大江戸写真散歩
==副題「八百屋お七コース」==
JR駒込駅より 地下鉄三田線白山駅まで
JR山手線の駒込駅を出ると本郷通りの向こう側に大国(だいこく)神社が見える。祭神は大国主命で、 出世大黒とも呼ばれている。境内は広くはないが、この辺りは、そうじて桜の樹が多い。ソメイヨシノの発祥の地に近いせいであろう。 大黒神社から本郷通りを南に100mほど来た左側に、六義園(りくぎえん)の染井門がある。ここは、柳沢吉保の下屋敷に造られた面積約9万平方メートルの「回遊式築山泉水庭園」の跡である。 |
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六義園は、小石川後楽園と並んで江戸の二大名庭園であるが、園内を回遊するのはまたの機会にして先へ進むこととする。 染井門から550mほど来ると左手に、富士神社がる。祭神は、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)で、氏子を持たず富士講組織で成り立っていた。社地は富士塚と呼ばれた古墳であったが、今は「駒込のお富士さん」といわれていて、階段を上った塚の頂に社がある。 なお、江戸の人口急増に対処して、富士神社周辺の農家では各種の野菜が盛んに栽培された。中でも「駒込ナス」は特に有名であった。 |
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富士神社を出て200mほど来ると、左手に天祖神社の標石が見える。 江戸時代は駒込神明宮と称され駒込の総鎮守産土(うぶすな)神として仰がれてきた。明治になって、天祖神社と改称された。 |
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天祖神社の拝殿に向かって左手に、縁結び、子育ての地蔵尊が祀られている。赤い横断幕がよく目立つ。江戸時代は縛られ地蔵尊であったという。願を掛ける者は新縄で尊像を縛り、満願成就の日にその縄を解いて祷りをささげる風習があったという。 |
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天祖神社の右手奥に、名主屋敷がある。表門は、享保2年(1717)に再建せられたものが今に残っているという。役所跡として全体の遺構をよく保存しているという。 |
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再び本郷通りに出て250mほど南に来ると左手に吉祥寺がある。 享和2年(1802)再建の山門を入って左手に、大きな「お七、吉三郎 比翼塚」の碑が建っている。 史実とは関係がないが、井原西鶴の「好色5人女」をはじめ歌舞伎、浄瑠璃では、吉祥寺が悲恋の舞台となっている。その関係者が建立した碑である。 境内には、駒澤大学の前身に当たる「栴檀林(せんだんりん)」(僧侶の学問所)があって常時1000人の学僧がいたという。今日でも、境内はたいそう広い。 |
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境内には、明治の小説家川上眉山の墓や江戸時代の農政家二宮尊徳の墓碑がある。 |
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吉祥寺から本郷通りを200mほど来ると、右側に南谷寺がある。境内を入って右手に、江戸五色不動の一つである目赤不動尊が祀られている。 この「大江戸写真散歩」のシリーズの中で、目黒(竜泉寺)、目白(金乗院)、目黄(永久寺)は、すでにお参りしてきた所である。残る目青不動尊は三軒茶屋の教学院である。 |
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南谷寺から200mほど来た、地下鉄南北線の本駒込駅の近くに天栄寺がある。門の左右に「江戸三大青物市場遺跡」「白鳥神社誌」「駒込土物店(つちものだな)跡」「史跡文化財 駒込土物店跡」「駒込土物店縁起」などの碑や説明板が建てられている。 天栄寺門前一帯は駒込ナスを始め大根、人参、ごぼうなど、土のついたままの野菜が取引されていた。神田および千住とともに江戸三大市場の一つであり、幕府の御用市場であった。昭和12年(1937)、巣鴨に移転して豊島青果市場となって現在に至っている。 |
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天栄寺前の歩道橋を渡り駒本小学校の方に50mほどいくと、高林寺の標石が目に付く。ここを入ると、正面が駒本小学校、左手が高林寺である。 境内には、江戸末期の蘭学者で、大坂に滴々斎塾(適塾)を開き、三千人に及ぶ門弟の教育に当たった緒方洪庵(おがたこうあん)の墓がある。 高林寺を出て本郷通りに戻り、南に200mほど来て専西寺(金色のパゴダ風の建物が目に付く)の角を左折して150mほど行くと海蔵寺がある。 |
高林寺入口 |
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緒方洪庵墓 |
海蔵寺の境内には、富士山で断食入定した富士信仰中興の祖とされている身禄行者(1671〜1733)の墓がある。 山門を入ってすぐ左に「都家かつ江之碑」がある。碑の左側面には「秋草の 中にまじりて一輪の 野菊ぞ床し その君に似て」と、漫才の相方であった夫君福丸の歌が、右側面には「君が弾く 三味線の音に 唄ごえに 人は笑って また人は泣く」と森重久弥の歌が刻まれている。 横にある灯篭は、上野鈴本の玄関に在ったもので、寄席の改築に際し、寄贈されてかつ江宅にあったものをここに移したという。 |
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本郷通りに出て150mほど先に進むと、大きな布袋様の彩色立像が歩道に面して建てられている。淨心寺である。お臍が頭の上から人々をにらみ下ろしている図も珍しいので、足を延ばしてお参りしてくる。 |
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淨心寺を出て本郷通りを200mほど戻ると、通りの左側に都立向丘高等学校が見える。学校の塀に沿って左に100m弱も行くと、天和2年(1682)の大火の火元といわれている大円寺の裏門に着く。 左側の境内には、ほうろく地蔵尊がある。八百屋お七の罪業を救うために熱したほうろくを頭に被り、自ら焦熱の苦しみを受けたお地蔵様とされている。また、頭痛、眼病、耳、鼻など首から上の病気を治すお地蔵様として有名である。 |
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裏門の右側にある墓域には、幕末の砲術家高島秋帆の墓や明治の小説家で樋口一葉の「たけくらべ」を絶賛した斉藤緑雨の墓がある。 |
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大円寺を出て、旧白山通りをわたり、左斜め前の道を入ると下り坂になる。この坂が、お七坂ともいわれている浄心寺坂である。坂を下った左側に、天和の大火で焼け出されたお七が避難をして仮住まいをしていた、菩提寺の円乗寺がある。お七はこの寺の小姓吉三と恋におち、仮住まいが解けたあとも、火事になればまた吉三に会えると、恋慕のあまり放火におよぶのである。 寺の入口左側にお七地蔵尊が祀られており、民家に挟まれた細い参道を入ると正面左手にお七の墓がある。 |
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お七の墓には三基の墓石があるが、うち中央は寺の住職が供養のために建てたもの、右側のは寛政年間(1789〜1801)岩井半四郎がお七を演じ好評であったので建立したもの、左側のは近所の有志が270年忌の供養で建立したものである。 浄心寺坂を下って白山通りに出ると、そこが地下鉄三田線の白山駅である。今回の散歩は、ここまでとする。 |
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あとがき 八百屋お七が恋慕した吉三は後日僧西運として出家し、お七を弔うために目黒行人坂の明王院にいました。明王院は明治13年(1890)に大円寺に吸収されましたが、現在の阿弥陀堂にはお七と西運の像が祀られているといわれている。 行人坂の大円寺については、「落語 目黒のさんま」の最後のところで紹介しておきましたが、この寺は明和9年(1772)におきた「行人坂の大火」、いわゆる「迷惑火事」の火元で、その犠牲者追悼のための石造の五百羅漢像が多く並んでいるお寺です。 なお、お七の家(八百屋)は、東大正門の前辺りにあったという。 八百屋お七については、井原西鶴の「好色五人女」など古来いろいろ書かれ語られて異説が多いので、一筋縄で説明することは甚だ難しいが、その中でも、ポイントとなる点を一応巡り歩いた。 |