大江戸写真散歩

大江戸線蔵前から  墨田公園を経て  銀座線浅草まで

まえがき
 文七元結(ぶんしちもっとい)は落語というよりは、人情噺です。

 本所達磨横丁に住む左官の長兵衛は、仕事の腕はいいが博打好きで、細川若狭守下屋敷の中間部屋に入り浸っている。

 お久が、身を売ってつくった50両を手にした長兵衛は、吾妻橋の上で身投げをしようとしているべっ甲問屋の奉公人文七助けるために50両を与えて帰ってくる。

翌日、すられたと思った50両が、実は勘違いであって、お金戻ってきたとべっ甲屋の主人と文七50両返しに来る。べっ甲屋の主人は、お久身請けして文七の嫁にもらいたいと申し込む。

 かくして、文七お久幸せな家庭を築き麹町貝坂元結(髪を結うときに使うこより)を開いて繁盛したという。めでたし、めでたし

 今回の散歩は、地下鉄大江戸線の蔵前駅を出発して、左官の長兵衛が住んでいたという達磨横丁から、墨田公園の水戸家下屋敷跡を経て、地下鉄銀座線の浅草駅まで歩くこととする。

地図
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 大江戸線蔵前駅のA6番出口を地上に出ると、そこは厩橋西詰めである。橋の上から、上流の駒形橋がよく見える。

 橋を渡ったところに、水難者を弔う地蔵尊が祀られている。

 橋を渡って清澄通りに出て、駒形橋方向に一つ目の信号を右折して、二筋目の南北の通りが達磨横丁である。
厩橋からの駒形橋
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地蔵尊
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清澄通
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 達磨横丁の北のはずれに、船江神社がある。

 この社は、昔は朝日神明社と称していた。お伊勢参りが一生の念願であったその頃は、このお社に参拝すれば、同じ神徳が授かると厚い信仰を受けていた。明治の頃になると、土地の人が船江神社と称していたので、これに倣って神名を改めた、と由緒書きに書かれている。

 葛飾北斎80歳代のときこの横丁に移り住んでいて火事にあい、筆1本持って逃げたといわれている。
達磨横丁
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船江神社
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 駒形橋は、明治になってから架けられた橋である。

 右側の写真は、左岸から見た駒形堂の裏側である。

 お堂を隅田川から見ると、駒が駆けているように見えたので駒形堂名が付いたとの説があるが、どうだろうか。
駒形橋
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駒形堂の裏側
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 駒形橋から吾妻橋に掛けての左岸は、遊歩道と植栽が整備されていてベンチなどがあり、憩いの場所になっている。

左の写真は遊歩道から見た吾妻橋で、丁度、水上バスが吾妻橋ターミナルに到着したところである。

 吾妻橋左岸上流側に、あずま地蔵尊が祀られている。

遊歩道からの吾妻橋 klick
吾妻橋
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あずま地蔵尊
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 吾妻橋を渡ったすぐ先に、隅田公園入口の石碑がある。

 その奥のアサヒビールタワーは、こはく色のハーフミラーと頂部の白い外壁で、泡のあふれるビールジョッキを摸したデザインになっている。

 22階の見晴らしのよい和食店で昼食を済ませ、窓越に隅田川の両岸の景色を俯瞰して写す。

 50両をすられたと勘違いした文七が、入水しようとした吾妻橋を真上から見下ろす。


 右岸の橋の袂の青い施設が、水上バス乗船場で、まっすぐ伸びた道が、雷門の前へ行く通りである。
墨田公園入口
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アサヒ
ビールタワー
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吾妻橋全景
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 左の写真は、浅草寺の全景で、右に本堂、中に宝蔵門、左に五重塔が見える。

 中の写真は、手前が東武伊勢崎線の鉄橋、中の青い橋が言問橋、奥の橋が桜橋である。

 川の両岸桜並木であり、左岸を高速道路6号線が走る。右のビルは、墨田区役所である。

 右の写真は墨田区役所の最上階に登って写したもので、水戸徳川家のお屋敷のあった地域を俯瞰している。今は隅田公園となっている。

 奥の方に、牛島神社が見える。
浅草寺
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隅田川
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墨田公園
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区役所の横に勝海舟立像がそびえている。彼は、文政6年(1823)、江戸本所亀沢町(両国4丁目)に生まれた。

 区役所の辺りが細川家の屋敷があった区域で、町奉行手が及ばない中間部屋博打が行われており、長兵衛が通っていたことになっている。

 区役所から隅田公園に行く途中に枕橋がある。文七は、この枕橋で50両すられた、と勘違いしていたのである。

勝海舟立像
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墨田区役所
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枕橋
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 隅田公園に入ると、左手に大きな碑が見える。

 幕末の尊皇攘夷論者であった藤田東湖は、水戸藩精神的影響をあたえた人物である。

 歌碑についての詳細は、説明板を参照してください。
正気歌碑
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正気歌碑説明板
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公園の奥まったところに、本所の総鎮守である牛島神社がある。

 この地方は、平安時代から国営牧場が設置され、向島から両国にかけて牛島といわれていたところで、当神社も牛とのかかわりの深い神社であった。

 狛犬ならぬ狛牛がいる。

牛島神社
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狛牛
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狛牛
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境内には、いろいろ牛にちなんだものがある。撫で牛もその一つである。自分の体の悪い部分を撫で、撫牛の同じ部分をなでると病気が治ると信じられていた。牛島神社の撫で牛は、体だけではなく、心も治ると信じられていた。この牛は、文政8年(1825)頃につくられたものである。

 包丁塚牛の慰霊碑になっている。

 烏亭焉馬狂歌碑がある。
「いそがずば 濡れまじ物と 夕立の あとよりはるゝ 堪忍の虹」

 禄時代に一つの話芸として確立した落語は、その後沈滞したが、焉馬が自作自演の「噺の会」を催し、好評を得たことから江戸落語が盛んになり、現在の落噺の形完成した。これにより、焉馬は落語中興の祖といわれている。

撫で牛
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包丁塚
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焉馬の狂歌碑
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隅田公園を一巡して東南方向に戻ってくると、小高い丘が造られている。この辺り一帯が、小梅の水戸藩邸下屋敷であった。3つの碑は、
 右、隅田公園水戸邸跡由来記
 中、明治天皇行幸所水戸徳川邸旧阯
 左、明治天皇御製
 である。

 文七は、この小梅の水戸藩邸集金して、枕橋吾妻橋を渡り、江戸通を通って馬喰横山の、べっ甲問屋、近江屋まで帰るのであった。この間、約3kmである

 今回の散歩は、ここ水戸藩邸下屋敷跡から枕橋に戻り、吾妻橋に出て、橋を渡って銀座線の浅草駅に着いて、終わりとする。

水戸藩邸下屋敷跡
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 その後文七お久幸せな家庭を築き、麹町貝坂元結(髪を結うときに使うこより)を開いて繁盛したというのが、この人情噺エピローグである。

 後日スポット的ではあるがその貝坂を歩いてみた。

 地下鉄南北線、半蔵門線、有楽町線の永田町駅の4番出口に出て、砂防会館の前の通りを入ると、その先が貝坂である。この辺りに、二人は店を構えたのであろう。

 標柱を見ると、貝坂の由来は、この地が甲州街道にして、一里塚として甲斐塚があったからとか、貝塚法印の墓があったからとかいわれるが、貝塚があったからというのが定説である、と記されている。
貝坂
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貝坂の標柱
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あとがき
 今日の行程は、貝坂は別にして、約4kmである。一見、江戸とは無縁のビールタワーに昇ったりしたが、そこから隅田川両岸俯瞰できたことは、長兵衛文七が走り回った地域理解するのに有意義であった。

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