大江戸写真散歩
白金高輪駅より 目黒駅へ
東京メトロ南北線および都営三田線の白金高輪駅から魚藍坂下交差点に向けて進む。その先20mほどで道の右手に「史跡荻生徂徠墓」の真新しい標石が見える。江戸中期の儒学者、荻生徂徠の墓がある長松寺である。 山門の脇には「浄土宗 長松寺」と彫られた石塔のような標石が建っている。 |
click |
click |
click |
この地域は、多くのお寺が集まって寺町を形成している。各お寺の門構えに個性があって面白いことに気がついた。 長松寺の先が忍願寺で、その隣が幽霊坂である。昔はもっと急なそして昼でも薄暗い坂道であっただろう。今は写真でみるように、カラフルな通学路になっている。 その先が瀟洒な門構えの隋応寺である。 |
click |
click |
click |
幽霊坂は、登ってみると見た目以上に急で、かつ長い坂である。坂を登りきった四つ角右手に玉鳳寺がある。体の病めるところに白粉を塗って祈願する「お化粧地蔵尊」が祀られている。 玉鳳寺手前の細い道を右折して、質素な門構えの南台寺の前を通って魚藍坂の通りに出る。 |
click |
click |
click |
魚藍坂に出たところに大信寺がある。三味線寺と称する。石村近江(寛永13年(1636)没)は、京都から江戸に移住して三味線を完成させた名工であった。「淨本近江」とも呼ばれ、江戸における三味線製作の始祖とされており、関係業界の碑がある。 坂を登っていくと道の左側に宝徳寺があり、その先に魚藍寺がある。 |
click |
click |
click |
魚藍寺の門は、なぜか赤門である。境内には馬頭観音や塩地蔵や亀石(子宝石)などが祀られている。 |
click |
click |
click |
click |
魚藍坂を350mほど登った先に続いている坂が、伊皿子(いさらこ)坂である。明国人伊皿子(いんべいす)が住んでいたところとも、大仏(おさらぎ)がなまったものともいわれている。 |
click |
click |
魚藍坂を登りきった伊皿子交差点を右折して100mほど行った右手一帯が、現高松宮邸であり、昔の肥後熊本藩細川家下屋敷跡である。 細川家の家来で独身者の高木佐久左衛門が住んでいた武家屋敷のあったところである。 |
click |
click |
細川家下屋敷跡の前を300mほど進んだ道の右側に、「大石義雄等自刃跡」の碑が見える。この碑の奥に、史跡がある(「赤穂義士引揚げコースその3」で歩いたところです)。 次の信号を右折すると、そこは天神坂である。むかし坂の南側に菅原道真公の祠があったためという。坂の途中に、古寿老稲荷神社がある。 |
click |
click |
click |
天神坂を下ったところが桜田通りで、道の向側に覚林寺の全容が見える。山門の手前右側に「鎮守 清正公大神儀」と彫られた大きな石塔が、ぽつんと立っている。 近くに千代田卜斎が住んでいた裏長屋があったり、屑屋の正直清兵衛たちがたむろしていた茶屋があったとは、とても想像できない風景である。 |
click |
click |
click |
加藤清正(1562〜1611)は、文禄・慶長の役に際し朝鮮の王族の子(6歳の姉と4歳の弟)を日本に連れ帰った。弟は長じて安房小湊の誕生寺の18世可観院日延和尚となった人で、清正公の遺徳を偲んで覚林寺を開創したと伝えられている。通称「白金の清正公さま」である。 山門は安政3年(1856)に、清正公堂は慶応元年(1865)に再建された古い建造物である。 |
click |
click |
目黒通りに出て日吉坂を登る。坂名の由来は、能役者日吉喜兵衛が付近に住んでいたため、という。 日吉坂上の信号を左折すると、天神坂の古寿老稲荷神社とよく似た名前の古地老稲荷神社がある。火事の多かった江戸では、火伏せの稲荷信仰が盛んであったが、この稲荷神社も「人丸様」(火止るさま)と崇敬されていた。わけても、関東大震災と先の戦災で火炎を免れたので、祭神のご利益と深い信仰を集めているという。 この先が、桑原坂で、すぐハ芳園である。 |
click |
click |
八芳園のある白金台は、江戸時代初期には、徳川家康の側臣の一人、大久保彦左衛門の屋敷であったという。 ハ芳園は結婚式場として有名であり、庭園を参観することができる。天下の糸平、田中平八の茶室「夢庵」や久原財閥の総帥、久原房之助の茶寮「霞峰庵」などが移設されている。 |
click |
click |
click |
あとがき 都心の雑踏を離れて、八芳園の庭園を散歩した余韻を残してJR目黒駅まで歩き、ここで今回の散歩を打ち上げにする。歩いた距離は、5,6kmほどであっただろうか。 屑屋の正直清兵衛が住んでいたという麻布茗荷谷は、六本木の谷町インターチェンジ辺りであるという。細川家のお屋敷までは直線距離で3km、道なりに歩いたら倍の6km、往復では12kmは充分にあっただろう。ましてや「くずーや、おはらい」といって、あちらこちらの長屋やお屋敷を歩き回るのであるから、1日の歩行距離はたいしたものであった。昔の人は、ともかく、よく歩いたと思う。 |