大江戸写真散歩

日本橋より  茅場町へ

まえがき
 盲人流しアンマ梅喜(ばいき)は、稼ぎが無かったというので、横浜から浅草の馬道まで歩いて帰ってくる(JR東京ー横浜間の営業距離は28.8km)。心優しい女房お竹のすすめで、せめて片目でも見えますようにと、茅場町お薬師さまに三七、21日の願をかけることになる。満願の日、知り合いの上総屋の旦那に声を掛けられて、目が開いたことに気がつく。旦那との話の中で、女房のお竹貞女の鏡だが器量が「人三化七」どころか「人なし化十」の醜女であることを聞かされる。浅草の観音様にお参りしていると、芸者の小春と出会い、二人は待合へ上がって飲食を共にし、あやしい雰囲気になってくる。そこへお竹が入ってきて、梅喜の胸ぐらをつかんで締め上げる。「お竹か。苦しい、勘弁してくれ。お竹っ」「何かこわい夢でも見てるんじゃないかい」ここで梅喜は目が覚めた
「夢だったか。お竹、俺は信心はやめだ」「どうして」「盲人というもんは妙なもんだねぇ〜、寝ているうちだけよぉ〜く見える

 今回の散歩は、日本橋を出発点にして梅喜が日参をしたお薬師さま(智泉院)を経て茅場町の地下鉄の駅まで歩くこととする。
地図
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 日本の街道の中心お江戸日本橋であるが、この日本橋の上に、昭和39年(1964)の東京オリンピックのとき、高速道路が架けられてしまった。こともあろうに、この高速道路に「日本橋」という大きな名盤が付けられているので勘違いをする人が多いという。下の橋が、本物の日本橋である。

 日本橋の下を流れる川が、日本橋川である。この川は、先回「神田川コースその2」で紹介したように、神田川江戸川)から三崎橋分流している川である。

 川の右岸を200mほど行くと江戸橋に出る。江戸橋は昭和通りにつながっていて、橋のがたいへん広い
日本橋
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 江戸橋を渡って右折すると100mほどで小舟町交差点に出る。日本橋小舟町(こぶなちょう)側の角で、天気がよいのに照る照る坊主が吊り下がっている店を見つけた。坊主の頭はつるつるである。鶴鶴といえば亀亀と応える。吊り下げてある竹の根元部分を見ると、亀甲竹のように見えた。

 江戸時代に、この辺りでは下駄および雪駄を売る店が並んでいて、晴れの日は雪駄が、雨の降る日は下駄と傘がよく売れたので、照る日も降る日もいつも繁盛していたという。こんなところから町の名前を、照降町といったという。

 蛎殻町の交差点に向かって200mほど行くと、左手に小網神社案内標識が見える。
てるてる坊主のある店
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小網神社の標識
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 案内標識の先に、小網神社がある。案内標識を見落とすと、わかりにくいところである。正式には、小網稲荷神社という。当神社の二之宮神輿は、大江戸飾り神輿として有名である。

 境内には、廃仏毀釈で廃絶した万福舟乗弁財天が奉斉されていて、東京銭洗い弁天として崇敬を広めている。

 また11月28日には、どぶろく祭(新嘗祭)が行われている。
小網稲荷神社
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万福舟乗弁財天
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 小網神社を出て今来た道を戻り、広い道に出たら左前方の信号を渡って日本橋川方向に、斜めに入る道を200mほど行くと鎧橋に出る。

 ここは、明治5年(1872)に橋が架けられるまでは、鎧の渡があったところである。名前の由来については、源義家平将門にまつわる伝説がある。詳しくは、説明板を参照乞う。
 
鎧橋
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鎧の渡説明板
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 鎧橋を渡り川に沿って100mほど行くと左手に東京証券取引所の建物が、右手に兜神社がある。

 東京証券取引所は内部を見学することができるが、今は取引が電子化されているので、昔のような取引風景は見ることができない。
東京証券取引所
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東京証券取引所内部
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 東京証券取引所を出るとすぐ道の向こう側に、兜神社がある。御神体は、京都伏見稲荷の神体山の神石である。大国さまと恵比寿さまを合祀している。

 江戸後期の地図にも鎧稲荷兜塚が描かれており、この頃すでに当地の鎮守として信仰を集めていた。

 明治4年(1874)兜神社創建して鎧稲荷と兜塚を祀った。明治11年(1878)東京株式取引所氏子総代となったので、以来証券界からの信仰を集めるようになった。
兜神社
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兜神社
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 社前に兜石がある。もともとは兜塚があったという。これに関しては次のような伝承がある。

 平将門の兜を埋めて塚を作り兜山とした。
 源義家兜を掛け戦勝祈願した。その凱旋時に、この地に兜を埋め兜塚を作った。

 兜町の地名は、この兜神社にちなんでいる
兜石 click
兜神社の紋
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 兜神社を出て鎧橋まで戻り、右折して平成通りを次の信号まで100mほど行き、そこを左折してまた100mほど行くと、左手に智泉院がある。ここが今日のお目当ての、霊験あらたか茅場町のお薬師さまである。万霊塔が高く建っている。

 本尊薬師如来は、明治時代の廃仏毀釈などの影響もあって、現在は川崎市等覚院に安置されているという。
智泉院
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万霊塔 click
 左の写真の大きな鋳物天水桶は、天保12年(1841)に本尊開帳されたのを記念して、奉納されたものである。当時の賑わいを今に伝える歴史的文化財である。詳細は説明板を参照乞う。

 はるばる浅草から茅場町までアンマの梅喜さん日参したことからも、江戸庶民厚い信仰広く集めていたお薬師さまであったことが知れる。
天水桶
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智泉院説明板
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 智泉院と道路を挟んで、摂社日枝神社がある。摂社とは、永田町の本社日枝神社に縁故の深い神を祭った神社で、本社と末社の間に位するという。

 昔は智泉院を含んだ広い社域であった。 境内には、明徳稲荷神社が祭られている。
摂社日枝神社
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明徳稲荷神社
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 日枝神社を出て茅場町交差点の方向に50mほども行くと、松尾芭蕉の高弟の1人である宝井其角住居跡の碑がある。

 丁度ここが、地下鉄東西線日比谷線茅場町の駅である。

 今回の散歩は短い距離であったが、ここで一区切りとする。
其角住居跡の碑
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あとがき
 いったい、茅場町お薬師さまから梅喜さん夫婦が住んでいた浅草馬道までの距離は、どのくらいあったのだろうか。お薬師さまを出て日本橋川に架かる鎧橋を渡り、水天宮を経て浅草橋を渡り、隅田川沿いに吾妻橋に至り、馬道に面した浅草寺の二天門までは約4.5kmある。往復で約9km、2里9町である。(江戸・明治時代)の人は、9kmくらいなら、お参りをしている時間と盲人であることを加味しても、2時間くらいで往復していたのではないかと思われる。

 横浜から浅草まで歩いて帰るとか、毎日往復9kmを日参するという話に引きかえ、今回散歩した距離は、寄り道などを加算しても僅かに2km、半里そこそこである。散歩といえないくらいの短い距離であったが、そのわりには、見所の多いコースであった。さすが日本橋界隈である。


 今回のように短いコースは、距離的に近いコース、例えば「百川」のコースと接続して歩くのも一案であると思われる。

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