大江戸写真散歩
聖橋から 湯島切通しへ
まえがき 初天神は1月25日で,たくさんの出店が並び多くの参詣人でにぎわう。 落語「初天神」の筋書きは、親父が湯島の天満宮に出かけようとすると、坊やが「あれ買って、これ買ってとねだらないから、連れて行っておくれ」と食い下がる。女房も「連れて行っておやり」というので二人は連れだって出かけたが、案の定「飴がほしい」「団子が食べたい」と駄々をこねる。親父は「子供なんか、連れてくるんじゃなかった」とぼやくことしきり。最後に凧を買わされるが、いい風が吹いていて高々と上がる。つい親父の方が夢中になって、坊やが置いてきぼりになってしまう。坊や「こんなんだったら、親父を連れてくるんじゃなかった」。 今回の散歩は、孔子をお祀りし、後に江戸幕府の学問所になった湯島の聖堂から、学問の神様を祀る湯島の天満宮まで、直線距離にして1kmばかりであるが、例によって境内を右に左に寄り道をしながら、じっくりと見てまわることとする。 |
地図 |
聖橋の下をくぐると下り坂になり、左手に聖堂の築地塀が見える。この坂を相生坂という。よく昌平坂に間違えられるが、本来の昌平坂は聖堂の東側の坂だという。しかし両方とも昌平坂でとおっているともいう。 孔子は2,560年ほど前、魯の国(今の山東省曲阜市)昌平郷に生まれた。坂の名は、この地名にちなんでいる。 昌平坂の手前に入口があり、左手に説明板がある。 |
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入口の左手に、廟へ通じる仰高門がある。 2枚の説明板があり、孔子廟、学問所、明治維新の大学設立の経緯などが書かれている。そのうち1枚は、文部省のものである。 事務棟、講堂として斯文会館がある。 |
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仰高門をくぐると、突き当たりに楷樹が見える。楷(かい)は曲阜にある孔子の墓所に植えられている樹で、枝や葉が整然としているので、楷書の語源になっているという。 道の右手に、台湾で製造された大きな孔子の銅像が建っている。私は、この孔子の後姿、特に背中の丸みが好きである。 孔子像のずっと奥に神農廟があるが、大掛かりな造園工事中であったので、行くのを遠慮した。 |
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各門や大成殿の配置は、先の説明板を参照してください。 入徳門は宝永元年(1704)に建てられたものが残っている。他の建物は関東大震災によって焼失し、昭和10年(1935)鉄筋コンクリート造りで再建されたものである。補修中の入徳門には「漆がまだ乾いていません。かぶれますので、近寄らないで下さい。」との貼紙が出されていた。 |
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入徳門の奥の石段を上がると杏壇門があり、そのまた奥に左右に回廊をもつ前庭があって、正面に孔子廟である大成殿がある。当日は、筑波大学の彫塑展がおこなわれており、作品が写っている。屋根の装飾は、中国スタイルである。 杏壇門を出た右手に西門がある。西門を出て右に100mほど行くと御茶ノ水公園があって本郷通りに出る。 |
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本郷通りを渡ったすぐ右手が神田明神(正式には神田神社)である。門前の甘酒屋で小腹を満たし、随身門をくぐって拝殿に進む。 当日は新年祭(春大祭)が執り行われており、神官および大勢のハッピ姿の氏子たちが集まっていた。いなせな木遣りを耳にすることができた。 |
神田明神 |
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神田明神の祭神はだいこく様、えびす様、平将門となっており、江戸総鎮守と書かれている。 境内には、石像としては日本一の大黒像、波乗り恵比寿像、獅子山と夫婦石獅子、小唄関係の碑や顕彰灯篭、国学発祥の地碑、銭形平次の碑などがある。また摂社に江戸神社(江戸最古の神社)、小船町と大伝馬町の八雲神社、末社に先回落語「猫定」で訪れた魚河岸水神社をはじめ、多くの神社が鎮座されている。 |
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随身門を出て右折し、古民家が移築されている宮本公園を通り抜けて蔵前橋通りに出る。この交差点が清水坂下で、その先の1本目の通りを右に入ると妻恋神社である。神社の前が嬬恋坂である。 日本武尊が三浦半島から房総へ渡るとき暴風雨にあい、妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)が海に身を投じて海神を鎮めた。途中尊が湯島に滞在したとき、郷民が尊の妃を慕われる心を哀れんで、尊と妃を祀ったのがこの神社の起りと伝えられている。 |
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今来た清水坂を上っていくと、三組坂上にいたる。ここから東に向けて三組坂が下っている。元和2年(1616)徳川家康が駿府で亡くなったとき、仕えていた中間、小人、駕籠方の三組が江戸に返され、この地に屋敷地を賜ったのが坂の由来という。 三組坂上をなおも北に進むと、実盛坂である。斉藤実盛は、敵に首を打たれても見苦しくないように白髪を黒く染めていたという物語があるが、その実盛の屋敷が坂の下にあったという。 その先に、嬬恋坂と天神男坂の中間に造られたので中坂と呼ばれている坂がある。 |
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中坂の先がすぐ湯島天満宮(湯島天神、湯島神社)がある。銅製の表鳥居の脚部に、唐獅子頭部の装飾があるのは特異なものである。 今でも休祭日には参道に多くの屋台が並び、落語「初天神」の坊やならずともあれ欲しい、これ買ってと、いいたくなる風情である。この辺りは台地の張り出した部分に当たり、凧を揚げるには丁度よい地形になっているように思われる。 また、落語「御慶」で、八五郎が千両の富くじを当てたのもこの境内であった。江戸でもっとも有名なのは、谷中感応寺、目黒不動、湯島天満宮の3ヶ所で「三富」といわれていた。 |
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境内には、包丁塚、包丁碑、文房具の碑、瓦斯灯などがあるが、その他に、嘉永3年(1850)江戸で始めて立てられた迷子探しの奇縁氷人石(右側面に「たづぬるかた」、左側面に「をしふるかた」とある)、泉鏡花の筆塚、新派の碑、講談高座発祥の地碑、都々逸之碑などもある。 |
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神社から天神下に下る坂道には、直線的急勾配の男坂と、途中に足休めがあって緩やかな女坂とがある。女坂の途中に小机を出した占師がいて、通行人と何か話をしていた(写真の左側)。 落語「御慶」のなかで八五郎が占師に「梯子は上るためのものだ。845と下るより、548と上る番号を買え」と教えられたのも、この辺りであっただろうか。落語の情景が髣髴と思い出されてくる。 神社の裏手に回ると夫婦坂があり湯島の切通しに通じている。 |
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湯島の切通しは春日通りで、説明板には、切通坂と出ている。湯島の台地から御徒町方面への交通の便を考え、新しく切り開いてできた坂なのでその名がある。始めは急な石ころ道であったが、明治37年(1907)緩やかな坂とし、電車を通したとある。 落語「柳田格之進」で、格之進が質屋の番頭徳兵衛とばったり出会ったのがこの切通坂であった。道幅は今よりずっと狭かったので、すれ違う徳兵衛をよく認識できたのであろう。格之進は「湯島にはよい茶屋があるから」と、徳兵衛を連れて茶屋に行く。そこで、紛失した50両が、後日出てきたことを聞かされる。この噺は、落し噺というよりは長編の人情話である。 噺の筋は、落語「付き馬」(吉原コース1)の「あとがき」に記してあるので、参照してもらいたい。 |
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あとがき 切通坂を下って天神下に出れば、地下鉄千代田線の湯島駅である。この辺りで今回の散歩を終える予定であったが、とんだ寄り道をすることになった。 というのは、天神下の交差点に出る1本手前の角で、コーヒーのえもいわれぬ美香が春風に乗って滑るように流れてきて、疲れた体を包み込んだのである。するとわが身は、「コーヒー飲みたい、コーヒー飲みたい」と駄々をこねる初天神の坊やに変身し、ついつい香りの源泉に足が向いていったのである。 2〜30mでコーヒー豆を煎り売りしている専門店の前に来た。3〜4人の先客が、店先の椅子に腰掛けてコーヒーをすすっている。 今日、外国旅行から成田に帰国し、2,3日東京見物をしてから北海道に帰るという人、近所の人、通りすがりの人、それに隣家のお年寄を交えて話が弾む。私も豆を注文し、焙煎できるまでコーヒーを飲みながら、みんなの話の仲間に入れてもらう。知らない同士が、打ち溶け合ってひと時をすごす下町の人情味が嬉しかった。 知らぬ間に待ち時間が過ぎ、疲れも取れた。初天神の坊やも満足した。改めて終着点の天神下に向けて歩を進めた。 |
話の弾む珈琲店前 |