江東区の五百羅漢寺から 目黒区の五百羅漢寺へ
まえがき 八百屋の棒手振り八五郎は、先だっての大火事で親とはぐれてしまい、驚きのあまり言葉を失ってしまった六つくらいの女の子を連れて商いから帰ってきた。しつけが悪かったのかヤカンを持ってラッパ飲みする癖がある。 八五郎が羅漢寺に連れて行ったら、一人の羅漢をジーッと見つめている。「これも何かの手がかり」と境内に出たところで出会った住職が「今、庫裏の畳替えにきている畳屋が『火事でいなくなった娘がいまだ見付からない』と、涙ぐんでいる」と言う。 そこへ、畳を運び出してきた畳屋を見付けた女の子が「ちゃーん!」と声を出して、跳び付いていった。畳屋はその子を両手で抱きしめて離さない。 八五郎「こちらへ来てよかった。さすが五百羅漢のおかげだ」。 住職「な〜ぁに、今は親子ヤカン(羅漢)だよ」。 というのが、落語「五百羅漢」の粗筋である。親子が対面できてめでたしめでたしという、人情噺である。 今回は、この落語の舞台となった五百羅漢寺を訪ねることにする。ご他聞にもれず、途中のお寺などに寄り道をしながらである。 |
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まず、都営新宿線で西大島までいく。A3出口を出たすぐ右に、羅漢寺の石柱が建っている。 この羅漢寺は目黒の五百羅漢寺とは関係のない寺で、八王子から移ってきたお寺を、羅漢寺と呼ぶようになったという。 |
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では、目黒の五百羅漢に向かって移動する。散歩の趣旨に照らして、「西大島」から「住吉」まで新大橋通りを約1km歩くこととする。 途中、新大橋通りの両側に、猿江恩師公園が横十間川に沿って開けている。その南庭園に、「猿江木材蔵跡」の碑がある。その両側面と背面には、「この付近は江戸時代初期に埋め立て元禄十二年深川元木場にあった貯木場を一時ここに移したことがあり そののち享保七年伊勢屋毛利藤左衛門たちが堀を埋め立て毛利新田をひらいたが享保十九年幕府はその大部分をとりあげて材木蔵をおき以来幕府の貯木場となし明治以降は皇室所有の貯木場となり大正十三年その一部を猿江公園とした 昭和三十三年十月一日 江東区第十一号」とある。 |
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「住吉」から都営地下鉄・新宿門線に乗って、「神保町」で三田線に乗り換え、相互乗り入れであるからそのまま東急目黒線で「不動前」まで行く。 駅から北西方向に道なりに150mほど進み、「かむろ坂通り」を渡って200mほど直進したところにある酒屋の角を左折する。その先で「不動尊門前通り」を100mほど行った左側に、成就院の本堂の側面が見える。この道を来ると、成就院の横の入口から寺に入ることになる。 |
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不老山成就院は天安2年(858)慈覚大師の開山で、蛸薬師と呼ばれている。そのいわれは、慈覚大師が唐で修行して帰るときに海路が荒れたので、持仏の薬師像を海に献じて難を逃れた。無事帰国後、肥前松浦に薬師像が蛸に乗って漂着し、これを蛸薬師如来として祀ったという。これが蛸薬師の由来である。 本堂には「不老山」の額が掛かっており、ご本尊の蓮華座は、3匹の蛸が支えている形に造られている。 また別名を「多幸薬師」といい、福を吸い寄せる蛸なのだそうである。 |
(蛸薬師) click |
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本堂の横に、二代将軍秀忠の側室・お静の方がわが子保科正之の栄達を祈願し、その大願成就のお礼に奉納された「お静地蔵」が建てられている。 詳細は、そばに設けられた立派な由来記を参照してもらいたい。 |
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お静地蔵尊由来記 click |
成就院から100〜200mで安養院である。 このお寺も横道から入ることになる。細い通路の奥にあるので見落としやすい。ただ、参道に並んでいる烏芻沙摩(うすさま)明王の赤い幟が目印になる。山門は別のところにある。 烏芻沙摩明王は不浄を清めるというので便所に祀られている仏様である。このことから、年寄りになっても、下のお世話にならないようにとの祈願に、ご利益があるという。 参道の奥に、神社の狛犬のような親子獅子の石像が立っている。 |
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本堂には釈迦涅槃像が祀られており、地元では「寝釈迦」で知られている。本堂の扉は閉ざされていて拝むことは出来なかった。 境内には、普通のお寺とは一味違った石像や石仏が並んでいて、奇妙な雰囲気である。 本堂の斜め左下に「安養院美術館」の入り口があり、北インド・チベット仏教美術品が展示(有料)してあると書いてあるが、人がいないのであきらめて退出する。 |
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目黒不動に至る手前の角に、白井権八と遊女小紫の悲話を伝える比翼塚がある。処刑された愛人権八と、「後追い心中」として彼の墓前で自害した小紫の、来世における幸せを祈って建てられた比翼塚である。 帰りの遅い小紫を探しにきた禿(かむろ)が、変わり果てた小紫を見て近くの池に入水したというのが、「かむろ坂」のいわれである。 |
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目黒不動尊にはまた日を改めてくることとして、今日は山門と本堂を拝むだけで、先を急ぐとしよう。 |
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蛸薬師に来た道を戻って城南病院の横の道を左に入ると、白い大きな羅漢会館が見える。外壁に三つ葉葵の大きな紋が付いているので、すぐに分かる。セレモニーホールである。 その先に、一人の羅漢さんがお出迎えである。 1月の下旬に廻ったので、節分会のビラが貼ってあった。 なかにはいるとすぐのところに「らかん茶屋」がある。昼食をとるには、あるいは一休みするには、格好の店である。 |
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階段を上がってまずは本堂にお参りする。 本尊釈迦如来とその弟子である羅漢さんが一堂に会し、お釈迦さまが説法されている光景が再現されている。お釈迦さまのすずやかな声が聞こえてきそうな雰囲気である。 本堂から戻って、羅漢堂に入る。羅漢さんたちが親しみをもって迎えてくれる。 落語の中では、言葉を忘れた女の子を羅漢さんと対面させると、自分の親に似た羅漢さんを見て、思わず声を出して駆け寄るのではないかと、そして忘れていた言葉を思い出すのではないか、という思惑で女の子を五百羅漢寺に連れてくる筋立てになっている。 |
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羅漢さんは一人ひとり、どこか違った表情とポーズを持っている。 中には、自分の胸を掻き開いて、心の中を見せている羅漢さんもいる。女の子にとっては、ちと刺激の強すぎる仏様である。 羅漢さんの前には、名前と信条を書いた紙が並べられている。 松雲禅師の彫った536体のうち305体がここに現存している。 |
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境内にはいろいろな碑がある。失意の人の再起の願いを叶えてくれる「再起地蔵」、「庚申塔」、調理界の元老・故原勇蔵氏愛用の包丁を納めた「包魂」の碑などが、「碑のこみち」に並んでいる。 |
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歌碑として、「高浜虚子の句碑」 盂蘭盆会遠きゆかりと伏し拝む、 「平山芦江の歌碑」 このあたり いつも二人であるいたところ 思い出しては まはりみち がある。 そのほかに、「興安友愛の碑」、「原爆殉難碑」などもある。 また、聖宝堂には、江戸時代の五百羅漢寺をしのばせる浮世絵、元禄当時の羅漢像の寄進帳などの資料が展示されている。 |
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本堂の脇にひっそりと「お鯉観音」の石碑がある。これは新橋の芸者であったお鯉さん(桂太郎の愛妾)が昭和13年(1938年)安藤妙照尼として寺に入り、荒廃していた寺を持ち直し維持してきたことによるものである。 明治時代の廃仏毀釈により、徳川家と関係のあった寺院は、特に苦難の時代をすごしたようである。 |
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あとがき 迷子の親を捜しに、何日も奔走している八っさん夫婦には、感銘を受ける噺である。言葉が出なくなった女の子は、躾(しつけ)が悪いと誤解されながらも必死になって親の職業を訴えていたのかもしれない。親の元に戻ることのできた女の子は、きっと末長く幸せに過ごしたことであろう。羅漢様をバックにした、心温まる人情噺である。 今回の行程は、寄り道、回り道の分を入れても4kmそこそこであった。歩いていた時間に比べ、地下鉄に乗っていた時間が、予想以上に長かった。 |