大江戸写真散歩
JR王子駅から 王子稲荷神社一周
王子神社の創立は、この地の領主豊島氏が元亨2年(322)紀州熊野権現より若一王子を勧請して祀ったことに始まる。王子の地名は、ここに由来する。 寛永11年(1634)三代将軍家光が権現造りの壮麗な社殿を造営したところから「王子権現」と称されるようになった。明治になって、王子神社となる。 本殿に向かって左手奥に関神社がある。 「これやこのーーー知るも知らぬも 逢坂の関」で有名な蝉丸公は、逆髪で嘆き悲しむ姉姫の為に、かつら・かもじを工夫したことから、逢坂山に「関蝉丸神社」として祀られている。この「髪の祖神」を、江戸時代に、ここ王子権現境内に「関神社」として奉斎したという。 毛塚は、かつらや床山など毛髪に関係する団体が昭和36(1961)年に建立したものである。 |
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王子神社から今来た道を戻り、音無橋の手前で音無川に降りると、そこは川沿いに音無親水公園である。 少し下流に下ったところが、落語「王子の狐」の舞台になった扇屋の跡である。今はビルに建て替えられて、飲食屋、歯医者などの入った雑居ビルのように見える。 ビルの左手に、九尺二間ほどの卵焼きの売店がある。かの有名な釜焼きも予約をしておけば入手可能とのことである。 扇屋は慶安元年(1648)、初代弥左衛門が農業のかたわら王子稲荷の参詣者を相手に掛け茶屋を開いたのが始まりである。扇屋は文人墨客や商人など町人を客とする料亭として繁盛した。隣には兄の経営する海老屋があって、こちらは武士相手の料亭を開いていたという。 |
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ここを流れる川はもともと石神井川であるが、八代将軍吉宗がここに立ち寄られたとき、紀伊国の音無川に景色がよく似ていると故郷を懐古されたというので、この辺りを音無川というようになったという。 扇屋は以前は対岸に位置していたが、河川改修工事で今のところに移ったそうである。もともと扇屋は、音無川や飛鳥山を借景とした絶好の場所を占めていたのである。 石神井川は、この先で一部暗渠になって隅田川に注いでいる。 音無親水公園は、王子七瀧の景色や、紅葉、桜の名所としての江戸の面影を、後世に留めようとする努力のあらわれである。 |
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一旦音無橋に出て、比較的細い道を右に(滝野川2丁目の方に)入る。その突き当たりに、醸造試験場跡地公園がある。
明治37年(1904)、ここ滝野川に大蔵省の醸造試験場が設置され、江戸時代からの勘と経験による酒造りが、近代的科学によって研究されるようになった。それが昭和34年(1928)、国税庁の直属研究機関となり、平成7年(1995)7月から醸造研究所と改名して東広島市に移転し、さらに、平成13年(2001)4月からは、独立行政法人酒類総合研究所と改名して今日に至っている。 今は、醸造試験場の跡地の一部が公園なり、一部が酒類総合研究所の東京事務所となっている。この場所は、私にとっては、全国新酒鑑評会の一般公開きき酒会に、毎年通った想い出が多い場所である。 |
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酒類総合研究所の前を通ってすぐに、音無し川のほうに下っていくと、滝不動の標石を見る。この辺りは細い昔のままの道が曲がりくねっているので、土地の人に、正受院を尋ねることを勧めます。 正受院は瀧不動とも、赤ちゃん寺とも呼ばれている。 |
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境内に入ってすぐ左手に、王子七瀧の一つ、「不動の瀧跡」の説明板が立っている。不動の瀧の景観や、不動堂のいわれについて記してある。 |
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境内を進むと唐風の鐘楼がある。これをくぐり中に入ると本堂にいたる。 本堂の左奥に地蔵大菩薩、赤ちゃん供養塔がある。 |
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地蔵大菩薩 click |
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また、本堂の脇には、甲冑姿の近藤守重の坐像がある。守重は、寛政10年(1798)、幕府から蝦夷地の調査を命じられ、現地の探検、開発に尽力した人である。 |
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正受寺から音無川(石神井川)の遊歩道に出て、川を遡ること400mほどで紅葉橋の下にいたる。 橋の袂に通称紅葉寺の金剛寺がある。この辺りは、紅葉の名所である。 境内には、風神雷神など一風かわった石像がある。 |
金剛寺 click |
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金剛寺を出て紅葉橋を渡り信号に出て右折し、300mほど行くと本郷通りに出る。丁度北区役所の北側辺りである。ここを左折(北へ)して次の信号で右折する。ここから王子第2小学校の横を通って坂を下りていくと王子稲荷に出る。(斜め右の広い通りを行かないように注意) 王子稲荷は幼稚園が併設されているので、平日は正面からは入れない。南側の稲荷坂の中ほどから入ることになる。 |
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王子稲荷は関東の稲荷神社の総社であり、造りも立派である。 この辺りは十条台の高台と岸町の谷地との中間の崖淵にあり、見晴らしのよいところではあるが、昔は木々が生い茂っていて、狐が沢山住んでいたであろうと想像できる地形である。 |
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本殿の右手を回り込むと、奥の院と狐の穴が祀られている。 この辺りに、王子七瀧の一つ「稲荷の瀧」があったのではなかろうか。そんな風景である。 お石様は、この石を持ち上げたときの軽重により、神意を占うというものである。ちなみに持ち上げてみたが、なかなか重いもので、女性にはちょっと無理な話である。 この狐の穴が、落語の中で人間に化かされた親狐一族の棲家だと思って、拝んできた。 |
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王子稲荷の前をもう150mほど先に進むと、左手に「名主の滝公園」の裏門がある。 嘉永年間(1848〜1854)、王子村の名主が自宅に開いた庭園が始まりである。将軍が鷹狩りのとき休憩に立ち寄ったりして次第に有名になった。 王子七滝の一つ、「名主の滝」があったところである。 |
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名主の滝公園を出て、先刻来た道を300mほど戻ると、京浜東北線の下をくぐる地下道がある。地下道を出た右手に、「石人」と「望柱石」といわれる石造物が並んでいる。 中国では、これらを墳墓の参道に規則正しく置く風習があった。ここにある物は、朝鮮から伝わった李朝時代の物だという。 詳しくは、説明板を参照してください。 |
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北本道りに出てたら、1本北の道を東に入る。この道には、「狐火」「狐の行列」「装束ゑの木」などと書かれた黄色の提灯が、にぎにぎしく吊り下げてある。 この道の先の左角が、装束稲荷である。 言い伝えによると、毎年大晦日の夜、関東各地から集まってきた狐たちがこの榎の下で衣装を改めて王子稲荷神社に参詣したという。狐たちがともす狐火によって、地元の人々は翌年の田畑の豊凶を占ったという。 |
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この装束榎は、昭和4年(1929)、道路拡張に際して切り倒され、装束榎の碑が現在地に移された。 平成5年(1993)からは、王子の狐火の話を再現すべく、毎年大晦日の深夜に、狐のお面をかぶった裃姿の地元の人々が、装束稲荷から王子稲荷までの道のりをお囃子と一緒に練り歩く光景が繰り広げられている。 境内右手に「いざあけん ゑび屋 扇屋 とざすとも 王子の狐 かぎをくはえて」の蜀山人の歌碑がある。 ここから再び北本通りに出て、王子駅に戻る。 |
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あとがき 今回の行程は、お寺の境内を歩いた分を入れても、4kmそこそこであろうか。 しかしそこには、江戸の姿が現代ビルなどに移り変わっていいくなかにあって、たとえ僅かでも江戸の風情を後の世に残し受け継いでいこうとする姿が読み取れた散歩であった。 最後になりましたが、卵焼きの売店において、扇屋十四代の当主にお会いし、扇屋の歴史や音無川について、古い貴重な写真帖などを見せてもらいながら詳細にお話を伺ったことに対し、この場を借りて御礼申し上げます。 |
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