大江戸写真散歩
大江戸線築地市場駅から 新橋芝口御門まで
まえがき 「猫定」という噺は、落語というよりは猫の報恩仇討ちの噺である。 八丁堀の魚屋の定吉は、実は博徒である。ある日殺されそうになっていた黒猫を助けたところ、この猫が賽の目が半のときは1回「にゃん」と鳴き、丁のときは「にゃんにゃん」と2回鳴いて出目を教えるようになる。定吉は猫を懐に抱いて可愛がるので、人は定吉を「猫定」と呼ぶようになる。一方女房のお滝は間男をして、定吉を殺す算段をする。ある雨の夜、なぜかその日は黒猫が鳴かないので早めに愛宕下の賭場を出て、帰途についた。近道の采女が原を通っているとき、暗闇にのなかで後ろから竹槍で突かれて落命する。その夜、お滝と間男は喉をかきむしられて変死をする。そこへ長屋の浪人が帰ってきて魔物を退治してみると、黒猫が咽喉を2つ握ってて死んでいた。これは黒猫が恩返しに二人を敵討ちしたのだと、美談として喧伝された。これが町奉行の耳に入り、25両賜って、両国回向院に猫塚造られたという、回向院猫塚由来の一席である。 今回の散歩は、前半で噺の舞台である采女が原を通り、あとは江戸後期から明治にかての、主に海軍関係の旧跡をたずねて歩くこととする。 |
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新橋演舞場は、大正14年(1925)に新橋芸者の技芸向上を披露する場として建設され、「第1回東をどり」で開場した。その後戦災を経て、現在の日産自動車本社ビルと複合した形で復興されている。外装は、昔のレンガ造りのデザインが継承されている。 |
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このあたりに、江戸前期に松平采女正(うねめのかみ/しょう、御膳をつかさどる女官の長)の屋敷があたが、享保9年(1724)の大火で焼失後は火除地となり、采女が原と呼ばれていた。橋の名前もこれに由来している。この橋の北側には、馬場があった。 猫定はその夜、「虎之御門」の南側にあった藪小路と三歳小路にはさまれた、通称「藪加藤」と呼ばれていた加藤越中守の上屋敷で博打をしていた。丁度、愛宕山北側の山下にあたる。 采女橋は、「藪加藤」から丁度真東に直線距離で1,500mの地点に当たる。そしてここから八丁堀玉子屋新道の猫定の家までは東北にざっと1,200mの地点である。これらは直線距離であるから、実際には4,000mほどはあったと思われる。猫定は、雨の降る真っ暗闇の采女が原で立小便をしているところを、後ろから竹槍で突かれるのである。 右の写真は、築地側から見た采女橋{昭和5年(1930)竣工}である。 |
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橋を渡って南西角を国立がんセンターの駐車場へ行く道を15mほど進んだ右側に、「海軍兵学寮跡」の碑と「海軍軍医学校跡」の碑が並立している。 海軍操練所は、明治2年(1869)築地の旧広島藩邸跡に誕生したが、翌年海軍兵学寮と改称し、また同9年海軍兵学校と改称し、同21年には広島県江田島に移転した。この旧地を記念するため、この碑が建てられたという。 向かって左が「海軍兵学寮跡」の碑、右が「海軍軍医学校跡」の碑である。 橋の袂に戻り、明治天皇が海軍兵学校に行くときに通られたという「みゆき通り」を、約500m直進して波除神社に到る。 |
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万治年間(1658〜61)、たびたび堤防が崩れて埋立て工事が難航したとき、海中に漂う稲荷神の像を見つけこれをお祀りしたところ、工事が無事完了したという。これが波除神社の起立であり、「波除」の尊称もこの伝説に由来している。 大正12年(1923)の関東大震災により、ご神体と修理に出されていた獅子頭一対をのぞき全てを焼失したが、その後再建した社殿などは戦災を免れ、一部失火による修復跡があるものの、そのまま今日に至っている。 |
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波除神社のお祭りでは数多くの獅子頭が街をねりあるき、獅子祭りといわれている。3年に1度おこなわれる例大祭には、嘉永元年(1848)製の巨大な獅子頭が築地周辺を盛大にねりあるき、つとに有名である。 写真左は、お歯黒獅子、右は、天井大獅子で高さ2.4m、幅3.3m、重さ約1トンである。 |
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境内には、魚市場に関連したいろいろな碑が建てられている。 左から、玉子塚、すし塚とすし塚の由来、海老塚、鮟鱇(あんこう)塚、活魚塚である。 |
玉子塚 |
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江戸時代、築地の南側には尾張徳川家の蔵屋敷があり、必要物資はここで陸揚げされていた。その関係で、社殿前の天水鉢は、そこの小揚(こあげ、船から河岸に荷揚げをすること)の人たちが奉納したものである。表面には、「奉納 尾州御蔵 小揚」の文字が読める。 |
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神社を出て南西に10mほど行くと左手に海幸橋の説明板がある。 海幸橋は、構造上からもまた橋梁デザイン上からも、貴重な橋であった。この優美な形をした橋も、築地川東支川の埋立てに伴い撤去され、今はその親柱がここに保存されているのみとなった。 この先を右に曲がって築地市場の中に入り、100mほど行くと右手に水神社の鳥居が見える。 |
海幸橋親柱 |
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水神社は、徳川家康入府とともに移住してきた攝津国佃村の漁師たちが祀った「大市場交易神」が始まりで、現在は神田明神の境内に本殿があり(右の写真)、ここは遥拝所(左の写真)となっている。 この場所は、江戸時代は松平定信の浴恩園の跡で、明治維新後は海軍用地となり、境内にある「旗山」の碑には、日本海軍発祥の地の由緒が記されている。 |
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今来た道を戻り、波除神社の前から150mほど東北に進んで晴海通りに出る。ここを右折して、200mほどで勝鬨橋である。 この辺り一帯は、かって勝海舟らが頭取に就任していた、江戸幕府の軍艦操練所があったところである。安政4年(1857)に創設以来再度の焼失により、慶応2年(1866)には浜離宮に移った。 その傍らに、立派な海軍経理学校の碑が建っている。明治7年(1874)海軍会計学舎が設けられ、同21年に築地(浴恩園跡)に移され、同40年に海軍経理学校となった経緯が記されている。 |
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明治25年(1892)「月島の渡し」が開設され、明治38年(1905)波除神社の辺りに「勝鬨の渡し」が開設された。以来、月地地区への労働人口の集中を容易にし、大工業地帯としての発展に寄与した。 なお「勝鬨」の由来は、日露戦争の旅順要塞陥落を契機に名付けられたものである。「かちときのわたし」の石柱は、当時のものである。 昭和15年(1940)跳ね上げ可動橋の開通とともに「渡し」は廃止された。 近くに、貫禄十分な「勝鬨橋之記」の碑がある。 |
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勝鬨橋北西詰に、「重要文化財 勝鬨橋」の碑があり、橋の諸元と重要文化財指定の意義が記されている。 ここから新橋駅に向かって、帰途につく。まず晴海通りを北西に500m進み、新大橋通りを左折して450mほど南西に進んで朝日新聞本社の先の角を小公園に沿って右折する。そこから150mほど行くと新尾張橋に着く。 |
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この辺りも尾張徳川家の蔵屋敷(築地下屋敷)の一角であった。尾張橋は消滅して今はなくなっているが、築地市場の鉄道引込み線(今は高速道路になっている)を跨ぐ鉄道橋を道路橋に架け替え、新尾張橋と命名したものである。 |
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新尾張橋を渡り100mほど行くと東京高速道路に突き当たる。この先すぐの銀座郵便局側に、「検査業務開始の地」の碑がある。明治9年(1876)、この地において、電信用碍子の電気試験が物品購入検査として、わが国で初めて行われたという。 東京高速道路の高架に沿って北に150m進むと、昭和通りを跨ぐ陸橋がある。 |
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標識 |
陸橋を渡ってすぐ左手の公衆便所脇に、「三十間堀跡」の説明板がある。また、旧跡から発掘された石が並べてあり、その説明板も立ててある。 三十間堀は、慶長17年(1612)に開削された当時は、堀幅が30間あったという。河岸の発展につれて堀の幅は19間に狭められてはいたが、戦後、灰燼の山を処理するために堀を埋立て、昭和27年(1952)までに堀はその姿を完全に消してしまった。 この先に「銀座御門通り」の標識が見える。 |
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そこからまた100mほど行くと右手に「芝口御門跡」の説明板がある。 芝口御門は汐留川に架かっていた新橋を芝口橋と改称し、城門を建設したものであるが、建築後15年目の享保9年(1724)に焼失して以来、再建されなかった。したがって、芝口橋は再び新橋と呼ばれるようになった。銅版に城門の姿がよくあらわされている。 |
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あとがき 芝口御門跡からJR新橋駅に出て、本日の散歩は終わりとする。歩いた距離は4,000m強である。 新大橋通りと波除神社との間は場外市場になっていて、寿司をはじめ昼食をとるのには格好の店が多く並んでいる。 散歩を始める前までは、近代海軍発祥の地の足跡をたどる側面と、命の恩人に対する妖怪黒猫の報恩噺が、どんな取り合わせになるのか興味津々な散歩であったが、歩き終えてみると、采女が原を想像させてくれるものは何もなく、わずかに橋の名前と交差点の名前にその面影をとどめているのみであった。 |