大江戸写真散歩

亀戸から   錦糸町へ

まえがき
 名題役者(「あとがき」参照)に昇進した中村仲蔵は、次回上演の「忠臣蔵」において、当然いい役が割当てられるものと期待していた。しかし、割当てられたのは5段目の斧定九郎の一役のみであった。5段目は観客が昼食の弁当を飲み食いしながら舞台を見るという「弁当幕」となるので、定九郎はつまらぬ役柄である。落胆する仲蔵は女房お岸の励ましにより、観客あっと驚くような定九郎の(こしら)えができるように日ごろ信心をしている柳島妙見さまに7日間のを懸ける。しかし、満願の日を迎えても工夫がまとまらない。帰路について割下水(「あとがき」参照)の角まで来ると急に雨が降り出したので、近くの蕎麦屋に入る。思案を凝らしていると、突然浪人風情の侍が飛び込んできた。見ればその成りといい、ずぶ濡れになった様といい、破れ唐傘から雪駄にいたるまで、定九郎の拵えにピッタリであった。
 「うんー、これだ。妙見さまのお引き合わせ」と思案をまとめ、もろもろの準備を整えて初日を迎えた。観客は、従来と異なった定九郎の所作に感動して静まり返ってしまった。仲蔵は、てっきりやりそこなったものと勘違いをし、落胆のあまり上方に修行の旅に出ようとする。そこへ親方からお呼びがかかる。行ってみると意に反して、大変よくできたとお褒めの言葉ご褒美に立派な煙草入れを戴くことになる。急いで家に帰り「全くお前の意見のおかげだった」と女房のお岸を拝む。「いやだよ。しくじったとか、お前のおかげだとか。私は煙に巻かれちゃうよ」「煙に巻かれちゃう?オッ、貰ったのが煙草入れ
 以上が落語の粗筋であるが、これは実話に基づいているという。

 今回は、JR総武線亀戸駅北口からスタートし錦糸町駅に至るコースであるが、神社やお寺の境内を巡るので約5kmの歩行距離である。
地図
 明治通りを北に500mほど行くと蔵前橋通りとの交差点にでる。

 ここを左折するとすぐ北に入る商店街が見える。香取神社表参道である。ここを北に約400m進むと香取神社に至る。
亀戸4丁目交差点
香取神社表参道
香取神社
 境内は広々としており、亀戸大根の碑が建てられていたり亀が井が祀られている。

 この辺りの地質は大根の栽培に適しており、江戸後期から大正頃まで、大根の一大産地であったという。
本殿
亀戸大根の碑
亀が井
 香取神社の裏手に北十間川が流れており、福神橋が架かっている。その下流の境橋の袂に裕天堂がある。お堂の横に道標が建てられていて「やくしみち」と読める(木下川薬師道)。

 香取神社表参道の一本西の通りに普門院がある。この寺は三股城中(足立区千住)に創建され、元和2年(1616)に現在地に移った。その時、過って梵鐘隅田川沈めてしまった。これが、鐘ケ淵(墨田区)の地名の由来になっているという。
裕天堂
普門院
 普門院の西側の道から亀戸天神の境内に入ることもできるが、敢えて明治通りに出て正面の鳥居から入って参詣する。

 写真の本殿は、太鼓橋の上から撮ったものである。
歩道の絵タイル
亀戸天神参道
亀戸天神
本殿
 神社の名物として、太鼓橋、鷽取替え神事、塩原太助寄進の石灯篭などがある。

 菅公は菅原道真公。は幸運を招く鳥で、取り替える、または凶を嘘に換える。中江兆民は江戸時代後期から明治にかけての思想家・政治家塩原太助は江戸時代中期の豪商である。
5歳の菅公像
鷽の碑
中江兆民翁之碑
塩原太助寄進の石灯篭
 亀戸天神の境内を一巡して蔵前橋通りに戻り、先に進むと横十間川に出る。そこに架かるのが天神橋であり、右岸北詰に亀戸天神社の標石が建っている。
天神橋
亀戸天神社標石
 横十間川の左岸を北に500mほど進むと、萩寺として有名な柳源寺改め(時代不明)龍眼寺(りゅうげんじ)に至る。

 芭蕉の句碑「濡れてゆく 人もおかしや雨の萩」をはじめ、多くの句碑や歌碑がある。
龍眼寺
泉水庭園
芭蕉の句碑
 門を入ってすぐ左にある庚申塔には万治2年(1659)の銘があり、塔の上部に三つの種子(しゅじ、梵字)が刻まれ、その下に三猿が並んで彫られている。

 庚申塔の傍に、石造の布袋様が大きな口をあけて笑っている。お賽銭に枯葉が1枚混じっている。がお参りに来たのであろうか。
庚申塔
布袋尊
 龍眼寺の裏手に天祖神社がある。社伝によれば推古天皇の治世(593〜628)の創建という。この辺りは、昔は柳島村と呼ばれていたという。

 神社の裏手が先に見た北十間川で、ここで横十間川合流している。

 ここに架かる橋が柳島橋で、橋の脇に中村仲蔵が願をかけて日参した妙見さま妙見山法性寺)がある。仲蔵の住まいは人形町辺りというから、両国橋を渡っていくと片道凡そ6kmである。
天祖神社
柳島橋
 寺の入口に「北辰妙見大菩薩」右側面「妙見山法性寺」と刻まれた古い標石が建っている。

 門を入ると左手に「侠客上萬墓」「侠魂碑」があり、その右手に落語柳派の「昔ばなし 柳塚」の碑がある。ちなみに、三遊派の塚は木母寺(墨田区)にあるという。

 門の右手に「桂家元 六世文治之碑」をはじめ、以下の碑がある。
法性寺の入口
門前の標石
柳塚
六世文治之碑
 「葛飾北斎辰政翁顕彰碑」「近松門左衛門碑」などがある。

 中村仲蔵が日参していた法性寺を出ると、左手斜め前に十間橋が見える。
葛飾北斎顕彰碑
北斎の絵
近松門左衛門碑
 十間橋の上から、目下建設が進められている634mの新東京タワー(東京スカイツリー)が見える。

 浅草通りに出て400mも行くと四つ目通りとの交差点に出る。四つ目屋に関係した通りではなく、三つ目、四つ目と順に通りの名がついている。
十間橋
新東京タワー
四つ目通り
 交差点の先左側に春慶寺がある。四世鶴屋南北の墓があり、墓石の左右には歌舞伎役者の名が連なっている。

 また「岸井左馬之助寄宿の寺(鬼平犯科帳)」という名盤も出ている。

 この寺の一筋西辺りが、志ん生師匠が住んでいたナメクジ長屋があったところである。

 お寺の目の前に、建設中の新東京タワーが見える。
春慶寺
鶴屋南北の墓
左馬之助寄宿寺
 春慶寺から400mほどで大横川親水公園に至る。釣りを楽しんでいる人がいる。

公園を南に進むと平河橋横川橋と続づいて頭上に現れる。
新東京タワー
大横川親水公園
横川橋
下水菅渠埋設場所
 横川橋下の右岸を注意深く見ると、「下水管渠埋設位置」の名盤を見ることができる。

 ここが北割下水(「あとがき」参照)の跡だろうと推定される。公園の上に出ると、そこは春日通りである。
埋設位置の名盤
横川橋
春日通り
 春日通りを西に80mほど行って信号を左に折れ、また次の信号まで150mほど行くと、妙見山別院がある。

 勝海舟が9歳のとき大怪我をし、妙見さまのご利益により九死に一生を得た由緒をもって、ここに胸像が建てられている。
妙見山別院
本堂
勝海舟像
 別院を出て法(報)恩寺橋を渡り、すぐ右折して50mほど行った2本目の角を左に曲がると法恩寺の参道がある。

 法恩寺は太田道灌江戸城内に開基し、元禄8年(1695)この地に移転したものである。
法恩寺橋
法恩寺参道入口
法恩寺
鐘楼三重塔
 門を入ると左手に天平風新様式の鐘楼三重塔、右手に太田道灌の碑がある。墓地には、太田道灌の供養墓がある。

 境内には、花塚木鋏の塚がある。

 法性寺を出て大横川親水公園に戻り南に歩を進めると、清平橋から長崎橋跡に至る。長崎橋北斎通りに架かっていて、南割下水が流れていた通りである。

 中村仲蔵が雨に降られて蕎麦屋に飛び込んだのは、この辺りと推測される。
大田道灌供養墓
大田道灌碑
花塚
 長崎橋元禄10年(1697)に架けられた今は橋はない昭和4年に架けられた鋼橋の模型名盤保存されている。橋名は、本所長崎町の地名に因んでいる

 葛飾北斎出身地に因んだ北斎通りを東に少し行くと、この地にあった津軽藩下屋敷内の稲荷神社が今も祀られている。

 ここから東に約500m行くとJR錦糸町駅である。
長崎橋模型と名盤
北斎通り
津軽稲荷神社
津軽稲荷神社
あとがき
 「役者の身分制度」は時代により変わりがあるものの、「人足」から始まって、次に「大部屋」に入り、「相中(あいちゅう)」「相中上分(あいちゅうかみぶん)」「名題下(なだいした)」を経て、「名題(なだい)」になるという。「名題の敬称は「親方」である。落語では「師匠」、講談では「先生」という。
 現在は、名題俳優名題役者)になるには「名題資格審査」(名題試験)に合格して「名題適任証」を取得し、関係方面の賛同を得て「名題昇進披露」を行う必要があるという。

 次に「割下水」であるが、これは江戸本所にあった掘り割っただけの下水道で、南北2条あった。本所2丁目辺りから、亀沢2丁目辺りから横十間川まで通っていた。下水とはいえ、幅4〜6尺(1.2〜1.8m)もあり、下水の両側は道になっていた。ただ単に割下水といえば、南割下水を指すという。

 今回の散歩は、JR錦糸町駅をもって終着点とする。


 補足中村仲蔵の墓谷中霊園にある。地図、写真など詳細は
本ホームページ落語編の「屋根千コース その1」を参照してください。
錦糸町駅前風景

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