大江戸写真散歩

浅草橋から  榧寺

まえがき
 江戸も末期になると、吉原に行く駕籠を狙って身ぐるみ剥いでいく追いはぎ蔵前あたりに出没するようになった。吉原行きの駕籠が途絶えてしまった。こんなときに吉原に駕籠で乗り付ければさぞかしもてるだろうと、脳天気な江戸っ子が一計を案じ、断わる駕籠屋を説き伏せて、着物を脱いで座布団の下にたたみ込み、初めからで駕籠に乗っていく。案の定、榧寺の前で追いはぎが現れるが、駕籠の中を覗いて「おお、もう済んだか」。
これが「蔵前駕籠」の粗筋である。

 今回は、脳天気な江戸っ子が駕籠に乗って出かけた所から、榧寺までを散歩する。いつものように、途中であちらこちらに寄り道をしながら歩を進める。
地図
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 JR総武線浅草橋東口から、江戸通り蔵前方向に、すなわち東北に向けて出発する。

 放置自転車が多いので、歩道が狭く感じられる。商店街は、玩具、人形、日常の雑貨品の店が多い。派手な幟や垂れ幕が賑やかに店を飾っている。

 車道の向こう側に「月」の字の付く大手人形店のビルが聳えている。脳天気な江戸っ子は、この辺りにあった江戸三大駕籠屋の一つ「江戸勘」にいき、駕籠賃と酒代をはずんで吉原まで駕籠を出してくれと交渉する。以下は、「まえがき」で述べた次第となる。
江戸通り
蔵前方面から
浅草橋方面を見る
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浅草橋商店街
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 数10m行った左側の細い道の奥に、銀杏岡八幡神社の鳥居が垣間見える。最初の寄り道である。

 由緒書きによれば、八幡太郎義家公が隅田川に流れてきた銀杏の枝を拾い上げ、この地に挿して戦勝祈願をし、東北征伐に旅立った。安部貞任一族を平定の後、再びこの地に至ったところ、挿していった銀杏の枝は大木となって繁茂していた。この処に太刀一振りを捧げ、八幡宮を勧進したのがこの社の始まりという。

 この銀杏の木は、文化3年(1806)江戸の大火事で消失したという。境内には今も何本もの銀杏の木が植えられている。
銀杏岡八幡神社
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 元の江戸通りでて200mほど行くと、須賀神社の鳥居がある。
牛頭(ごず)天王社といわれていた古社である。

 落語「後生うなぎ」で赤ん坊が川に投げられそうになった天王橋という橋が、昔はこの先にあった。神社の名前がつけられていた橋である。

 明治に入って、神仏分離令によって須賀神社と改名し、橋名も須賀橋となった。
須賀神社
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 地図で見ると、須賀神社の裏手に区立の育英小学校が見える。

育英小学校は日本で最初に作られた公立小学校の一つであるとの碑を、以前にこの辺りのお寺の前で見た記憶があったので、写真を撮っておいた。

 江戸通りから一歩裏道に入ったこの辺りは,静かな下町の雰囲気である。
育英小学校 click
 育英小学校から裏道を通って江戸通りに出る手前に玩具会館があり(浅草橋2-28)、その建物の横に「閻魔堂」の石碑がある。運慶作の5m弱の閻魔様が祀ってあって多くの参詣人が集ったが、関東大震災で焼失したという。

 石碑の周りに植木鉢などが置かれていて、気づき難い。
閻魔堂跡 click
 閻魔堂跡から江戸通りに出たところが、須賀橋交番前の交差点である。

 この地点に天王橋とも須賀橋とも言われた橋があったのだが、今は交番の名前に残っているのみである。

 橋が架かっていた鳥越川は、今は暗渠になっているという。

 江戸通りを東にわたると交番があり、その裏に公衆トイレがある。
天王橋跡
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 なお東に100mほど行くと、榊神社が見える。

 ここには二つの記念碑がある。その一つが浅草文庫の碑である。

 幕府の蔵書など約13万冊を集めて、明治7年(1874)に設立された官立の図書館で、公私の閲覧に供した。現在は国会図書館等に所蔵されている。
榊神社
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浅草文庫跡 click
 もう一つの記念碑が、現在の東京工業大学の前身である蔵前工業学園の碑である。

 当校は、明治14年(1881)に上記の浅草文庫の跡地に、東京職工学校として創設せられ、以後幾多の変遷を経て、現在の東京工業大学に至っている。その間の経緯が説明板に詳述してあるので、参照してください。
蔵前工業学園の碑
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蔵前工業学園の
説明板 click
 蔵前橋通りと江戸通りが交差する「蔵前1交差点」の南西角に、浅草天文台跡の説明板が立っている。

 天文台とはいえ、ここでは暦術、測量、地誌編纂、洋書翻訳なども行っていた。この施設はその後、蕃書調所、開成所、開成学校、東京大学へと移っていった機関である。
浅草天文台跡
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 江戸通りが、厩橋に通じる春日通りと交わる「厩橋交差点」の東北角に揖取(かじとり)稲荷がある。

 由緒書きによれば、幕府米蔵造営用の石を遠く肥後熊本より運搬の途中、遠州灘沖でしばしば遭難があったが、あるとき稲荷の神の示現を得てより後は航海安全を得ることができた。その神徳奉賽のため浅草御蔵の中稲荷の社を創建し、揖取稲荷と名づけた、とある。
揖取稲荷 click
 蔵前橋辺りから厩橋にかけては浅草御蔵が建ち並んでおり、その西側には、札差の店が並んでいた。今は、「○○トイ商店」とか「○○ホビー総合問屋」といった看板を上げた玩具問屋街になっている。

 なお、札差というのは、旗本や御家人の代理として支給米の受領現金化、時には支給米を担保にした金貸し、を業とするもので、巨額の富を得た。ついには江戸の経済と吉原を牛耳るようになる。

玩具問屋街
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 厩橋交差点を左折して数10m行った左側に、榧寺がある。現在は春日通りに面して門があるが、古い地図などを見てみると、追いはぎが出た落語の舞台としての榧寺は江戸通りに面していて、樹齢千年以上も経ったかと思われる大きな榧の木が、空高く武蔵野の中の巨人のごとく立っていたそうである。

 今でも境内には、戦後植えられたという樹齢60年ほどの榧の木が数本ある。
榧寺
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榧寺の榧の木
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 境内には古い石仏がいろいろ祀られている。しかし、その配置が昨年4月にきたときとは変わっていた。榧の木の根元の庭園も綺麗に手入れされていて風景変わっている。境内が広く明るくなった感じである。

 ここに採録した写真は、今は見ることのできない、昨年の風景である。

 なお、榧寺は、昔は正覚寺といったが、昭和20年(1945)正式にかや寺』となった。
石仏 click
また、狂歌の四天王の一人といわれ、狂歌名を宿屋飯盛と称した、江戸後期の狂歌師・戯作者・国学者であった石川雅望(まさもち)(1754〜1830)のお墓がある。

 また、画家安井曾太郎(1888〜1955)のお墓もある。

石川雅望の墓
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安井曾太郎の墓
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 樹齢1,000年以上と思われていた榧の巨木は、享保9年(1724)の大火によって燃えてしまったが、わずかに残った幹で秋葉の神の像を彫って厨子に入れ、本尊の脇に秘仏として祀っていた。 今は常時開帳してある。お顔は天狗のように見うけられた。背後の炎と下の白狐は、後から添えたものだという。私が写真機を持っているのを見られて「撮ってもよろしいですよ」といっていただいたので、写させてもらった(2008.01.14)。

 また、戦災樹齢250年榧の木が焼けてしまった。その根に近い部分が残っていたので掘り出して磨きをかけ、本堂に飾ってある。いい姿をしていた。

秋葉の神の像
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樹齢250年の榧の木
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あとがき
 今回のコースは、隅田川沿いに先に紹介した「船徳」のコースと並行しており、歩いた距離は寄り道分を多めにみても、せいぜい3.5km程度である。この短い道のりではあるが、御米蔵のこと、札差のこと、宿駕籠のこと、などなど話の種は尽きないものである。

 昨年4月に榧寺を訪問したときには、住職さん(女性)に直接お目にかかることができ、本堂を案内して頂いたり、お初地蔵のお話や、秋葉神社の神様から火伏せのお守札を頂くことになった話などをお聞きした。その上に「榧寺縁起」を頂き、有難うございました。ここに記して、お礼申し上げます

 また今年1月に訪問したときには、
榧寺に関係のある方(84歳)に、いろいろなことについて詳細な説明をお聞きし、このホームページをつくるのに大いに役立たせてもらいました。ここに記して、御礼申し上げます
榧寺縁起 click

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