琴は文政7年(1824)より12年間この地に暮らしていて、70歳のとき、ここから四谷信濃坂に転居している。

 ここから昌平橋へいたる途中の石丸電気ビル北側に、講武稲荷がある。一般に火伏護神であるとともに花街繁昌の神様であると伝えられている。
 
神田青果市場跡
宝井馬琴旧居跡
講武稲荷
 昌平橋を渡りJRの高架線路に沿って神田郵便局横まで来ると、煉瓦壁に御成道跡の説明板がある。御成道(おなりみち)とは、将軍が上野寛永寺へ墓参のために江戸城から神田橋を渡り、この道を通って行ったことに由来する。

 煉瓦壁に沿って200mほど行くと、交通博物館跡に着く。交通博物館は2006年5月限りで閉館し、後継施設として翌年より埼玉県さいたま市鉄道博物館として開館した。

 向い側に、古い看板建築がある。関東大震災(大正12年)の直後に建てたものという。屋根の形が個性的である。
御成道説明板
交通博物館跡
古い看板建築
 靖国通りを渡ると、須田町交差点の南東角に8階建ての万惣ビルがよく見える。ビルの1階は、創業150余年を誇る老舗の高級果物店2階は洋食なども楽しめるフルーツパーラーになっている。

 これが落語千両みかん」に出てくる「万惣」あるいは「万屋惣右衛門」のという。噺の筋を思い浮かべながら、逐電した番頭のその後に、しばし思いを馳せるのである。

 須田町交差点から中央通りを50mほど来て右折し、また100mほど来ると右手に寝装品店が見える。
万惣ビル
万惣果物店
 この寝装品店と隣のビルとの間に「神田青果市場発祥の地」の説明板を見ることができる。もともとここにあった「神田青果市場発祥の地記念碑」はビル建設により撤去され、今は千代田区が保管をしているという。これに代わって新しい碑が、多町大通りの歩道に建てられている。多町の旧名は「田町」で、田圃を埋め立ててできた町という。

 徳川幕府は 各所に散在していた青物商を神田多町の地域に呼び集め, 御用市場として育成した。その結果、1万5千坪に及ぶ大きな市場が形成し、駒込、千住と並び「江戸三大市場」として栄えた。この青果市場を「ヤッチャ場」ともいう。
 明治以降も 政府公認の市場として引継がれたが, 関東大震災で全滅し、昭和3年(1928)前記したように外神田(秋葉原駅北西側)に移転し、平成2年(1990)大田区に再移転した。

 なお、「ヤッチャ場」とは、せりの掛け声から生まれた言葉であるという。そしてここが、(いき)と気負いの「神田っ子気質であるという。
神田青果市場発祥の地の記念碑があったところ
神田青果市場発祥の地の説明板
神田青果市場発祥の地の
新しい碑
 寝装品店の南の筋に松尾神社があった。お酒と関係のある神社かと思ったが、お酒との関係はなさそうである。

 中央通りに出て神田駅に向かう途中に「神田鍛冶町三丁目」の説明板が立っている。鍛治町1丁目と2丁目は鍛冶職人の町であたが、3丁目は「鍋町」と呼ばれた町で、鍋や釜を作る職人住んでいたという。

 長編人情噺の「梅若礼三郎」にでてくる腰の立たなくなった小間物屋利兵衛が住んでいたのも、この鍋町である。
松尾神社
神田鍛冶町
説明板
旭町説明板
 神田駅北口交差点から西に100mほどで多町大通りにでる。江戸時代この界隈は「神田竪大工町」と呼ばれており、幕府の御用を請負った大工や左官たちが多く住んでいた
 落語「子別れ」の大工・熊五郎、「大工調べ」の棟梁・政五郎、「三方一両損」の大工・吉五郎たちもここの住人である。
 
 多町大通りを越して内神田中央通りに入り、100mほど来ると、出世不動通りとの交差点角に佐竹稲荷神社がある。境内には秋田杉が奉納されている。
 この辺りに慶長9年(1604)から70数年間佐竹藩上屋敷があった縁から、明治2年に佐竹藩の家紋より(日と月を取り違えた経緯はあるが)「新革屋町」などの町が「旭町」となり、昭和41年に「内神田」と町名変更になったという。
 
佐竹稲荷
秋田杉
西口商店街
 内神田中央通りを約200m南下すると、竜閑橋交差点にいたる。 竜閑橋は、元禄4年(1691)に開削された神田堀に架かっていた橋で、堀が埋め立てられた現在は、交差点南の小公園に保存されている。橋の名は、近くに住んでいた江戸城殿中接待役の井上龍閑(りゅうかん)に因むという。

 小公園から日東ビル横の小路をJRの高架下をくぐって西に約350m来ると、中央通りに出る。そこに「今川橋跡」の説明板が立っている。今川橋跡の一筋南の通りに家内喜(やなぎ)稲荷神社がある。
龍閑橋
龍閑橋親柱
家内喜稲荷
 神田堀銀堀(しろがねぼり)、神田八丁堀、竜閑川などと呼ばれていて、神田地区日本橋地区境界であったが、今は千代田区と中央区の区境となっている。

 「今川橋」の名は、この地の名主今川善右衛門の姓に因むものである。また、ここは今川焼きの発祥地ともいう。

 神田堀昭和25年(1950)に埋め立てられ、今川橋撤去されて今はその面影はない

 落語「黄金餅」で、西念の葬列駆け抜けた所であり、「反対俥」で、人力俥が客を乗せて走り(歩き)出した所である。

 ビルとビルとの狭い路(神田堀の流れていた跡)を250mほど東に進むと高速道路の高架に突き当たる。
今川橋跡
 
今川橋跡
 高速道路の高架に沿って北に入ると、神田美倉町、神田西福田町となる。神田堀沿いに三つの蔵があったので「三蔵」から「美倉」になったという。また福田は、福田村に由来し、千代田、桜田、神田と並ぶ古くからの地名という。

 神田金物通りを渡る。神田紺屋町は神田北乗物町により南部と北部に分れている。こんな町の形ができたのは、火除け地を作るために、幕府の命により、北乗物町の南部に集まっていた紺屋町の一部を北乗物町の北側に強制移動させられたからである。

 紺屋町には藍染川が流れていた。ここで染められた手拭浴衣は江戸っ子にもてはやされ、紺屋町以外で染めたものは「場違い」といって敬遠されたという。ここには落語「紺屋高尾」の染物屋の職人久蔵が勤めていた所である。
美倉町西福田町
町名由来板
紺屋町
町名由来板
東紺屋町
町名由来板
北乗物町
町名由来板
 神田美倉町から神田東松下町まで、400mの間に7っの町名が並んでいる。道筋を1本通り過ぎるたびに、電柱の町名表示が変わっていく。江戸の町がそのまま今に残っている感じである。各町には、町名由来板が立てられている。

 昭和通りと靖国通りの交叉点が岩本町で、その南西角を少し入ったところに玄武館跡がある。
神田美倉町
神田紺屋町
神田北乗物町
鍛冶町
 千葉周作はここに玄武館を開いて、北辰一刀流剣術指南し、その西隣に東條一堂瑶池塾を開いて諸生に儒学と詩文を教授していた。

 岩本町の北150mで和泉橋にいたる。下は神田川である。西は筋違橋(すじかいばし)より東は浅草橋までの10丁余(約1.1km)の土手に、江戸城鬼門除けの柳が植えられていたという。土手下に三森神社の一つである柳森神社がある(あとの二つは、椙森神社烏森神社)。
玄武館、瑶池塾跡
柳原説明板
 和泉橋を渡ってすぐ左折すると、神田佐久間町の町名由来板が立っている。町名は佐久間平八という材木商が住んでいたことに由来する。この界隈にはとりわけ材木商が多かったので、神田材木町と呼ばれていたという。また、炭や薪を商う店も多くあったという。
 人情噺「塩原多助一代記」で、多助が働いていた炭問屋山口屋善右衛門の店もここにあった。

 町名由来板の下には、佐久間橋の親柱残されている

 丁度ここが秋葉原駅の昭和通り口である。
 今回の散歩は、ここで終了とする。
佐久間町
町名由来板
佐久間橋親柱
あとがき
 今回の散歩は、JR秋葉原の駅から神田地域をJRの高架線路を挟んで北から南へ、そして今川橋跡で折り返して南から北へと歩いた。歩いた距離は、5kmほどであろうか。
神田○○町」と「神田」の冠がついている町名は、整理つきかねている地域であるという。「神田」に隣接する「日本橋」地域もこの例に漏れない。この結果、旧町名から直接間接に江戸の名残りを回顧する手掛かりが、大変多く残されているように思われる。

 タイトル落語編の「千両みかん」となっているが、文中に引用したように、いろいろな落語の舞台となっている町である。これは町の歴史が古く町人が息づいた下町であるからである。町角で、八っさん、熊さん、ご隠居さん擦れ違うような空気が漂っている町であった。

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