大江戸写真散歩
今戸橋から 見返り柳まで
まえがき 落語「今戸の狐」は、初代三笑亭可楽〔安永6年(1777)〜天保4年(1833)〕と弟子の良助にまつわる実話とされている。博徒の符丁で「狐」は「三つの賽(采)(さい、さいころ)を使った博打」のことである。また、「こつ」というのは千住にあった廓のことで、同じ地域の小塚原(こつかっぱら)からきている。したがって「こつ」の「さい」というと、象牙や鹿の角でできた「骨」の「賽」という意味と、「千住の遊女あがり」の「妻」という二つの意味にとれる。 さて噺の筋は、師匠から、芸のためによくないというので厳しく内職を禁じられていた良助が、内緒で今戸焼きの狐の彩色を内職にしている。向かいの小間物屋の女房は、千住の遊女あがりではあるがなかなかの良妻で、良助に習って狐の彩色を内職にしている。 ある日ヤクザの一味が「狐ができている(開帳している)だろう」と、良助のところに口止め料をゆすりに現れる。今戸焼きの狐は戸棚にできているが、良助とヤクザとの会話が全く噛み合わない。最後に土の狐を見せられて、ヤクザ「俺の言っているのは骨の賽だ」と怒ると、良助「コツの妻なら、向かいのおかみさんです」。 今回の散歩は「吉原コース2」として、先回の終点・今戸橋を振り出しとする。歩くコースは昔の山谷堀の跡であるが、例によって寄り道しながら吉原大門の入り口の見返り柳まで約2.5kmを歩く。 |
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階段を上って境内に入る。境内には歓喜地蔵堂や古い碑が多くある。 また、大根と巾着の文様が所どころに見られるが、これは夫婦和合と商売繁盛を端的に表している。 正面の本堂に向かって左側には、蔵前の札差等16名が奉納した屋根型の笠をもつ江戸時代中期の銅造宝篋印塔(ほうきょういんとう)が、ほぼ完全な形で残っている。 |
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境内には、江戸時代の面影をとどめる築地塀が見られる。 境内の寺務所の脇に、拝観自由となっている庭園の入口がある。山水の庭園の中には、地蔵堂や足利末期(1600年頃)の作と鑑定されている出世観音像やその他古い石仏などがある。 |
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待乳山聖天を出て、今日の出発地点今戸橋に戻り、続いて今戸神社を参拝してくることにしよう。 真北に約200m行くと、今戸神社の鳥居が見えてくる。境内に入ると、何度も炎をかぶったのか、黒くなった異様な形の狛犬が目に付く。この狛犬は今戸焼職人によって宝暦2年(1752年)に今戸八幡神社(現在の今戸神社)に寄進され、文政5年(1822年)に再興されたものだという。 |
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神社は関東大震災と昭和20年(1945)3月10日の戦災で灰燼に帰しているが、そのつど復興して今日に至っている。 拝殿には大きな雌雄一対の縁結びの招き猫が祀られており、拝殿前には今戸の招き猫の碑が建っている。また、境内中央のご神木には、回りに縁結びの赤い糸が描かれた円形の絵馬ならぬ絵猫が、所狭しと掛けられている。 |
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拝殿向かって左手に、沖田総司終焉の地の碑と、今戸焼発祥の地の碑が建っている。 沖田総司は、当地に居住していた御典医松本良順の治療を受けていたが、その甲斐なく当地にて没したと伝えられている。 今戸焼の起源は天正年間(1573〜91)だと伝承されている。招き猫の発祥の地でもある。瓦や日用品の土器類、土人形がこの周辺で焼かれていて、多くの窯があった。しかし現在は、1軒が残るのみである。 |
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社務所におられた宮司の奥様が、私の顔を見るなり「いい顔色をしてみえますね」と声を掛けてくださった。大江戸写真散歩のお陰で日に焼けているのである(陰で日に焼けるとは?)。これが切っ掛けで、しばらくおしゃべりをさせてもらった。携帯で撮られた私の顔写真が3分後にはブログ 縁結び神社発 奥様日記にアップされている。手際のよいこと。 奥様の書かれた「恋愛成就!!ネコのえんむすび」を1冊頂戴した。挿絵を描かれたのは、神官の資格をもっておられる長女智絵さんである。ここにお参りすると、縁結びのご利益がいただけるという。 奥様の作詞された「今戸の招き猫音頭」が境内に流れている。そのメロディを背に受けながら、神社をあとにした。 |
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再び今戸橋すなわち山谷堀公園の入口に戻ってくる。大分時間が経過したので、先を急ぐこととする。 山谷堀は、今の地方橋近くから隅田川へと注ぐ約700mの堀をさすが、その水源は王子の音無川(石神井川)で、江戸の洪水回避のために掘られたものという。 今戸橋の上流に架かる橋が聖天橋である。 |
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聖天橋近くの右側に、潮江院がある。往時は、いかにも海に近いところであったように思われる。本堂裏の墓地に、三笑亭可楽の墓がある。 しばらく行くと吉野通りに出る。ここに吉野橋の親柱がある。 |
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その先が正法寺橋、そのまた先が山谷堀橋で、その横に子規の句碑がある。 「牡丹載せて 今戸へ帰る 小船かな」 その先が紙洗橋であるが、ここから三ノ輪に向けて山谷掘りと平行に走る道路が、土手通りである。昔吉原通いの人たちでにぎわった、日本堤すなわち土手八丁の跡である。 |
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子規の句碑
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紙洗橋のあたりは、落語「紙屑屋」にでてくる、紙屑をより分ける声(あとがき参照)が聞こえてきそうな雰囲気である。 このあたりでは、再生紙である浅草紙の製造が盛んにおこなわれていた。紙屑を水に冷やかして漉きなおすのである。この漉くという技術は、浅草海苔を漉く技術に通じていたという。 また、若い衆たちは紙屑を水に冷やかしておく2,3時間の間に吉原の張見世へ遊女をからかいに行き、登楼せずに帰って来た。ここから「冷やかし」「冷やかす」という言葉が生まれたという。 |
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紙洗い橋の東150mくらいのところに、熱田神社がある。足を伸ばして、参拝してくる。 境内には、豊川出世稲荷神社も祀られている。 |
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元の山谷堀公園の緑道に戻る。地方新橋、地方(ぢかた)橋と続く。このあたりで緑道が終わりになる。町方に対して、田舎のほうを地方(ぢかた)と呼ぶ。 地方橋の先の信号を右折して200mほど進み、再度右折すると江戸六地蔵第2番の東禅寺(東浅草2-12)がある。境内に、アンパンで有名な木村屋の創業者夫妻の銅像が、麺麭(パン)祖として造立されている。 |
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東禅寺 click |
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東禅寺を出て北西方向に200mほど行くと、吉原大門に通じるやや広い通りに出る。その信号を左折して吉原大門に向けて歩く。信号を一つ行った角に「ちぎりや」と書かれた日除けフードをつけた店が目に付いた。その瞬間、落語「ちぎり伊勢屋」が脳裏を掠めた。 この店は太鼓焼きや鯛焼きを売る店で、祖父の代から「ちぎりや」でこの商売をしているとのこと。奥様(らしい人)との会話では、落語にも質屋(あとがき参照)にも関係のないお店のようであった。 ここから100mほどで土手通りの吉原大門に出る。ここの角に、遊客が遊女との別れを惜しんで振り返った、見返り柳がある。 今回の散歩はここまでとし、吉原の通り抜けは、次回とする。 |
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あとがき 紙洗橋のところで触れた落語「紙屑屋」の舞台は、寿町の安房屋という家であるが、紙屑をより分けるときの唄い文句は 「白紙は白紙、烏は烏、線香紙は線香紙、陳皮は陳皮、毛は毛」というものである。 烏は墨などでよごれた黒い紙、線香紙は厚手の紙、陳皮はみかんの皮で漢方薬になり、毛は婦人の髪でカモジなどになる。 落語「ちぎり伊勢屋」の粗筋は、 麹町5丁目の質両替を渡世としている「ちぎり伊勢屋」の若旦那が、有名な占い師から「来年の2月15日正九ツにきっと死ぬ」と宣告される。若旦那は貧民に施しを与えて積善に努めるが、一方では吉原通いを始めて全財産を使い果たして2月15日を迎える。しかし、一向に死ぬ気配がない。ついに無一文となり、品川で駕籠かきをして糊口をしのぐことになる。ある日偶然にも、昔世話をした幇間を駕籠に乗せる。幇間はびっくりして、昔もらった着物と金を贈る。翌日旦那はもらった着物を質屋に持っていくが、そこで、昔100両を恵んで心中を助けた母娘に出会う。あの時恵んでもらった100両で借金を返し、今は品川本宿で質屋を営んでいるという。そして娘を嫁にして、この店を継いでくれと頼まれる。二人はは夫婦となり、ちぎりの暖簾をかけて店を再興するという、財を捨てて命を保つ、積善の家に余慶ありというちきり伊勢屋のおめでたい噺である。 ちぎりとはちきりともいい、石や木材のつなぎ目にはめてかすがいにするもので、これを図案化した紋所をもいう。 |