大江戸写真散歩
富坂下より 水戸藩上屋敷一周
まえがき 孝行者の与太郎が、お上から青ざし5貫文のご褒美をいただいた。近所のものが、これを元手に与太郎が安楽に食べていけるようにと、孝行糖という飴を売ることを教えた。 「孝行糖〜、孝行糖〜。孝行糖の本来は、粳(うる)の小米に寒晒し、かや〜にぎんなん、ニッキにちょ〜じ」チャンチキチン スケテンテン」と鉦(カネ)と太鼓ではやしながら町中を売り歩いた。孝行者にあやかろうと、上々の売れ行きとなる。 ある日、水戸さまのご門の前を、大声を上げながら囃し立てて歩いていくと、門番が「ご門の前で鳴物は相成らん」とたしなめる。これに調子を合わせて「チャンチキチン」と囃す、「静かにいたせ」というのに合わせて「スケテンテン」とやったので、六尺棒でメッタ打ちにされてしまう。ちょうど通りかかった町内の者が一緒にわびてくれて、やっと許される。与太郎「ああ、痛い痛い」、町内の者「どこをぶたれた」、与太郎「こーこーと、こーこーと」。 与太郎がどこに住んでいて、どの道を通って水戸邸の門前に来たのかわからないが、今回は、富坂下の礫川(こいしかわ)公園から牛天神(北野神社)を経て後楽園に入り、園内を一巡してから、与太郎が打たれたという正門の前辺りを経て、最後は水道橋から春日町にいたる巡回コースを歩いてみることとする。 |
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礫川公園内を富坂方向に出ると、そこに春日の局の銅像が建っている。 文京区の「春日」の地名は、春日の局が乳母として仕えた三代将軍徳川家光より拝領した土地に由来し、昔は「春日殿町」と呼ばれていたという。 礫川公園の隣には、先の大戦で亡くなられた東京都関係の戦没者の霊を慰めるための東京都戦没者霊苑と二階建ての遺品展示室などがある。 |
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霊苑前の春日通りを渡り、20mほど北に入ったところのビルの中庭に、小石川大神宮がある。昭和41年の創立で、平成8年に伊勢神宮式年ご遷宮後の古材を拝領して、鳥居をはじめ千木、鰹木などを造り替えたり補修をしたという。 春日通りに戻って、振り返えって見ると、富坂下と春日町の交差点が下の方に見える。そして右手に文京区役所の建物が、ひときは高く見える。 |
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春日通りを右にカーブすると、富阪上の信号にいたる。富坂下からは、直線距離で400mほどである。 信号を左折すると、右手に東光山西岸寺がある。ここのお堂は、関東大震災の被害を省みてコンクリート造りの耐震耐火の本堂を建設し、地下に納骨堂墓地を設けて遺骨を収めた。昭和20年の戦災では火をかぶったものの本堂の内部に火を入れずに、ご本尊や過去帳などを守ることができたという。 隣が金剛山常泉院で、江戸末期の侠客山中政五郎、明治の落語家六代目朝寝坊夢楽らの墓がある。 |
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常泉院 click |
お寺の前を道なりに曲がりくねっていくと、牛天神北野神社の横に出る。 天神様は牛を大変可愛がっておられたという。境内には天然石の「撫で牛」があり、撫でて念ずれば願い事が叶うという。またこの石は、源頼朝公の腰掛の石ともいわれている。 境内にはご神木のモッコク、筆塚、中島歌子の歌碑、水戸光圀公が奉納した桜の木などがある。 |
牛天神北野神社 click |
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庚申塔や太田神社、高木神社も祀られている。 参道の石段下の路面に、小石川後楽園の方向を示すタイルの標識が埋め込まれている。これを頼りに牛天神下の交差点に出る。まっすぐ(南へ)250mほど行き、小石川運動場をコの字型に回り込んだところに後楽園の入口がある。 |
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太田・高木神社 click |
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小石川後楽園は、水戸徳川家の祖頼房が中屋敷(のちに上屋敷となる)として造り、二代藩主光圀の代に完成した回遊式築山泉水庭園である。光圀は明の遺臣朱舜水の意見を用いて中国の風物を取り入れ、園名も舜水の命名により「後楽園」とした。これは「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに遅れて楽しむ」によるものである。なお、園の面積は約2万1千500坪(7万1千u)である。 神田上水路は関口の大堰より一旦水戸藩邸に入り、ここを出た水が神田方面に給水されていた。今も園内の北側には、神田上水路が流れていた跡がある。 |
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一つ松は、謡曲「三井寺」にでてくる「唐崎の一つ松」を模していて、今は三代目の松だそうである。 富士山麓の白糸の滝や木曽川を経て紅葉林へ続く道や、寝覚ノ床なども造られている。 |
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大泉水の中ほどに浮かぶように造られている蓬莱島には、カワセミがツイーと甲高く鳴きながらすべるように飛んでいる。これに向かって、多くのアマチュアカメラマンが、望遠レンズの放列をしいている。 松原をはさんだ対岸に酒亭「九八屋」がある。「酒を飲むに、昼は九分、夜は八分にすべし」と説いている。 |
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園を出て、すぐ左折して築地塀に沿って400mほどくると正門(常時閉鎖)にいたる。飴売りの与太郎が、門番に六尺棒で打擲されたのは、丁度この辺りであろうと、想像しながら通る。 御門の前を南に6,70mくると外堀通りに出る。通りを渡ると小石川橋が神田川に架かっている。ここは、寛永13年(1636)に曲輪(くるわ)内から小石川方面へ出る出入り口として枡形の石垣が構築され、小石川見附と呼ばれていたところである。 |
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小石川見附のあった所 click |
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小石川橋のすぐ下流が、東京ドームに通じる後楽橋である。 写真は、東京ドームホテルの43階から見下ろした東京ドーム(約14,200坪)と小石川後楽園の森および東京ドームシティアトラクションズ(旧後楽園遊園地)(9,090坪)の俯瞰である。 |
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ホテルを出て水道橋交差点を左折して350mほどいくと壱岐坂下に出る。この坂は関東大震災後に開かれた道で、旧壱岐坂は東洋女子短大の横を斜めに水道橋方向に下っていたという。 壱岐坂の北側にある階段状の急な坂は新坂あるいは外記坂と呼ばれ、坂の上に内藤外記(げき)という旗本の大きな屋敷があったという。 |
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壱岐坂 |
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壱岐坂交差点を約200m進むと、地下鉄丸の内線が地上に出て白山通りをまたぐ鉄橋がある。鉄橋の下を通り抜けると、その先に講道館がある。 講道館正面には、明治15年(1882)に講道館を創設した加納治五郎の立像が道路に面してたっている。 |
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講道館の100m先が、春日町交差点である。交差点を谷として、東側が東富坂であり、西側がこの散歩のスタート地点である富坂である。 交差点の西南角に灯篭を配した緑の一角がある。ここに使われている石は、江戸時代に神田上水路の石樋に用いられていた石で、外堀通りの工事中に、発掘されたものである。 神田上水路については、本ホームページの「神田川コース その2」を参照して頂たい。 |
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春日町交差点の西南角が文京区役所のビルである。シビックセンターやシビックホールなども入っている。文京シビックセンター25階展望台より先刻歩いた礫川公園と東京都戦没者霊苑を俯瞰する。また、東京ドームの西側にある小石川後楽園の森を見る。 ビルの地下1階で、地下鉄と連絡している。以上で今回の水戸藩上屋敷一周散歩を終わりとする。 |
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あとがき 今回歩いた水戸藩上屋敷の外周は約2.5〜3.0kmほどであるが、実際に歩いた距離は、寄り道の分も入れると6kmを上回っていたかもしれない。 水戸藩上屋敷の面積は約87,700坪(通称10万坪)であったといわれている。小石川後楽園、東京ドーム、東京ドームシティアトラクションズの面積を合計しても、水戸藩上屋敷の面積の半分ほどである。残りの半分は、公園、霊園、学校、運動場、公共施設、娯楽施設、ホテルなどになっている。 さて、孝行者の与太郎が奉行所から頂いた、青ざし5貫文というのは今のお金でいくら位だろうか。薄っぺらい蒲鉾の入った程度の卓袱(しっぽく)蕎麦が16文であったとし、それが現在値400円であると仮定すると、1文は25円相当になる。1貫は1000文であるから、5貫文は12万5千円相当である。 青ざしとは、穴あき銭に紺染めの細い麻縄を通して結んだものである。 |