江戸写真散歩

見返り柳から  浄閑寺まで

まえがき
 うぶで、まじめで、吉原を知らない堅物若旦那を、悪友2人が、浅草寺裏手にあるお稲荷さんお籠りにいこうと吉原遊郭に連れ出す。実は親父が、せがれをうまく教育してくれと、頼んだのである。
 紆余曲折の末、浦里(うらさと)という花魁が若旦那を部屋に案内しようとするが、どうしても帰りたいとさんざんごねて泣き出す始末。悪友2人は、「3人で入ってきたことを大門のところで見られているから、1人では大門通り抜けられない帰れるものなら帰ってごらん」と突き放す
 それからーーーーー、若旦那浦里一つ床の中迎える
 悪友2人は遊女に振られて朝を迎える。二人が、そろそろ帰ろうと若旦那様子覗きにくると、若旦那は浦里といつまでもお籠り最中で、床から出てこない。悪友が、「若旦那ゆっくり遊んでいらっしゃい。私らは先に帰ります」というと、若旦那は「帰れるものなら帰ってごらん大門で止められます

 今回は吉原コース最終回として、見返り柳から吉原弁天池鷲神社、淨閑寺を経て三ノ輪橋跡にいたる4kmほどのコースを歩く。
地図

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 今は、吉原大門の交差点角に見返り柳があるが、山谷堀脇の土手日本堤)にあったという。

 遊客が、後ろ髪引かれる思い遊廓振り返ったということから、その名がついている。柳の脇に碑と説明板がある。

 見返り柳あたりからは、直接、大門の内見えないように、道が、くの字くの字3曲がりしている。その間が、五十間道で、通常衣文坂と呼ばれていた。
見返り柳
見返り柳の碑
説明板
 吉原遊郭四方お歯黒溝(どぶ)と呼ばれる堀に囲まれていて、出入り口大門一箇所であった。大門を入ると、左側に同心たちが詰める公的な番所があり、右側には出入りの者を監視する私的な会所があった。女性の出入りは原則認められないが、男性はよほど怪しい者でない限り、詰問されることはなかったようである。しかし、うぶな若旦那はそんなことは何も知らないので、まんまとだまされたのである。

 しばらく行くと右手に交番があり、その近くに「よし原大門」と書かれた街灯柱が、大門の跡を示して建っている。
衣文坂
大門跡
中之町通り
 大門から先が仲之町通りで、両脇には引手茶屋が軒を連ねていたところである。

 しばらく行くと「中之町通り」の街灯柱が見える。近所には、ソープランドが並んでいて、角海老三浦屋など江戸時代大見世名前看板も見られる。

 見返り柳から400mほど来た右側に、吉原神社がある。説明板には、明治になって、吉原遊郭の四隅に祀られていた四っの稲荷社と、地主神である玄徳(よしとく)稲荷社合祀して吉原神社とした、と書いてある。
吉原神社
説明板
 吉原神社の先左側に弁天池花園池)の跡があり、吉原弁財天の碑が建っている。池は非常に小さいが、今もその跡を留めている。

 中央に立っている観音像は、関東大震災の際、この池で溺死した遊女たち慰霊塔である。

 そのほか、句碑歌碑地蔵尊花の吉原名残の碑などが建っている。
吉原弁財天
慰霊塔
説明板
 弁天池跡から「せんわ通り」を通って広い国際通りに出ると、急に目の前が開けた感じがする。そこを右折すると、その先が(おおとり)神社である。

 元は(わし)大明神社と号したそうである。酉の市で有名な神社である。そして、酉の市は、神社の祭りであることが説明板に強調されている。
せんわ通り
鷲神社
説明板
 鷲神社の隣には、鷲在山長国寺があり、山門には「田甫(たんぼ) 酉ノ寺」と大書した板が取り付けてある。

 道路に面して「浅草田甫 酉の市 御本社 鷲神社」と示された説明板が置かれていて、鷲神社と長国寺の関係などが書かれている。
長国寺
長国寺本堂
説明板
 鷲神社から国際通りを100mほど北進し、西徳寺前信号を斜め右に北進すると、飛不動尊に着く。

 飛不動尊の由来は、昔、寺の住職大峰山(奈良県)に本尊を持って修行に行ったところ、一夜にして当地に飛び帰ったところからきている。

 近年は航空安全守護神として有名になり、空の安全を願う参詣者が多いといわれている。
飛不動尊
飛不動尊本堂
説明板
 再び国際通りに戻って200mほど北進し、竜泉2丁目の信号を左折するとすぐに千束稲荷神社がある。

 樋口一葉の名作「たけくらべ」ゆかりの神社である。
千束稲荷神社
拝殿
千束稲荷神社
 境内には、一葉の胸像とその正面碑文を記した説明板がある。

 千束稲荷神社を出て国際通りに戻り、再び400mほど北進すると三ノ輪信号を経て大関横丁信号に到る。ここで土手通り沿いにほんの少し行くと目黄不動尊がある。
一葉の胸像
説明板
 目黄不動尊は天台宗永久寺といい、江戸五色不動尊の一つである。五色不動とは、目黒目白目赤目青目黄五色不動尊をいう。

 表の扉は閉じられていて中に入れなかったが、モダン仏閣である。

 大関横丁に戻り、そのすこし先を右手斜めに入ったところが淨閑寺である。  
目黄不動尊
目黄不動尊
 淨閑寺の門前に、荒川区教育委員会による「投込寺(淨閑寺)」の簡明説明板が立てられている。

 これは、是非一読しておいていただきたい。
淨閑寺
説明板
淨閑寺
 門を入ってすぐ左手に、書家萩原秋巌墓新比翼塚(内務省小吏と遊女盛紫との情死)がある。

 墓地の入り口に、「淨閑寺史跡」の一覧掲示してある。

 墓地の一角のよく目立つところに、武者小路実篤の筆になる三遊亭歌笑の碑がある。正面碑文は、「歌笑純情歌集より」となっている。
淨閑寺史跡一覧
淨閑寺史跡
三遊亭歌笑
 話が江戸時代からそれるがーーーーー。

 その角を右に曲がったところに、永井荷風の歌碑がある。その左手に荷風の筆塚がある。

 荷風の歌碑の左側には、山谷に集う日雇労働者の連帯のシンボルであるひまわり地蔵尊が祀られている。
 
永井荷風歌碑
ひまわり地蔵尊
 荷風の歌碑の向かい側に、新吉原総霊塔が建てられている。詳しくは、前記の「投込寺(淨閑寺)」の説明板の通りである。

 総霊塔台座に、川柳作家・花又花酔の「生きては苦界、死しては淨閑寺」の句碑が付けられている。
新吉原総霊塔
花又花酔句碑
 淨閑寺を出て、日光街道昭和通り)を常磐線ガードのほうに少し行くと「三の輪橋」の標識柱が立っている。ここは、音無川日光街道交差する地点で、三の輪橋が架かっていた地点である。

 ここに来る途中に、音無川、その源流の石神井川山谷堀日本堤などについて記した説明板が建てられている。

 以上が、今回の散歩道である。大関横丁には、地下鉄日比谷線の三ノ輪駅がある。
説明板
三の輪橋標識
説明標識
あとがき
 現在の日本橋人形町の辺りにあった元吉原は、明暦3年(1657)の大火焼失したので、浅草寺裏田圃埋め立てて、そこに遊郭移設した。これを新吉原という。したがって、このホームページで単に吉原と呼んでいるのは、正確には新吉原というべきで、この点に関し、この場を借りてお断りをしておく。

 その新吉原広さは、お歯黒溝で囲まれた2万坪ほど(約245m×330m)であったので、端から端まで数分歩ける範囲であった。そこに身分職業超えて、『惚れて通えば千里も一里、長い田圃も一跨ぎ』とばかりに多くの遊客が集まり、狭い地域とはいえ、江戸時代のさまざまな風俗・文化の源泉となっていたのである。

 昭和33年(81958)に「売春防止法」の成立によって公娼制度がなくなり、現在の吉原へと変革していった。

 落語においては、廓噺は大変に多い。紺屋高尾お見立て錦の袈裟五人廻しなどなど。これらについては、またの機会に触れることとしたい。

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