柳橋界隈、駒形堂、首尾の松

まえがき
 勘当されて船宿の二階に居候している若旦那の徳さんが、船頭を志願する。しばらくして四万六千日の日に、二人連れの男の客に出会うが、半人前の徳さんには、を思うように操れない。難儀をする徳さんと客とのギャグの利いたやり取りが噺の笑点である。やっとの思いで駒形の大桟橋に漕ぎ着けたときには、徳さんは疲れ果ててへたばってしまい、船から上がっていく客に向かって「お客さま。お上がりになったら船頭を一人雇ってよこしてください」というのがオチである。

 今回の散歩は、船宿のあった柳橋界隈を歩くこととする。例によって寄り道をしながら歩くが、行程はである。ただし、噺の進行上、徳さんが客を降ろした駒形の大桟橋辺りの写真(別の日に撮影)も掲載しておいた。
地図
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 スタート地点は、都営浅草線東日本橋駅のB3出口である。北に2筋行くと柳並木の不動院参道に出る。参道を50m程行って右折したところが、川崎大師平間寺の別院である薬研堀不動院である。

 江戸三大不動尊といえば、ここ薬研堀と、目黒、目白である。

 境内には、遍路大師像順天堂発祥の地碑講談発祥記念之碑納めの歳の市碑がある。
不動院参道
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薬研堀不動院
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遍路大師像
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 今来た道を戻って六差路を柳橋に通じる柳橋通りを進むと、左側に妙法寺がある。落語「堀の内」で紹介した堀の内のおそっさまと同じ名前のお寺である。
柳橋通り
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妙法寺
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 柳橋通りを進むと靖国通りに出る。靖国通りの向こう側に、広小路を古地図で示した両国広小路の碑が建っている。広小路とは火除け地のことである。ここは江戸でも屈指の盛り場で、茶見世、食べ物屋、見世物小屋などが並び、いつも賑わっていた。

 両国橋を渡って最初の信号を右折するとぼうず・しゃもの店がある。落語の中で船頭達が喧嘩をやらかした軍鶏鍋の店である(今は、蕎麦を只食いする話に置き換えられている)。
両国広小路の碑
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両国橋
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ぼうず
しゃも店
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 今来た道を戻り、両国橋の東詰から柳橋を眺める。神田川が隅田川に流れ込む合流点と、そこに架かる柳橋の全貌がよく見える。

 柳橋は、大正12年(1923)の関東大震災で落ちてしまったが、復興橋として昭和4年(1929)に今の橋が完成した。橋は、ドイツライン川の橋を参考にして架けられた永代橋のデザインを採り入れている。

 隅田川に注ぐ川の第1橋梁は、全てデザインが変化させてあり、船頭の帰港に便利なように工夫されている。
両国橋から見た
柳橋
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柳橋
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 柳橋を渡ると、神田川の河岸に数軒船宿が並んでいる。宿は1階からすぐに降り口を経て船に乗り込む寸法になっていて、徳さんが居候できるような二階建ての宿はない。いわんや、逢う瀬を楽しむ待合の役目を果たす船宿は、今はもう姿を消してしまった。

 もやいてある船はみな大型エンジン付きの屋形船で、手漕ぎの猪牙舟などは、見たくても見られない。


 昔は柳橋の北詰に、万八亀清梅川河半などの高級料亭が集まっていて、文人墨客書画会などが開かれていた。今は、亀清楼のビルが見えるのみである。
船宿1
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船宿2
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亀清楼
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 橋の南詰では、たまたまその日が十五夜のお月見の日であったのでススキや団子の飾付けをした1軒の船宿に出合うことができ、僅かではあるが、柳橋の風情を垣間見た気分であった。

 神田川の1本北の通りに、ビルに張り付くように祀られている篠塚稲荷がある。その横に、黒塀越しにが植えられた料亭が、1軒だけ見られた。
船宿3
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篠塚稲荷


料亭
 さて話を落語に戻すと、二人の客を乗せた徳さんは、もやいも解かずに船を出そうとしたり、柳橋をくぐって大川に出たら流れに流されるやら、船が石垣にくっついて離れないやらの悪戦苦闘の連続。やっと駒形の大桟橋の近くまでたどり着くが、うまく着岸できない。客は着物の裾を端折って、浅瀬を歩いて上陸する始末である。
 
 客「大丈夫か」,徳「もう漕げませんので、あがられたら船頭を一人雇って下さい」というのがオチである。

 大桟橋があった地点は、駒形橋西詰駒形堂の裏辺りであろう。駒形堂(こまがたどう、こまんどう)のご本尊馬頭観音菩薩である。小さくとも、江戸で名高いお堂であった。
駒形堂
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駒形橋
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駒形橋西詰河岸
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 話が柳橋から駒形橋までスキップしたが、オチがついたところで柳橋に戻って、浅草橋を南に渡ったところで、本日の散歩無事終了とする。

 なお、浅草橋北詰には浅草見附跡の碑が建っており、南詰には郡代屋敷跡の説明板が立っている。郡代屋敷の詳細については、説明板を拡大して参照願いたい。
浅草見附跡
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郡代屋敷跡
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郡代屋敷跡の
説明板 click
 この「船徳」という落語は「お初・徳兵衛浮名桟橋」という長い噺の前半の部分で、後半には次のような噺が続いている。

 徳さんが名実ともに一人前の船頭になったある日、芸者のお初を乗せて隅田川を下っていると、突然激しい雷雨に襲われる。蔵前の首尾の松に船をもやっていると近くに雷が落ちる。徳兵衛お初の背中に手を回し、肩をぐいっと引き寄せる。お初の真っ赤襦袢の裾から、真っ白がスーとあらわれ−−−、残念ながらここで本が破れていて先が分からない、というサゲになる。

 今の首尾の松七代目だそうで、蔵前橋西詰下流側に植えられている。首尾の松のいわれの詳細は、説明板を参照していただきたい。
首尾の松
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首尾の松の
説明板
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 「船徳」の噺とは関係がないが、首尾の松と向き合って、道の向こう側に、浅草御蔵跡の碑がある。川に面して舟入堀8本もつくられ、3万7千坪の敷地に約50棟の御蔵が建ち並んでいたという。ここに幕府の御用米が年々30〜40万石運び込まれ、旗本御家人衆のお切米(きりまい)、すなわち給料となっていた。

 浅草御蔵跡に蔵前国技館(昭和29〜昭和59年)が建っていた関係で、蔵前橋の橋柵には関取のレリーフがはめ込まれている。
浅草御蔵跡の碑
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蔵前橋の橋柵
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あとがき
 今回の柳橋界隈の散歩は、中央区と台東区にまたがる2.5km程度の道のりであったが、最終段階に来て、話が駒形に飛んだり、蔵前に飛んだりして、読み辛らかったのではないかと腐心している。

 駒形橋から吾妻橋方面を見ると、タイミングよく遊覧船がカメラのフアインダーに入ってきた。しかしその船の姿、形からは、「屋形船、月雪花に酒と三味線」といった雰囲気は感じられない。船の速さだけではなく、時の流れが速すぎる、と感じられる。

 しかし、道楽者の徳さんはお初姉さんの糸にのせて、どこかで小唄などを唄っているかもしれない。
 『今の両国は鉄の橋 にごった浮き世に黒い水 お江戸なつかしいとは 思いませんかよ』(小唄「夏の涼み」より)
遊覧船
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