大江戸写真散歩



赤坂見附から、円通寺日朝さま一周

まえがき
 腕のいい木彫師定次郎は、ふとしたことから眼が不自由になった。医者にも見離され、赤坂の日朝さまに三七21日の願をかけることになる。満願の前日少し見えるようになってきたので一心に南無妙法蓮華経」を唱えていると、隣から女の声で「南無妙法蓮華経」の念仏聞こえてきた。定次郎がこの女に邪念を起こした瞬間、また目が見えなくなり、あたりは真っ暗闇になってしまった。仏のくせに焼餅焼くな、とやけになっているところに石田の旦那があらわれ、上野の清水の観音様100日の願をするようにと勧める
 
 ここまでが赤坂の日朝さまを舞台にした噺であり、ここから後は、上野の山から不忍池にかけての噺に展開していく。この後半の噺は次回「その2」に引き継ぐこととして、今回赤坂日朝さまたずねて歩くこととする。

 集合場所は、地下鉄銀座線と丸の内線が通っている赤坂見附駅を青山通りに出て、渋谷方向に2筋目の一ツ木通り入口とする。半蔵門線と南北線の永田町駅から来る人のことを考えると、特定の地下鉄出口を指定するより、この方が分かりやすいであろう。
地図
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 地下鉄の赤坂見附駅を青山通りに出て、渋谷方向に2筋(約150m)行いくと「一ツ木通り」の入口がある。

 一ツ木通りを約100m行くと右手に朱塗りの背の高い山門が目に付く。

 山門の上部には、赤坂不動尊と大書した額が掲げられている。また左右の門柱には、智剣山威徳寺赤坂不動尊と、しるされている。
一ツ木通り入口
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赤坂不動尊山門
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不動尊山門
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不動尊山門
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 参道には開山四百年記念碑紀州徳川家祈願所の碑がある。

 江戸時代、紀州徳川家の祈願寺として広く人々に信仰され、多くの参拝者により栄えたところである。

 提灯で飾り付けられた石段を登りきって、今来た道を振り返ると、石段の横墓地であった。
開山四百年記念碑
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紀州徳川家祈願所の碑  click
墓地
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 伝教大師作の本尊・不動明王像は、関東大震災東京大空襲難を逃れ、今も内陣に安置されている。

 本堂に向かって右手に、不動明王の石像があり、花が供えられていた。
  
本堂
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本堂
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不動明王石像
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 境内の裏側へ出て道なりに150m程行くと丹後坂の上に出る。サラリーマンらしい人や学生たちの交通量多い道である。

 丹後坂の反対方向は牛鳴坂で、後ほど行く豊川稲荷の山門前につながっている。

 坂の上にある標識によれば、元禄(1688〜)初年に開かれたと推定される坂で、その当時、東北側に米倉丹後守(西尾丹後守ともいう)の屋敷があったという。
下から見た丹後坂
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丹後坂標識
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 丹後坂を下って右に50mほど行き、四辻を左折して50mほど行くと円通寺坂の通りに出る。坂を登りながら300mほど行くと左手に日蓮宗円通寺がある。坂の下と上に円通寺坂の標識がある。

 土色の塀を入ると、正面に本堂が、左手に鐘楼がある。円通寺の梵鐘には、「鼠・牛・虎・兎・竜・蛇・馬・羊・猿・鶏・狗・猪」の文字を使った七言律詩が刻まれており「十二支の鐘」とよばれている。そして、宝暦(1751-64)の頃までは、時の鐘を撞いていたそうである。

 ご多聞に漏れず、太平洋戦争のため供出されたが、昭和50年板橋区の寺院にあることがわかり戻ってきた経緯があるという。
円通寺坂下標識
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円通寺坂上標識
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 本堂の裏手墓地になっている、こじんまりとしたお寺である。ガラス戸越に本堂の中を覗き見していたら、お坊様が来られて、中に上がってもよろしいと話しかけられた。

 来訪の主旨をお話したら、写真を撮っても結構とのお許しがあったので、正面右手に祀られている日朝さまの坐像を、1枚だけ写させてもらった(合掌)。

 日朝さま眼病治癒との関係については、あとがき参照乞う。
円通寺全景
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円通寺本堂
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日朝さま
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 円通寺を辞して坂を登りきると、三叉路に突き当たる。そこを右折して200mほど行くと薬研坂の上に出る。薬研坂とは、中央がくぼみ両側の高い地形が薬を砕く薬研に似ているために名づけられたという。なかなか急な坂である。

 道の右側では、超高層ビルが建設中であった。

 緩やかに右にカーブして200mほど行くと、青山通りに出る。
薬研坂
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薬研坂標柱
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 青山通りに出たら右折して150mほど行くと、赤坂署の交差点に出る。角に羊羹で有名な虎屋のビルがあり、その裏側に、美喜井稲荷が祀られている。

 地下駐車場入口の上の狭いところに建造されていて、道から見える光景異様である。

 まず、屋根の鬼瓦奇異である。その上に見える円盤は何か。たぶん、駐車場の排気塔だろう。赤い軒の奥に見える、白い動物は何か。お稲荷さんであるから白狐と思いたいが、のようにも見える。
美喜井稲荷
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美喜井稲荷扁額
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 虎屋のビルの向かい側が豊川稲荷東京別院である。「赤坂豊川稲荷」の看板が大きく出ている。

 弾正坂を挟んで赤坂御用地が広がっている。内には、東宮御所、三笠宮邸、寛仁親王邸、秋篠宮邸などがある。

 弾正坂というのは 坂の西側に吉井藩(現在の群馬県吉井町)松平氏の屋敷があり、代々弾正大弼(だいひつ)に任ぜられることが多かったため名づけられたという。
赤坂御用地
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赤坂豊川稲荷
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 豊川稲荷の境内にはいろいろなお社があるが、都会の喧騒から隔離された聖域を造っている。芸能商売の関係者の信仰篤く集めている。

 豊川稲荷の祭神は、「稲穂を荷い白狐に跨り給う端麗なお姿」の豊川荼枳尼天(だきにてん)という霊験あらたかな仏法守護の善神であるという。

豊川稲荷
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本殿
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本殿
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 本堂の左手横に、大岡越前守の御廟がある。

 大岡越前守は、妙厳寺(愛知県豊川市、豊川稲荷)の萬牛禅師(ばんぎゅうぜんじ)によって帰依し、赤坂一ツ木にあった邸内豊川稲荷社を祀って深く信仰していた名奉行であった。赤坂豊川稲荷は、大岡越前守の屋敷稲荷を現在地に移転させて創建したといわれている。
大岡廟 click
大岡廟説明板
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 豊川稲荷の境内を出たところが九郎九坂(くろぐざか)である。標識には、鉄砲坂ともいう、とある。

 青山通りを挟んでこの坂の向こう側が牛鳴坂であり、その先の坂上で丹後坂につながっている。

 豊川稲荷を出て、青山通りを赤坂見附の方向に帰路を取る。
弁慶濠に向かって下り坂となる。
九郎九坂
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九郎九坂標柱
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あとがき
 このホームページの落語編第一号に「堀の内」を取り上げたが、この中で、日朝さまについて記した部分を以下に再掲してみる。

 『日蓮宗の代表的教学者、第十一世行学院日朝上人が祀られている日朝堂がある。上人は勉学に精進したため眼病を患った。回復の後、眼病の人々を救わんと大願を立てられた由緒から、眼病平癒、学業増進、入学成就志望の人々の参詣が増えているという。』

 このような次第で、目が見えなくなった木彫師定次郎は、まずは日朝さま願をかけ日参をしたというわけである。きっと定次郎の家からは、堀の内の日朝さまよりも赤坂の日朝さまのほうが近かったのであろう。

 今日の散歩距離3kmそこそこであるから、散歩としては少々物足りない。この後は、赤坂見附から銀座線に乗り上野広小路降りて、次回紹介する「景清 その2」のルートで、上野の山から不忍池の弁天様を一巡りすると、ちょうどいい加減散歩となる。

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