大江戸写真散歩

白金高輪駅より  目黒駅へ

まえがき
 麻布茗荷谷に住む屑屋の正直清兵衛が、清正公(せいしょうこう)様脇の裏長屋に住む浪人、千代田卜斎 (ぼくさい)から、仏像二百文引き受ける。これを細川家家来独身者高木佐久左衛門三百文買い上げて、ぬるま湯で洗って いると、紙がはがれて五十両の金が出てくる。
 高木は「仏像は買ったが、五十両は買ったつもりはない」と清兵衛返すが、卜斎は 「売ったものは、自分の物ではない」と受け取らない。清兵衛は困って家主に相談し 「高木卜斎各二十両清兵衛十両」でどうかと話す。浪人の卜斎古い茶碗を高木に渡して、その代価という名目で二十両の金を受け取る
 この美談が細川の殿様の耳に入り、茶碗をお見せすることになる。居合わせた目利きが、これは名器「井戸の茶碗」だと判じ、殿様が三百両でお買い上げるになる。
 半分の百五十両卜斎届けると、卜斎は「もう渡すなに物もない。貰ってくれ」という。正直清兵衛が高木に「今は貧乏でひどいナリをしているが、高木様の手で磨けば、きっと美人になりますよ 」というと、高木「いやぁ、もう磨くのはよそうまた小判出るといけない」。

 正直者善人ばかりが繰り広げる、胸のすくような落語である。落語の舞台となっている清正公様こと覚林寺細川様の屋敷跡をめぐって、散歩に出かけることとする。
地図
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 東京メトロ南北線および都営三田線白金高輪駅から魚藍坂下交差点に向けて進む。その先20mほどで道の右手に「史跡荻生徂徠墓」の真新しい標石が見える。江戸中期儒学者荻生徂徠がある長松寺である。

 山門の脇には「浄土宗 長松寺」と彫られた石塔のような標石が建っている。
長松寺
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荻生徂徠の墓
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荻生徂徠説明板
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 この地域は、多くのお寺が集まって寺町を形成している。各お寺の門構え個性があって面白いことに気がついた。

 長松寺の先が忍願寺で、その隣が幽霊坂である。昔はもっと急なそして昼でも薄暗い坂道であっただろう。今は写真でみるように、カラフル通学路になっている。

 その先が瀟洒な門構え隋応寺である。
忍願寺
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幽霊坂
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隋応寺
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 幽霊坂は、登ってみると見た目以上にで、かつ長い坂である。坂を登りきった四つ角右手に玉鳳寺がある。体の病めるところに白粉を塗って祈願する「お化粧地蔵尊」が祀られている。

 玉鳳寺手前の細い道を右折して、質素な門構え南台寺の前を通って魚藍坂の通りに出る。
玉鳳寺
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お化粧地蔵尊
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南台寺
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 魚藍坂に出たところに大信寺がある。三味線寺と称する。石村近江(寛永13年(1636)没)は、京都から江戸に移住して三味線を完成させた名工であった。「淨本近江」とも呼ばれ、江戸における三味線製作始祖とされており、関係業界がある。

 坂を登っていくと道の左側に宝徳寺があり、その先に魚藍寺がある。
大信寺
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三味線寺
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宝徳寺
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 魚藍寺の門は、なぜか赤門である。境内には馬頭観音塩地蔵亀石(子宝石)などが祀られている。
魚藍寺山門
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馬頭観音
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魚藍寺本堂
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塩地蔵
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 魚藍坂を350mほど登った先に続いている坂が、伊皿子(いさらこ)坂である。明国人伊皿子(いんべいす)が住んでいたところとも、大仏(おさらぎ)がなまったものともいわれている。
魚藍坂
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伊皿子坂
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 魚藍坂を登りきった伊皿子交差点を右折して100mほど行った右手一帯が、現高松宮邸であり、昔の肥後熊本藩細川家下屋敷跡である。

 細川家の家来で独身者の高木佐久左衛門住んでいた武家屋敷のあったところである。
 
熊本藩下屋敷跡
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熊本藩下屋敷跡
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 細川家下屋敷跡の前を300mほど進んだ道の右側に、「大石義雄等自刃跡」のが見える。この碑の奥に、史跡がある(「赤穂義士引揚げコースその3」で歩いたところです)。

 次の信号を右折すると、そこは天神坂である。むかし坂の南側に菅原道真公の祠があったためという。坂の途中に、古寿老稲荷神社がある。
大石義雄等自刃跡
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天神坂
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古寿老稲荷神社
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 天神坂を下ったところが桜田通りで、道の向側に覚林寺全容が見える。山門の手前右側に「鎮守 清正公大神儀」と彫られた大きな石塔が、ぽつんと立っている。

 近くに千代田卜斎が住んでいた裏長屋があったり、屑屋の正直清兵衛たちがたむろしていた茶屋があったとは、とても想像できない風景である。

覚林寺遠望
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覚林寺石碑
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覚林寺山門
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 加藤清正(1562〜1611)は、文禄・慶長の役に際し朝鮮の王族の子(6歳の姉と4歳の弟)を日本に連れ帰ったは長じて安房小湊の誕生寺の18世可観院日延和尚となった人で、清正公の遺徳を偲んで覚林寺開創したと伝えられている。通称「白金の清正公さま」である。

  山門は安政3年(1856)に、清正公堂は慶応元年(1865)に再建された古い建造物である。
清正公堂
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覚林寺説明板
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 目黒通りに出て日吉坂を登る。坂名の由来は、役者日吉喜兵衛が付近に住んでいたため、という。

 日吉坂上の信号を左折すると、天神坂の古寿老稲荷神社とよく似た名前の古地老稲荷神社がある。火事の多かった江戸では、火伏せの稲荷信仰が盛んであったが、この稲荷神社も「人丸様」(火止るさま)と崇敬されていた。わけても、関東大震災と先の戦災火炎免れたので、祭神のご利益と深い信仰を集めているという。

 この先が、桑原坂で、すぐハ芳園である。
日吉坂
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古地老稲荷神社
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 八芳園のある白金台は、江戸時代初期には、徳川家康の側臣の一人、大久保彦左衛門屋敷であったという。

 ハ芳園は結婚式場として有名であり、庭園を参観することができる。天下の糸平、田中平八の茶室「夢庵」や久原財閥の総帥、久原房之助の茶寮「霞峰庵」などが移設されている。
ハ芳園入口
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ハ芳園庭園
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ハ芳園庭園
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あとがき
 都心の雑踏を離れて、八芳園の庭園散歩した余韻を残してJR目黒駅まで歩き、ここで今回の散歩を打ち上げにする。歩いた距離は、5,6kmほどであっただろうか。

 屑屋の正直清兵衛住んでいたという麻布茗荷谷は、六本木の谷町インターチェンジ辺りであるという。細川家のお屋敷までは直線距離で3km、道なりに歩いたら倍の6km、往復では12kmは充分にあっただろう。ましてや「くずーや、おはらい」といって、あちらこちらの長屋やお屋敷を歩き回るのであるから、1日の歩行距離たいしたものであった。昔の人は、ともかく、よく歩いたと思う。

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