大江戸写真散歩

吾妻橋から  馬道  今戸橋まで

まえがき
 遊郭で遊んで金が足りなくなった客に、翌朝、勘定取りに一緒についていく妓夫(ぎふ、ぎう)のことを付き馬という。元来は、廓に馬を止めている馬子の請け負う仕事であったので、こう呼ばれた。
 妓夫とは遊女屋の呼び込み男で、牛太郎などと呼ばれていた。

 落語『付き馬』の粗筋は、
 「金を持たない男が妓夫に誘われるまま登楼し、呑めや唄えのドンチャン騒ぎをする。翌朝、茶屋に貸してある金を集金してくるといって、妓夫を付き馬にして大門を出る。集金には時刻が早いからと、浅草寺境内から花やしきに出て朝風呂に入ったり、湯豆腐で腹ごしらえをしたりして、支払いは全て妓夫の立て替えとする。我慢できなくなった妓夫が怒り出すと、田原町の早桶屋の叔父さんのところで金を借りてくるといって、早桶屋へ妓夫を連れて行く。そこでまんまと妓夫を煙に巻き、ドロンを決め込んでしまう。男に逃げられた妓夫は、早桶屋の付け馬を引っ張って、廓に帰ってくることになった。」
というものである。

 今回の散歩は、吾妻橋から馬道を経て今戸橋にいたったところで、一区切りとする。総行程は、3km弱であろうか。
地図
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 地下鉄銀座線の終点浅草駅を仲見世の方向に地上に出ると、そこは吾妻橋のたもとで松屋のビルが見える。東武線浅草駅でもある。

 この地点で、日光街道から別れて馬道通りが北に延びている。

 馬道の由来は、浅草寺境内の馬場に行く馬の道だったということらしいが、俗説としては、古く江戸時代から遊客が馬を利用して新吉原へ通う道であったことから起ったとも、また帰りには馬を連れて帰った道だからともいわれている。

 現在は馬道商店街が軒を連ねているが、当時からすでに商家が立ち並んでいたようである。
東武鉄道浅草駅
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馬道通り
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 200mほど北に進んで浅草2丁目の信号を左折し、仲見世の手前の道を北に少し行くと弁天山児童公園がある。小高くなった弁天山の上に立派な鐘楼が見える。これが、『花の雲 鐘は上野か 浅草か 芭蕉』で有名な浅草の時の鐘である。

 鐘楼の傍らに、200年の風雪を経て判読し難くなっている芭蕉の句碑『くわんをんの いらか見やりつ 花の雲 ばせを』がある。また、その隣に花柳流にまつわる扇塚がある。
浅草時の鐘
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芭蕉句碑
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扇塚
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 弁天山を降りて北に進むと、右手に3個の礎石が並べられている。これは、昭和20年(1925)の戦災本堂五重塔(3代将軍家光建立、国宝)と共に炎上した仁王門の18本あった大木柱の礎石のうち、原型を留めているもの3個を選んで保存したものである。仁王門は再建され、現在は宝蔵門と呼んでいる。

 その先には、源頼朝が浅草寺参拝の折りに挿した枝から発芽して成長したといわれ、今回の戦火も潜り抜けてきたご神木イチョウの樹がある。
仁王門礎石
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ご神木
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 さらに100mほど進んだ突き当りが、浅草神社である。1400年ほど昔、漁師の桧前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)兄弟の魚網にかかった観音像土師真中知(はじのまつち)と共に三人でお祀りしたのが浅草寺の始まりという。この3人を神として祀ったので三社さまともいわれている。100基あまりの神輿が繰り出す三社祭はつとに有名である。

 社殿は慶安2年(1649)家光によって再建されたものであるが、平成8年(1996)に入って修復され、きれいになっている。
浅草神社
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浅草神社
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新装なった浅草神社
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 境内に被官稲荷社がある。被官とは出世の意味という。この社は、安政2年(1855)、新門辰五郎が妻女の病気全快のお礼に、伏見稲荷を勧請して創建したものという。社前の鳥居には、新門辰五郎の名が刻まれている。

 覆屋(おおいや)をかぶせて小社保護しており、この覆屋の中に社務所などがある。
被官稲荷社
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被官稲荷社説明板
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被官稲荷社
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 浅草神社のに向かって右手に二天門があるはずであるが、来年9月までは解体修理中である。

 増長天持国天の二天を安置するので、二天門という。

 二天門の前の露地で、柿を売っていた。秋たけなわの今日この頃である。

 二天門から馬道に出て左折し、北に150mほど行くと馬道交差点に出る。ここを右折して通りの左側(北側)の歩道を200mほど行くと、旧浅草猿若町標識がある。 
修理中の二天門
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街頭スケッチ
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馬道交差点
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 旧浅草猿若町の標識の下部に、江戸時代芝居小屋に関する歴史が書かれている。

 この辺りには猿若三座があり、大勢の人でにぎわった所である。

 この標識の先の角を左折するとすぐ先に、文久元年創業の、神輿和太鼓雅楽器および各種祭礼用具の製造、販売をしている宮本卯之助商店がある。
猿若町標識
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猿若三座説明板
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神輿、和太鼓屋
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 この道の1本東の通りにも上記と同じ旧浅草猿若町標識があり、その下部には、猿若三座の一つである中村座の跡であると記されている(浅草6丁目3)。

 道の向かい側には、芝居の小道具などを扱っている店があり、歴史の流れを感じさせる。
猿若町標識
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中村座跡
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小道具屋
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 ここから約150mほど北へ行き、やや広い道にを渡ったところ(浅草6丁目26)に、やはり旧浅草猿若町標識を見る。その下部には、猿若三座の一つである守田座の跡であることが記されている。脇に、石柱も立っている。
 
猿若町標識
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守田座跡
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 先に来たやや広い道を100mほど東に進むと日光街道(吉野通り)に出る。ここは言問橋西の交差点である。目の前に隅田公園が広がっている。公園に沿って300mほど北東に行くと今戸橋に至る。

 本日は、ここで一区切りとして、次回に続く。

今戸橋
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あとがき
 今回歩く吉原(正確には、新吉原コースは、総行程7〜8kmにおよび、落語に出てくるいろいろな噺の舞台があって話題豊富なコースである。今回の吉原コース1関連しては、以下のようながある。

 落語『星野屋』の舞台になっている「すずしろ」という茶屋は、今回歩いた弁天山の下にあったことになっている。
 その店のお花さん星野屋の旦那吾妻橋から心中をするといって、互いにだまし合いをするである。今は弁天山児童公園の前に吉幸という瀟洒な店はあるが、「すずしろ」という店は見当たらなかった。

 また、落語『姫かたり』の舞台となっている医者今井道庵(大野林庵とも)の屋敷仁天門をこえてすぐ左側にあったことになっている。
 仮病をおこした担ぎ込んだ武士風のやくざが、触診をした医者に、姫の胸に触れたと言いがかりをつけて200両脅し取る。その日は丁度浅草寺の年の市で、「しめ飾りか、だいだいか。市まけた、市まけた」という売り子の声が、医者の耳には「かたりか、大胆な。医者負けた、医者負けた」と聞こえた。

 また落語『柳田格之進』の舞台となっている質屋、万屋源兵衛は、仁天門を出たあたりにあったことになっている。
 格之進源兵衛の店にを打ちにいった日に50両紛失し、格之進が疑われる。娘きぬが吉原に身売りして、50両を一旦償う後日、50両が出てきて格之進の疑い晴れるきぬは店の番頭結婚して質屋継ぎ、大いに繁栄したという人情噺である。

 ともかくも、吉原コース3回分けてまとめてみることにする。次回は今戸の狐を、次々回は明烏を取り上げて、話を進めていくつもりである。散歩のときは、3回分を1回で歩いてみてもよいと思う。
吉幸
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