大江戸写真散歩



上野の山から  不忍池へ

まえがき
 先回「その1」では、目が見えなくなった定次郎赤坂の日朝様三七・21日の願をかけて満願の日を迎えたが、隣でお経を唱えている女性に邪心を起こして仏罰が当たり、ご利益頂けなかった自棄(やけ)を起こしている定次郎石田の旦那なだめて、上野清水観音様願をかけるように勧めるところまで話が進んでいた。

 さて今回の「その2」では、清水観音様100日の願をかけて満願の日を迎えたが、やはり目が明かないので観音様なじっているところに石田の旦那が現れ、100日で駄目ならば200日、300日と願を続けるように諭(さと)す。清水観音堂を下って不忍池弁天様お参りをし、2,3歩来たら本郷台のうえに黒雲がもくもくと湧き出てすぐに雷雨に見舞われ、土橋に来たところで雷に打たれて気絶してしまう。

 12時の時の鐘気がついてみると、雨も上がり目が明いていた
目がないお方目ができたという、めでたいお話でした。

 今回の散歩は、地下鉄銀座線上野広小路駅あるいは地下鉄大江戸線上野御徒町駅で降り、A4出口を地上に出たところから出発する。
地図
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 上野広小路の中央通り春日通り交差する角に、平成8年にオープンした「お江戸・上野広小路亭」がある。
 
 春日通りを渡って、上野公園の入口に向かって行くと、左側に落語の定席「鈴本演芸場」がある。

 地下鉄の出口から3〜400mも来ると、上野恩賜公園と彫られた大きな楕円球標石出迎えている。
上野広小路亭
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鈴本演芸場
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 上野の山には、はじめは病院を立てる計画が持ち上がっていた。このとき、江戸幕府の招きで来日していた蘭医ボードウィンが、上野の自然が失われることを危惧して一帯を公園として指定することをときの政府に提言し、今日の公園の姿になっ残った経緯がある。

 公園に入ると、まず高村光雲作西郷隆盛の銅像が目に付く。西郷さんについては、多言を要しないであろう。

 上野の山には、徳川家霊廟警護を目的に彰義隊立てこもったが、慶応4年5月15日大村益次郎率いる官軍半日で壊滅させられた。これが上野戦争であるが、賊軍となった彰義隊の遺体は上野山内に放置されたままになった。これを南千住円通寺住職佛麿らが当地で荼毘に付した(本ホームページの「千住宿その1円通寺の項参照)。

上野恩賜公園入口
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西郷隆盛像
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 大きい墓石は、彰義隊の墓として明治14年になって造立されたものだが、明治政府はばかって彰義隊の字無く、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」とのみ大きく刻んである。

 正面に見える小さい墓石は、寛永寺子院住職によってひそかに地中に埋葬されていたものである。偶然にも黒猫が墓守に来ていて、写真に写った。

 近くに、家康、秀忠、家光三代に仕えた「黒衣の宰相天海僧正慈眼大師1536〜1643)の遺髪葬ったという毛髪塔がある。その先に、擂鉢山がある。
彰義隊の墓
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戦死之墓
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慈眼大師毛髪塔
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 擂鉢山はその形状から名づけられているが、約1500年前前方後円形式の古墳と考えられている。

 「花の雲 鐘は上野か 浅草か」(芭蕉)と詠まれた上野の時の鐘は、現在も朝夕6時と正午の三回、昔ながらの音色を響かせている

 佐久間大膳亮(だいぜんのすけ)勝之が、寛永8年(1631)に上野東照宮寄進した高さ6.06mの巨大燈篭お化け燈篭と呼ばれている。同じ勝之の寄進した京都南禅寺名古屋熱田神宮の大燈篭とともに、日本三大燈篭に数えられている。
 
擂鉢山
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時の鐘
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お化け燈篭
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 寛永寺旧境内は、現在の上野公園のほぼ全域であった。上野戦争で数多くの堂宇焼失してしまった。現在の東京国立博物館のあるところが本坊であり、大噴水広場のあるところが根本中堂である。

 根本中堂壮大規模は、間口45.5m奥行42m高さ32mであったという。その跡地に、説明板が立てられている
根本中堂跡
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根本中堂説明板
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 清水観音堂は、寛永8年(1631)天海僧正によって擂鉢山の上に創建され、元禄7年(1694)に現在地に移築されたもので、上野戦争焼け残った貴重な文化財である。平成2年から同5年にかけて解体修理が行われている。

 この清水観音堂に、定次郎100日の願をかけて日参したのである。
清水観音堂側面
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清水観音堂正面
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清水の舞台
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 観音堂南側の石段清水坂という。この坂の名は、清水観音堂の名称にちなむものである。

 清水坂を下りてきた中腹の地点で振り返って見ると、清水観音堂高い崖の上にあり、京都の清水寺をよく模していることがよくわかる。
清水坂
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清水坂標柱
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清水観音堂
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 不忍池中之島にある弁天堂は、この中腹地点からもう一段崖を下った位置にあり、ここからよく俯瞰することができる。

 島之中には、いろいろな碑や塚が建てられている。最初に「不忍池」の碑があり、少し行くと右手にある大黒天堂の脇に東京魚商業協同組合の「魚塚」がある。
弁天堂
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不忍池碑
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魚塚
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 奥の正面が弁天堂である。

 お堂の左手に東京食鳥鶏卵商業協同組合および東京都食鳥肉販売業環境衛生同業組合による「鳥塚」がある。

 そのならびに「包丁塚」が建てられているのは、皮肉である。碑は、包丁によく似た形状に作られている。
弁天堂正面
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鳥塚
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包丁塚
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 以下、音曲の神様である弁天様にちなんで、大きな「琵琶」の鋳物の碑や、糸柳の木の下に「いと塚」があり、また芸事に関係して「扇塚」などなどがある。

 先に「魚塚」「鳥塚」があったが、今度は「スッポン感謝の塔」および新しい「ふぐ供養碑」が空を飛ぶように建てられている。
琵琶の碑
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いと塚
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扇塚
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スッポン感謝の塔
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 ふぐに見送られながら天竜橋を渡って中之島を出るのであるが、気になるのは、ちょうど天竜橋の向かい辺りに建てられている「めがね之碑」である。徳川家康のめがね浮き彫りになっている。

 から、落語「景清」の舞台である土橋連想ししつつ、いったい土橋何処にあったのだろうかと思いながら、池之端を歩いていく
ふぐ供養碑
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天竜橋
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めがね之碑
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 今来た道を振りかえると、蓮池の向こうに弁天堂が遠くに小さく見える。このような低地の地形なら、昔は小川水路があちこちにあり、土橋の一つや二つ何処にでもあっただろうと推量される。

 暫く歩いて行くと、左手下町風俗資料館の幟が目にはいってくる。資料館の向かい側に龍門橋の碑が建っている。

 落語の中では、観音様にお参りして2、3歩来たところで本郷台の方向に黒雲がむくむくと現れその後すぐに土砂降りとなって落雷に打たれるのである。時間的には、弁天堂から5分前後のところと思われる。してみるとこの落語のクライマックスは、天竜橋から龍門橋での出来事推測される。
弁天堂遠望
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下町風俗資料館
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龍門橋の碑
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あとがき
 東叡山寛永寺比叡山延暦寺に倣い、また不忍池の中之島琵琶湖の竹生島を模し、寛永寺清水観音堂京都の清水寺を模したものである。清水の舞台は不忍池に向って建てられていて、京都の清水寺そっくりである。

 今回の散歩は、清水観音堂のある上野の山南の一部分弁天堂のある不忍池中之島を廻っただけで、総行程4kmにも満たないであろう。

 東照宮五条天神のすぐ傍まで行きながら立ち寄らなかったのは、特別な理由があったわけではない。何かの機会に、寛永寺含んで北の部分廻るつもりである。

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