大江戸写真散歩
亀戸から 錦糸町へ
明治通りを北に500mほど行くと蔵前橋通りとの交差点にでる。 ここを左折するとすぐ北に入る商店街が見える。香取神社表参道である。ここを北に約400m進むと香取神社に至る。 |
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境内は広々としており、亀戸大根の碑が建てられていたり亀が井が祀られている。 この辺りの地質は大根の栽培に適しており、江戸後期から大正頃まで、大根の一大産地であったという。 |
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香取神社の裏手に北十間川が流れており、福神橋が架かっている。その下流の境橋の袂に裕天堂がある。お堂の横に道標が建てられていて「やくしみち」と読める(木下川薬師道)。 香取神社表参道の一本西の通りに普門院がある。この寺は三股城中(足立区千住)に創建され、元和2年(1616)に現在地に移った。その時、過って梵鐘を隅田川に沈めてしまった。これが、鐘ケ淵(墨田区)の地名の由来になっているという。 |
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普門院の西側の道から亀戸天神の境内に入ることもできるが、敢えて明治通りに出て正面の鳥居から入って参詣する。 写真の本殿は、太鼓橋の上から撮ったものである。 |
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神社の名物として、太鼓橋、鷽取替え神事、塩原太助寄進の石灯篭などがある。 菅公は菅原道真公。鷽は幸運を招く鳥で、嘘を誠に取り替える、または凶を嘘に換える。中江兆民は江戸時代後期から明治にかけての思想家・政治家。塩原太助は江戸時代中期の豪商である。 |
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亀戸天神の境内を一巡して蔵前橋通りに戻り、先に進むと横十間川に出る。そこに架かるのが天神橋であり、右岸北詰に亀戸天神社の標石が建っている。 |
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横十間川の左岸を北に500mほど進むと、萩寺として有名な柳源寺改め(時代不明)龍眼寺(りゅうげんじ)に至る。 芭蕉の句碑「濡れてゆく 人もおかしや雨の萩」をはじめ、多くの句碑や歌碑がある。 |
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門を入ってすぐ左にある庚申塔には万治2年(1659)の銘があり、塔の上部に三つの種子(しゅじ、梵字)が刻まれ、その下に三猿が並んで彫られている。 庚申塔の傍に、石造の布袋様が大きな口をあけて笑っている。お賽銭に枯葉が1枚混じっている。狸がお参りに来たのであろうか。 |
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龍眼寺の裏手に天祖神社がある。社伝によれば推古天皇の治世(593〜628)の創建という。この辺りは、昔は柳島村と呼ばれていたという。 神社の裏手が先に見た北十間川で、ここで横十間川が合流している。 ここに架かる橋が柳島橋で、橋の脇に中村仲蔵が願をかけて日参した妙見さま(妙見山法性寺)がある。仲蔵の住まいは人形町辺りというから、両国橋を渡っていくと片道凡そ6kmである。 |
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寺の入口に「北辰妙見大菩薩」右側面「妙見山法性寺」と刻まれた古い標石が建っている。 門を入ると左手に「侠客上萬墓」「侠魂碑」があり、その右手に落語柳派の「昔ばなし 柳塚」の碑がある。ちなみに、三遊派の塚は木母寺(墨田区)にあるという。 門の右手に「桂家元 六世文治之碑」をはじめ、以下の碑がある。 |
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「葛飾北斎辰政翁顕彰碑」「近松門左衛門碑」などがある。 中村仲蔵が日参していた法性寺を出ると、左手斜め前に十間橋が見える。 |
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十間橋の上から、目下建設が進められている634mの新東京タワー(東京スカイツリー)が見える。 浅草通りに出て400mも行くと四つ目通りとの交差点に出る。四つ目屋に関係した通りではなく、三つ目、四つ目と順に通りの名がついている。 |
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新東京タワー
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交差点の先左側に春慶寺がある。四世鶴屋南北の墓があり、墓石の左右には歌舞伎役者の名が連なっている。 また「岸井左馬之助寄宿の寺(鬼平犯科帳)」という名盤も出ている。 この寺の一筋西辺りが、志ん生師匠が住んでいたナメクジ長屋があったところである。 お寺の目の前に、建設中の新東京タワーが見える。 |
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鶴屋南北の墓 |
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春慶寺から400mほどで大横川親水公園に至る。釣りを楽しんでいる人がいる。 公園を南に進むと平河橋、横川橋と続づいて頭上に現れる。 |
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横川橋下の右岸を注意深く見ると、「下水管渠埋設位置」の名盤を見ることができる。 ここが北割下水(「あとがき」参照)の跡だろうと推定される。公園の上に出ると、そこは春日通りである。 |
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春日通りを西に80mほど行って信号を左に折れ、また次の信号まで150mほど行くと、妙見山別院がある。 勝海舟が9歳のとき大怪我をし、妙見さまのご利益により九死に一生を得た由緒をもって、ここに胸像が建てられている。 |
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別院を出て法(報)恩寺橋を渡り、すぐ右折して50mほど行った2本目の角を左に曲がると法恩寺の参道がある。 法恩寺は太田道灌が江戸城内に開基し、元禄8年(1695)この地に移転したものである。 |
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門を入ると左手に天平風新様式の鐘楼三重塔、右手に太田道灌の碑がある。墓地には、太田道灌の供養墓がある。 境内には、花塚と木鋏の塚がある。 法性寺を出て大横川親水公園に戻り南に歩を進めると、清平橋から長崎橋跡に至る。長崎橋は北斎通りに架かっていて、南割下水が流れていた通りである。 中村仲蔵が雨に降られて蕎麦屋に飛び込んだのは、この辺りと推測される。 |
大田道灌供養墓 |
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長崎橋は元禄10年(1697)に架けられた。今は橋はない。昭和4年に架けられた鋼橋の模型と名盤が保存されている。橋名は、本所長崎町の地名に因んでいる。 葛飾北斎出身地に因んだ北斎通りを東に少し行くと、この地にあった津軽藩下屋敷内の稲荷神社が今も祀られている。 ここから東に約500m行くとJR錦糸町駅である。 |
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あとがき 「役者の身分制度」は時代により変わりがあるものの、「人足」から始まって、次に「大部屋」に入り、「相中(あいちゅう)」「相中上分(あいちゅうかみぶん)」「名題下(なだいした)」を経て、「名題(なだい)」になるという。「名題」の敬称は「親方」である。落語では「師匠」、講談では「先生」という。 現在は、名題俳優(名題役者)になるには「名題資格審査」(名題試験)に合格して「名題適任証」を取得し、関係方面の賛同を得て「名題昇進披露」を行う必要があるという。 次に「割下水」であるが、これは江戸本所にあった掘り割っただけの下水道で、南北2条あった。北は本所2丁目辺りから、南は亀沢2丁目辺りから横十間川まで通っていた。下水とはいえ、幅4〜6尺(1.2〜1.8m)もあり、下水の両側は道になっていた。ただ単に割下水といえば、南割下水を指すという。 今回の散歩は、JR錦糸町駅をもって終着点とする。 補足:中村仲蔵の墓は谷中霊園にある。地図、写真など詳細は 本ホームページ落語編の「屋根千コース その1」を参照してください。 |
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