大江戸写真散歩

JR王子駅から  JR上中里駅へ
まえがき

落語にでてくる六十六部とは、66部の写経(おい)に入れて背負い諸国の霊場に納めて遍歴する人のことである。単に、六部ともいう。

 落語「花見の仇討」の筋書きは、二人の巡礼が花の飛鳥山でばったり親の仇に出会い、斬り合いをはじめ、見物人が大勢集まった頃を見計らって六十六部が中に割って入り、背負っている笈の中からおもむろに酒肴と三味線を取り出し、見物人の緊張がどっとほぐれたところでかっぽれを踊ろうという趣向をつくる。いよいよ本番になって大勢の見物人が集まったが、仲裁役の六十六部が事情があってなかなか現れない。そこに本物の武士が、巡礼の助太刀をいたすと刀を抜いて中に割って入ってくる始末。これを見て3人が逃げ出す。「これこれ、逃げるにはおよばん。まだ勝負は五分だぞ」「ええ、かんじんの六部がまいりません」

 今回の散歩は、落語「花見の仇討」の舞台となった桜満開の飛鳥山を主体に歩くこととする。
地図
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 JR王子駅を音無親水公園のほうに出る。道路より一段下がって、川沿いに手入れの行き届いた遊歩道が作られ、水車などが配してある。下から眺める桜並木が美しい。

 川下に歩くと、落語「王子の狐」に出てくる、卵焼きで名高い料亭扇屋の裏手に出る。今は商業ビルに建て変わっている。

 一旦王子駅に戻って陸橋を渡り、飛鳥山公園の裏手の入口を山の斜面に沿って登る。駅から10分ちょっとで坂を上りきって、公園に入る。
音無親水公園の碑
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音無親水公園
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元料亭扇屋
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 公園の中に入って最初に目に付くのが、佐久間象山の「桜の賦の碑」である。吉田松陰密出国の企てに連座して松代藩に蟄居していた時の作で、桜を愛でるとともに己の愛国心を謳いあげているという。

 この辺りは一面に桜桜桜である。ここは、向島とともに仮装が許されていたので、趣向変装、また土皿を風に乗せて遠くへ飛ばすカワラケ投げなども行われていて、大変な賑わいであった。

 落語「花見の仇討」も、今私が立っているここら辺りで行われたのだと想像しながら、歩を進める。
桜の賦の碑
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花の飛鳥山
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 すぐ近くに「飛鳥山碑」がある。「桜の賦の碑」もそうであるが、屋根つきで風雨を避けている。

 八代将軍吉宗は、鷹狩りの際しばしば飛鳥山を訪れ、享保5年(1720)から翌年にかけて、1270本の山桜の苗木を植栽し、江戸庶民に開放した。碑にはこの経緯などが記されているが、その文章は当時から難解な碑文の代表とされていた。詳細は、説明板を参照ください。
飛鳥山碑
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飛鳥山碑説明板
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 飛鳥山公園の南部分には、紙の博物館飛鳥山博物館渋沢資料館が鼎立している。これらの建物の横の道が六石(ろっこく)坂である。坂上に租6石を納める水田があったのでその名がついた、とある。

 ここに飛鳥山公園入口の標石がある.アスカ(飛鳥)とは、読みにくい字ではある。

 なお、ここを飛鳥山と呼ぶようになったのは、昔この丘に飛鳥明神の祠があったからだという。
六石坂の碑
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飛鳥山公園入口
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 公園を出て400m程行ったところが西ヶ原の一里塚である。

 岩槻(いわつき)街道(別名日光御成街道、今の本郷通り)の両側には松が植えられ、一里ごとに塚を設け、この上にを植えて一里塚とした。この塚は、日本橋より数えて第2の一里塚に当たる。

 明治になって、電車軌道の延長のため、この一里塚の撤廃が図られたが、渋沢栄一初め有識者の議を入れて一里塚を避けて道を造ったので、塚は今日まで昔の姿で保存されている。 当時の榎は枯れたが、新しく植栽された木が茂っている。
西ヶ原一里塚の碑
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一里塚の榎
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 一里塚の横に七社神社の参道と鳥居がある。イザナギノミコトなど七神が祀られているので七社神社という。

 この地は、かっては一本杉神明宮の社地で、樹齢千年余の杉の神木があったが枯れたので、明治44年(1911)に伐採した。現在もその切り株が残っているという。

 ここの子連れの狛犬(獅子?)が、奇妙であった。
七社神社
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狛犬
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狛犬
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 拝殿の前にウコンの桜があったので、珍しいと思い、パチり。

 七社神社を出て400mほど来たところに東京農工大発祥の地の碑があり、続いていて滝野川公園入口の標石がある。
ウコンの桜
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東京農工大
発祥の地の碑
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滝野川公園入口
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 地震の科学館の前を通り過ぎると、源義家が祀つられている平塚神社の前に出る。

 ここは平塚城があったところで、その伝承が説明板に記されている。

 奥の深い境内で、ここでもまた、狛犬の姿が奇妙である。

 境内の東側の道を100mほど北に行くとJRの上中里駅である。
平塚神社
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平塚城伝承
説明板
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平塚神社
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平塚神社
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あとがき
 落語「花見の仇討」の舞台を上野山に設定している噺家もいるが、江戸時代は、上野山は寛永寺の聖域であるから、花見遊山のどんちゃん騒ぎは許されていなかった。もし、上野山のお花見であるとすれば、それは明治以降の時代設定となる。

 現在の飛鳥山は、道路拡張のために相当の部分が削り取られてしまい、往時に比べれば狭くなっている。

 今回のコースは2.5kmほどであるが、飛鳥山の3つの博物館や資料館および地震の博物館などを覗いていると、結構な半日コースとなる。

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