大江戸写真散歩
日本橋から 水天宮へ
現在の日本橋は、明治四十四年(1911)東京市により石造二連アーチの道路橋として造られた。橋銘は第十五代将軍徳川慶喜の筆によるものである。 橋の車道中央部(そばに行くことはできない)に「日本国道路元標」が設置されている。この元標の丁度真上に、高速道路に挟まれて、元標の位置を示す柱が建てられている。歩道脇に、誰でもが見られるように、道路元標の複製が置かれている。 |
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橋を装飾している青銅の麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表しているという。 日本橋の上を覆っている高速道路は景観を損なっているので、今後老朽化に伴ってこれを撤去し、ありし日の日本橋川の風景を再現しようとの計画が持ち上がっている。 |
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日本橋からコレド(COREDO=CORE of EDO)の裏の東南角に「名水白木屋の井戸」の碑がある。正徳元年(1711)白木屋の二代目当主が私財を投じて井戸を掘ったところ、たまたま井戸の中から一体の観音像が出たのを機に、こんこんと清水が湧き出した。付近の住民のみならず諸大名の用水ともなって、広く「白木名水」とうたわれたという。 すぐ横に「漱石名作の舞台」の碑がある。漱石の作品には、ここの路地の寄席や料理屋が描かれているという。 江戸橋を通って日本橋川を渡る。ここでも、高速道路が頭を押さえつけるように走っている。 |
井戸の碑 |
の碑 |
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江戸橋から小舟町の交差点を人形町方向に300mほど進むと日本橋小学校入口の交差点に至る。ここを右折して100mほどで瀟洒なデザインの日本橋小学校に至る。正門に向かって左手に西郷隆盛屋敷跡の説明板がある。 正門を出た斜め右前の角に「鯨と海と人形町」の碑がある。この辺りは寛永10年(1633)頃から、江戸歌舞伎の「市村座」「中村座」、人形浄瑠璃の「結城座」「薩摩座」などの小屋が集まり、それらの人形を作る人形師やそれらを商う店が立ち並んで賑わっていた。当時から、鯨の鬚はバネとして人形作りに多用されていた。 そして、昭和8年、正式町名が人形町になった。 |
日本橋小学校
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日本橋小学校から200mほどで新大橋通りに出る。そこを左折して100mほどで茶の木神社に至る。 神社は伏見系の稲荷社で、この土地は下総の佐倉の城主大老堀田家の中屋敷であった。神社はその守護神として祀られていた。社の周囲の土手に茶の木が植栽されていたという。 その先が水天宮前の交差点である。水天宮は安産の神様として名高い。もとは、赤羽橋の有馬藩邸内にあったが、明治になってこの地に移ったという。 |
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本殿の屋根 |
水天宮の交差点から甘酒横丁の交差点を渡った左側に大観音寺があり、鉄造菩薩頭が安置されている。この像は、もと鎌倉の新清水寺にあった観音像であるが、鎌倉時代の火災で崩れてしまい、明治9年(1876)になってここに移されたという。鎌倉時代製作の優秀な作品で、昭和47年都指定有形文化財に指定された。 この先の人形町交差点の東北角に「史蹟 玄冶店」の碑(歌舞伎「与話情浮名横櫛」の舞台)と、その向かいのビルの前に「寄席 末広跡」の盤碑がある。 |
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玄冶店の碑の向い側に「うぶけや」がある。天明3年(1783)創業以来各種打刃物の製造販売を専業としている。屋号は、うぶ毛も剃れる(かみそり・包丁)、抜ける(毛抜き)、切れる(はさみ)という処より名付けられたという。 交差点の東北50mのところに、橘稲荷がある。当初御殿山にあったものが、後に江戸城内に移りさらに将軍家御典医・岡本玄冶に賜って当地に移されたものという。橘は、岡本家に因んだものとされている。 人形町通りの歩道に、街のモニュメントが建てられている。 |
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モニュメント |
水天宮に向かって一つ目の信号器のある通りが甘酒横丁である。角にあった尾張屋という甘酒茶屋が、甘酒横丁の由来という。 日本橋富沢町と日本橋人形町の一角が、元吉原である。甘酒横丁の中程の信号器のある通りが大門通りである。 大門通りを北西に100mほど行った4本目の筋を右折した所に、元吉原の産土神(うぶすなのかみ)である末広神社がある。今は、この辺りは静かな街である。 |
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末広神社の前の道を東北に150mほど行くと浜町緑道に出る。そこに「漢方医学復興の地」の碑がある。 緑道を西北に50mほど行った右手に笠間稲荷がある。この社は、笠間城主牧野家の下屋敷内にあったものである。 緑道を戻って来ると、甘酒横丁との交差点に歌舞伎十八番勧進帳の武蔵坊弁慶の像が建っている。 |
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甘酒横丁を清洲橋通りに出た北東の角が明治座である。明治座のビルの東南角に稲荷神社が祀られている。 |
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明治座と隅田川の間に、浜町公園がある。 ここは江戸時代は細川家の下屋敷があったところで、文久元年(1861)細川斎護が肥後本妙寺の別院として清正公寺を創建した。加藤清正が祀られている。 |
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細川邸の界隈が、「ういた浮いたの浜町河岸に」と歌われた「明治一代女」(花井お梅・箱屋峯吉殺し)の舞台である。 浜町公園の南口から新大橋通りに出て右折し、西南に150mほど来ると明治座前を通っている清洲橋通りとの交差点に出る。ここを左折して100mほど行った右側に浜町神社がある。この神社は、天明年間(1781-89)薩摩藩島津家下屋敷(港区白金台)に島津稲荷大明神を祀ったのが始まりで、後にこの地に移ったという。 新大橋通りに戻り、西南に400mほど行くと、地下鉄半蔵門線の水天宮駅に着く。 今回の散歩は、ここをゴールとする。 |
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あとがき このホームページ「大江戸写真散歩」においては、京橋、猿若町、人形町の各地において歌舞伎関連の話を紹介しているので、それらの時系列的繋がりをここで補足しておく。 1、慶長年間(1596-1615)、出雲阿国が京都において歌舞伎踊りをもって世に出た。寛永元年(1624)2月には、既に猿若勘三郎(後の初代中村勘三郎)が江戸中橋の辺り(現京橋辺り)で猿若座の芝居櫓を上げたという。これが江戸歌舞伎の濫觴といわれている( 落語編「黄金餅・その1」京橋の項参照)。 2、猿若座は、その後日本橋堀留町辺りへ移転させられ、またその後、日本橋人形町3丁目辺りに移転させられて中村座と改称した。 一方寛永11年(1634)には村山座(後の市村座)が櫓を上げて、この一帯は芝居茶屋や役者や芝居関係者の住居がひしめき、一大芝居町を形成した。これが今回散策した人形町界隈である。 3、下って天保12年(1841)の大火で、中村座、市村座などが焼け落ちた。折りしも老中・水野忠邦の「天保の改革」に際して芝居小屋廃止を打ち出すことになったが、遠山左衛門尉影元(遠山の金さん)の献策を受けて、日本橋人形町周辺にあった芝居小屋を江戸城外堀の郊外に当たる浅草寺北の地へ強制移転させることにした。 かくして天保13年(1842)、当地に新しく芝居町が造られ、江戸歌舞伎の始祖である猿若勘三郎の名から「猿若町」と命名された。ここにもまた、大勢の江戸の人々が「猿若三座」(中村座・市村座・森田座)の歌舞伎や人形浄瑠璃を見物するため繰り出し町は繁盛した。 (落語編「付き馬・吉原コース1」猿若町の項参照)。 |
(落語編 「黄金餅その1」 京橋の項参照) |
浅草猿若町と 守田座の碑 (落語編 「付き馬・吉原コース1」 猿若町の項 参照) |