JR王子駅を音無親水公園のほうに出る。道路より一段下がって、川沿いに手入れの行き届いた遊歩道が作られ、水車などが配してある。下から眺める桜並木が美しい。 川下に歩くと、落語「王子の狐」に出てくる、卵焼きで名高い料亭扇屋の裏手に出る。今は商業ビルに建て変わっている。 一旦王子駅に戻って陸橋を渡り、飛鳥山公園の裏手の入口を山の斜面に沿って登る。駅から10分ちょっとで坂を上りきって、公園に入る。 |
音無親水公園の碑 click |
音無親水公園 click |
元料亭扇屋 click |
公園の中に入って最初に目に付くのが、佐久間象山の「桜の賦の碑」である。吉田松陰密出国の企てに連座して松代藩に蟄居していた時の作で、桜を愛でるとともに己の愛国心を謳いあげているという。 この辺りは一面に桜桜桜である。ここは、向島とともに仮装が許されていたので、趣向や変装、また土皿を風に乗せて遠くへ飛ばすカワラケ投げなども行われていて、大変な賑わいであった。 落語「花見の仇討」も、今私が立っているここら辺りで行われたのだと想像しながら、歩を進める。 |
click |
click |
すぐ近くに「飛鳥山碑」がある。「桜の賦の碑」もそうであるが、屋根つきで風雨を避けている。 八代将軍吉宗は、鷹狩りの際しばしば飛鳥山を訪れ、享保5年(1720)から翌年にかけて、1270本の山桜の苗木を植栽し、江戸庶民に開放した。碑にはこの経緯などが記されているが、その文章は当時から難解な碑文の代表とされていた。詳細は、説明板を参照ください。 |
click |
click |
飛鳥山公園の南部分には、紙の博物館、飛鳥山博物館、渋沢資料館が鼎立している。これらの建物の横の道が六石(ろっこく)坂である。坂上に租6石を納める水田があったのでその名がついた、とある。 ここに飛鳥山公園の入口の標石がある.アスカ(飛鳥)とは、読みにくい字ではある。 なお、ここを飛鳥山と呼ぶようになったのは、昔この丘に飛鳥明神の祠があったからだという。 |
click |
click |
公園を出て400m程行ったところが西ヶ原の一里塚である。 岩槻(いわつき)街道(別名日光御成街道、今の本郷通り)の両側には松が植えられ、一里ごとに塚を設け、この上に榎を植えて一里塚とした。この塚は、日本橋より数えて第2の一里塚に当たる。 明治になって、電車軌道の延長のため、この一里塚の撤廃が図られたが、渋沢栄一初め有識者の議を入れて一里塚を避けて道を造ったので、塚は今日まで昔の姿で保存されている。 当時の榎は枯れたが、新しく植栽された木が茂っている。 |
click |
click |
一里塚の横に七社神社の参道と鳥居がある。イザナギノミコトなど七神が祀られているので七社神社という。 この地は、かっては一本杉神明宮の社地で、樹齢千年余の杉の神木があったが枯れたので、明治44年(1911)に伐採した。現在もその切り株が残っているという。 ここの子連れの狛犬(獅子?)が、奇妙であった。 |
click |
click |
click |
拝殿の前にウコンの桜があったので、珍しいと思い、パチり。 七社神社を出て400mほど来たところに東京農工大発祥の地の碑があり、続いていて滝野川公園入口の標石がある。 |
click |
発祥の地の碑 click |
click |
地震の科学館の前を通り過ぎると、源義家が祀つられている平塚神社の前に出る。 ここは平塚城があったところで、その伝承が説明板に記されている。 奥の深い境内で、ここでもまた、狛犬の姿が奇妙である。 境内の東側の道を100mほど北に行くとJRの上中里駅である。 |
click |
説明板 click |
click |
click |
あとがき 落語「花見の仇討」の舞台を上野山に設定している噺家もいるが、江戸時代は、上野山は寛永寺の聖域であるから、花見遊山のどんちゃん騒ぎは許されていなかった。もし、上野山のお花見であるとすれば、それは明治以降の時代設定となる。 現在の飛鳥山は、道路拡張のために相当の部分が削り取られてしまい、往時に比べれば狭くなっている。 今回のコースは2.5kmほどであるが、飛鳥山の3つの博物館や資料館および地震の博物館などを覗いていると、結構な半日コースとなる。 |