大江戸写真散歩
JR田町から JR浜松町まで
田町駅を第一京浜に出て右に100mも行くと、第一田町ビルの角に「江戸開城 西郷隆盛 勝海舟 会見之地」の丸い石碑が見える。ここは薩摩屋敷の跡である。石碑の裏面及び台石に、その説明がある。 第一京浜は旧東海道に相当するので,その東側はすぐ海辺であった。 この石碑の角を右に曲がって細い道を50mも進むと、左手角に御穂鹿嶋神社がある。 |
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平成16年、御穂神社と鹿嶋神社は合併して祀られることになった。両社は、焼けたり再建したり、合体したりして今日の姿に再興されており、新しいものと古いものとが共存している。 御穂神社は、京から来た藤原藤房卿を祀ったとも、駿河の三保から漁民が移り住んだことにちなんだ神社だとも、諸説がある。 鹿嶋神社は、常陸の鹿嶋に鎮座した小祠がこの浜に流れ着いて祀られた社だという。 御穂鹿嶋神社の新しい石柱が立っている。 |
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左の写真は、芝浜囃子の碑である。碑の裏面には、大変読みにくいが、廃れかけていたお囃子を復活させたいきさつが記されている。碑は昭和52年の建造である。 第一京浜から入ってきたところに、神社の裏口があリ、ここに右の写真に見るような珍獣の形相をした狛犬2匹が、一つの岩にのって睨みをきかしている。珍しいと思い、シャッタを切った。 |
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珍しい狛犬 click |
社殿の向かって右側の、古い狛犬も珍しい形である。狛犬というよりも獅子の形相で、仔獅子を抱えている。 もっと珍しいのは、この狛犬の台座の「若者中」の「者」と「中」との間に、「不」の字の形をした「几号水準点」が刻まれていることである。 神社の「しおり」によれば、明治初期(1876)に内務省地理局が標高の基準を与えるために各地に設置したもので(霊巌島水位標を零メートルとして測定)、専用の標石を用いたところもあったが、鳥居などの永久構造物に刻印されたものもあった。その中でも、狛犬の台座への刻印は、貴重なものだという。 |
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御穂鹿嶋神社の前に細長く本芝公園が続く。サザエの貝殻が水を噴出している奇抜な造形が面白い。外人の家族をを交えて、多数の親子が遊んでいた。 この付近は、芝の中でも昔から開けたところで、本来の芝という意味で、本芝と呼ばれていた。 江戸時代はこの辺りは砂浜がつづいていた。そして、江戸前といわれた魚が水揚げされていたところで、雑魚場(ざこば)と呼ばれていた。 落語に出てくる勝五郎は、この雑魚場に朝早く仕入れに来て、時間つぶしをしているうちに大金の入った財布を拾うのである。 しばらく下を向いて歩いてみたが、紙屑一つ落ちていない。清掃の行き届いた、清潔な公園であった。 |
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本芝公園の説明板に、古地図がある。右の写真の緑色の現公園地が、雑魚場に当たる。その後ろは網干場となっている。 明治5年(1872)に開通した東海道線は、陸軍の用地を通ることを許されず、芝浜から品川までの約2.7kmを止む無く海上に堤防を造って走ったのである。この結果、雑魚場がこの堤防で海と仕切られてしまうので、止む得ず、堤防にところどころガードを設けて、そこから海に通じるようにしたのである。そのガードは下の写真に見るように、東海道線の下をくぐるガードとなって今日も残っている。 現在の東海道線が、浜松町から品川にかけて大きく逆S字形に曲がっているのは、その名残である。 |
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昔、船が出入りしたガードをくぐって芝浦の方向に出ると、本芝公園の標石がある。この本芝公園の標石はガードの方を向いて置かれており、ここが本芝公園の入口であることを示している。そのように見ると、ガード部分は本芝公園側に属していることになる。 昔は、線路の内側は遠浅の砂浜が続いており、ここを「芝浜」と呼んでいた。ガードをくぐった外側は海で、こちらを「芝浦」と呼んでいた。ここで取れた海老が芝海老であり、ここで獲れた魚が、江戸前の魚である。 |
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本芝公園の標石と向かい合った格好で、芝浦公園の標識が立っている。 頭の上を、浜松町と羽田空港間のモノレールが走っている。 120mほどの細長い公園の先は、東京湾に通じる運河に接しており、釣船や屋形船がもやいてある。 |
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芝浦公園から本芝公園に戻り、東海道線に沿って浜松町の方向に進み、旧海岸通りを渡って700mほど行くと正伝寺につく。 慶長7年(1602)創立の日蓮宗のお寺で、ご本尊は毘沙門天像(伝・伝教大師作)である。江戸3大毘沙門天の1つである。境内に入ると、毘沙門堂 がある。大きな額が目に付く。 左側は2階建ての本堂である。 |
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正伝寺の南側に、やはり日蓮宗の円珠院がある。 白木の山門が真新しく美しい。境内に入ると正面に2階建ての本堂があり、右手に庫裏、左側に墓所が見える。 隣同士の二つのお寺が、競い合って青と赤の派手な幟を立てている。下から見上げると、版画の風景に近代建築がミックスした絵のように見えてくる。 また、幟に書かれている白抜きの文字が勇ましい。いわく「開運大毘沙門天」、いわく「最上位経王大菩薩」とある。 |
円珠院 click |
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静かな裏通りには、道路に面したビルの壁に張り付くようにお稲荷さんが祀られている。こんなところにも、江戸の風情が感じられる。しばらく行くと、古川に突き当たる。川沿いに船宿や料理屋のビルが並んでいる。 第一京浜に出て金杉橋にいたる。下を流れる川が古川で、この川でできた三角州が芝浜だという。すなわち、芝浜とは、金杉から鹿嶋神社までの海岸をいう。 落語に出てくる魚屋の勝五郎夫婦は、この辺りに住んでいたらしい。 古川の上流は渋谷川と呼ばれている。 |
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あとがき 今回の散歩は寄り道も少なく、公園やお寺の中を歩いた分を含めても、3km程度であった。 短い行程のではあったが、家康入府(1590)当時からの、そこに働く漁民と幕府との関わりや、お城への鮮魚の献上と余った魚の売りさばき許可や、雑魚場、魚市場の発展、あるいは東海道線開設の紆余曲折や海岸線の埋め立てなど、歴史的興味が尽きない土地柄であった。 また、落語「芝浜」が一段と身近に感じられるようになった散歩であった。 |