大江戸写真散歩
浮世小路から 三光新道まで
地下鉄銀座線「三越前」で下車して、A6出口(現在は閉鎖中)に上がる。そこは三井本館の真向かいで、ビルの間を東に入る道路がある。 ここが往時の「浮世小路」で、名前の由来は「浮世ゴザ」を商う店が有ったとか、「浮世風呂」があったとかいわれている。 「浮世小路A」の突き当たり奥に見えるのが三井本館で、右手ビルの屋上に、福徳神社の屋根が見える。道路からも分かるように、壁面に大きく「福徳神社」と書かれており、また「福徳神社略記」が取り付けてある。 ビルの人に挨拶をして、屋上に上がらせてもらった。強い風雨に耐えられるよう、社殿に風防硝子の囲いが工夫してあった。 |
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会席料理の「百川」は、この福徳神社の近くにあったという。 写真Aは2006年5月撮影、Bは2007年9月撮影のものである。 「浮世小路B」は「同A」と同じ位置から写したものであるが、この1年間で、地域開発のために環境ががらりと変わってしまった。福徳神社のビルも再開発の対象になっており、近々取り壊しになるとのことであった。 福徳神社の社殿は、そのままのお姿で屋上から筋向いの福徳茶屋に遷移されていた。茶屋を入ってすぐ左手に鎮座ましまして、店内を見渡しておいでである。 |
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「再開発1B」は「浮世小路B」の写真の右側(北側)の風景で「百川」の面影などは何もない。「再開発2B」の写真は道路を挟んだ左側(南側)の広い空き地の状況で、右に三井、中央に三越、左に刃物の木屋のビルが見える。 斜め向かい角には「福徳茶屋」が出来ていた。開店は今年(2007年)1月であったとのこと。さすが「百川」とは名付けなかったようである。しかしこのビルも、2,3年後には取り潰して再開発されるとのことであった。 いろいろお話を伺った福徳茶屋の福原店長に、謝意を表します。 |
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「百川」に思いを残しながら、「 再開発1B」の通りを100mも行くと大伝馬町に通じる通りに出る。そこを右折する。この辺りは、昔は薬問屋の集まっていた地域で、今でも製薬会社のオフイスが多い。国道1号線の下をくぐって、250m程行くとホテルギンモンドの前に出る。 ホテルの前に「銀杏堂」という印章屋があったが、ホテルとの関係はないようだ。 ちなみに、「ギンモンド」の命名のいわれは、 「200年の歴史をもつ総合繊維商社チョーギン株式会社が、貢献者二代目社主・小林吟右衛門(1800〜1874)にちなみ、その吟(ギン)にフランス語の上流社会という意味のモンドを付して、ギンモンドと名付けました。」 という次第である。 |
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このホテルの脇に「旧日光街道本通り」の碑が建っている。 この街道筋は、日本橋から日光に通じる日光街道の一部で、将軍の日光参詣の御成道として栄えた道筋であった。 碑の左右両面に説明書きがあるので、参照してもらいたい。 |
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人形町通りに出て右折し、人形町方向に歩を進める。一つ目の信号のもう一本先の通りを右折して50m程先の左側に、椙森(すぎのもり)神社を見る。
江戸三森神社(柳森、烏森、椙森)のひとつで、富興行が行われた場所である。落語「宿屋の富」では、ここが噺の舞台になっている。境内には、全国的にも珍しい富塚がある。 ちなみに、江戸三富といえば、湯島天神、谷中感応寺、目黒不動である。 |
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人形町通りに戻って100m程進むと左手に、 三光稲荷神社のアーケイドが見える。この裏には、三光新道と書かれている。 百兵衛さんが使いにやらされた、長谷川町三光新道である。 |
アーケイド click |
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入口の右側に、「三光稲荷神社参道」という石碑が建っている。参道の長さは、せいぜい100mである。 参道を3分の2ほど行った左側に 三光稲荷神社の鳥居があり、その奥に本殿がある。 参道には2軒ほどの飲食店がある程度である。 |
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三光稲荷神社 click |
人形町通りに戻って左に200mほど行くと、そこはもう人形町の交差点である。 交差点手前に、「寄席 末広跡」の石盤がビルの前の歩道面に埋められており、その向かい側に、「史蹟 玄冶店」の石碑が建てられている。 |
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あとがき 今回は日本橋三越前から、人形町通りを通って人形町交差点まで、約2kmを歩いた。途中で、日光街道本通の碑や椙森神社に寄り道をしながらの、ゆったりとした散歩であった。 長谷川町三光新道から東へ少し行ったところが、官許の遊郭、元吉原があった地域である。明暦の大火を契機にして、元吉原は浅草田圃に移り新吉原となるが、その後もこの人形町辺りは、寄席や芝居小屋があって、大層繁盛した界隈であった。 |