大江戸写真散歩

佃島から  霊岸島へ

まえがき
 歯の悪い人は、梨に氏名、年齢、悪い歯の位置を書いて戸隠さまにお供えし、これを川に流して、梨を断っていると悪い歯が治る、という言い伝えがある。
 神田お玉が池に住む小間物屋の次朗兵衛さんが佃祭に行き、仕舞い舟に乗って帰ろうとすると、一人の婦人に呼び止められる。三年前に吾妻橋から身を投げようとしたところを助けられ、その上5両の金を恵んでもらった者であるといい、お礼がしたいので家に来てくれという。そこへ、満員の仕舞い舟が沈んで全員溺死したとの知らせが入る。
 翌朝、皆が葬式の準備をしているところにひょっこり次郎兵衛さんが帰ってくる。皆が「情けは他人の為ならず」と喜ぶ。これを聞いていた与太郎が、人助けをすればよいことがあると、ガガンと頭の芯にしみ込んでしまい、5両の金を工面して身投げを探しに出かけ、運よく見つけて後から羽交いじめにして身投げを止める
 ところがどっこい、「私は歯が痛いから涙ぐんでいたんです」「だって、袖に石が入っているじゃないか」「これは戸隠さんに納める梨ですよ」。

 今回の散歩は、地下鉄有楽町線の新富町駅から佃大橋を渡って佃島に入り、中央大橋を経て霊岸島といわれた新川の街を一周して、地下鉄東西線または日比谷線の茅場町駅まで歩くこととする。あちらこちらに寄り道をするので、6kmほど歩くことになる。
地図
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 佃島隅田川河口にできた自然の寄席洲であった。初代将軍家康のとき、摂津国佃村の漁民を招いて住まわせたところと伝承されている。

 島との間には、正保2年(1645)に、佃の渡しが通った。以後300年の歴史を持つこの渡しは、昭和39年(1964)8月佃大橋の完成により廃止された。隅田川最後の渡しであった。

 左の写真は陸側「佃島渡船」の石碑で、昭和2年に手漕ぎ渡船を曳船渡船にしたときの記念に建てられたものである。右の写真は島側の石碑である。
佃島渡船の碑
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佃島渡船の碑
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 佃大橋には、名盤の付いた親柱らが見当たらない。柱ではなくて、欄干に名盤を見つけた。

 橋の上からの佃島遠望すると、桜並木街のただずまいが、高層住宅ビル圧縮された感じである。

 写真の右側から、住吉神社の鳥居、緑色の水門、復元された灯台桜並木、左の端に中央大橋のつり橋のワイヤーが見える。
佃大橋
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佃島遠望
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 佃大橋を渡ってすぐ左折して、川岸に沿って100mも行くと、先に示した「佃島渡船」の石碑がある。その近所に佃煮屋が2,3軒ある。

 その先に住吉神社の第一の鳥居があり、その奥に本鳥居がある。佃島が、安政の大地震、関東大震災、戦火の被害受けなかったのは、住吉様のおかげだと、島の人の崇敬が厚い

 鳥居には白地に呉須で額字、雲文などを書いた縦109cm、横78cmの陶製の扁額が上がっている。文字は有栖川宮徳仁親王の筆になり、明治15年(1882)に製作されたものである。

 今年(平成20年)は、3年に一度のお神輿の出る本祭の年で、8月1日から4日まで行われる。今は神輿が川に入ることが禁じられているので、船で晴海沖まで出て戻ってくるそうである。

住吉神社
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鳥居の扁額
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 境内には、五世柄井川柳を継いだ水谷金蔵の句碑「和らかでかたく持ちたし人こころ」がある。水谷金蔵の人となりについては、詳しい説明板が立ててある。

 また、昭和28年に東京鰹節類卸商業協同組合によって建てられた鰹塚がある。裏面に、池田(彌)三郎撰になる鰹塚縁起がある。
五世柄井川柳句碑
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句碑説明板
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鰹塚
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 住吉神社を出て朱塗りの佃小橋を渡り右折してすぐのところに、左側に浪除稲荷大明神を、右側に於咲稲荷大明神を祀った神社がある。

 航海安全、土木工事安全の祈願をするところという。

 鳥居脇には区民有形民族文化財に登録された、三個の力石がある。
浪除稲荷大明神
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浪除稲荷大明神
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 街の狭い通路の入口に佃天台子育地蔵尊の幟が2本立っている。住宅地の路地の奥にあるため分かりにくくまた見落としやすい位置である。この通路には民家の玄関があり、通り抜けの道であると同時に、洗濯機などが置いてあって生活の場にもなっている。

 開基は徳川家康江戸遷都後すぐであり、歴史ある地蔵尊で、子供の守護、長寿延命、家内安全ならびに諸願成就にご利益があるという。

地蔵堂入口
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地蔵尊お姿
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 佃島北端の佃公園の桜を見ながら、高層ビルの下を中央大橋に向けて歩を進める。

 橋は鋼線が三角形に張られたつり橋で、遠方からその存在がよく確認できる。橋詰めに「中央大橋」の石標がある。

 橋を渡ってすぐ左折し川岸を150mほど行ったところに、東京湾の潮位を調べている霊岸島検潮所がある。 バックの桜並木は、今歩いてきた佃公園である。
中央大橋
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中央大橋の石標
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霊岸島検潮所
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 検潮所から北の方向に300mほど歩いたところに金比羅神社がある。航海の安全を祈ってのお宮である。

 その向かい側に於岩稲荷田宮神社がある。花柳界や歌舞伎関係者の参詣で賑わったところという。

 本殿横の石の鳥居とその奥のお百度石は、中央区民有形文化財に登録されている。

 ここから再度川岸に出て、親水テラスを川上に進むと、新川の碑が建っている。
金比羅神社
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於岩稲荷田宮神社
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於岩稲荷田宮神社
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 新川は豪商川村瑞賢が諸国からの船の陸揚げのために万治3年(1660)開削したといわれ、当時この一帯には多くの酒問屋が軒を連ね、河岸には酒蔵が建ち並んでいた。

 新川は延長590m川幅11〜16mの運河であったが、昭和23年(1948)戦災焦土をもって埋め立てられた。

 新川の碑から400mほどで霊巌島の碑にいたる。当地区は、寛永元年(1624)に、雄譽霊巌上人が霊巌寺を創建して、土地開発を行ったことにより、霊巌島という。霊巌寺は、明暦の大火で全焼して白河町に転じた。碑の前には、小さなお地蔵さんがいつも置かれている。

 碑の隣に、出土した越前堀の護岸用の石垣石が展示してある。
新川の碑
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霊巌島の碑
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 霊巌島の碑から東北に200mほどのところに新川大神宮がある。前の道が以前の新川筋であったようだ。酒問屋の守護神として崇敬が篤い。

 ここから永代通りに出て湊橋通りとの交差点に向かう。交差点の手前に、川村瑞賢屋敷跡の説明板がある。

 さらに100mほど進むと霊岸橋である。
新川大神宮
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瑞賢屋敷跡説明板
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霊岸橋
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 霊岸橋を渡ってすぐ左折し、亀島川に沿って400mほど進み新亀島橋から亀島橋にいたる。

 ここには、堀部安兵衛の碑や芭蕉の句碑およびこの地に移住して功績を伝えられる人物として、東洲斎写楽伊能忠敬説明板がある。

 これらを読み終えて、今回の散歩を終わる。
 
堀部安兵衛の碑
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芭蕉の句碑
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東洲斎写楽と伊能忠敬の説明板
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あとがき
 今回は、まだ名残の桜が5分咲きでちらちら散り急いでいる佃島を散策して、新川ら霊岸橋を渡って萱場町に出た。ここで解散する予定であったが、飲み屋の開店時間までにまだ少し時間があったので、八丁堀まで足をのばして堀部安兵衛の碑などを見て、その足で東京駅の八重洲口まで歩いて解散とした。

 落語「佃祭」は、神田お玉ヶ池に住む小間物屋の次朗兵衛さんが佃祭に行ったところから話が始まるが、このお玉ヶ池というのは、地下鉄都営線岩本町駅に近いところにあった。今はもう池はないが、お玉稲荷神社お玉が池児童公園(岩本町2)にその名を残している
お玉稲荷神社
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