大江戸写真散歩

浮世小路から  三光新道まで

まえがき
 日本橋の超一流料理屋「百川」に、田舎弁丸出しの百兵衛が奉公にやってくる。そこに魚河岸の連中が上がってくるが、言葉の取り違いでてんやわんやの大騒動。魚河岸の連中に「長谷川町三光新道の常磐津の歌女文字(かめもじ)師匠を呼んで来い」といわれたが、間違えて外科医の鴨池(かもじ)玄林先生を呼んでくる。「この抜け作が。お前は、みんな抜けてら」といわれて、「いやみんなではねえ。たった一文字だけだ」というのがこの噺の粗筋である。

 今回は、浮世小路の「百川」があったと思しきところから、三光新道に向けて、寄り道をしながら、歩を進めることとする。
地図
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 地下鉄銀座線「三越前」で下車して、A6出口(現在は閉鎖中)に上がる。そこは三井本館の真向かいで、ビルの間を東に入る道路がある。

 ここが往時の「浮世小路」で、名前の由来は「浮世ゴザ」を商う店が有ったとか、「浮世風呂」があったとかいわれている。

 「浮世小路A」の突き当たり奥に見えるのが三井本館で、右手ビルの屋上に、福徳神社の屋根が見える。道路からも分かるように、壁面に大きく「福徳神社」と書かれており、また「
福徳神社略記」が取り付けてある。

  ビルの人に挨拶をして、屋上に上がらせてもらった。強い風雨に耐えられるよう、社殿に風防硝子の囲いが工夫してあった。
浮世小路 A
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福徳神社 A
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 会席料理の「百川」は、この福徳神社の近くにあったという。
 
 写真Aは2006年5月撮影、Bは2007年9月撮影のものである。

 「浮世小路B」は「同A」と同じ位置から写したものであるが、この1年間で、地域開発のために環境ががらりと変わってしまった。福徳神社のビルも再開発の対象になっており、近々取り壊しになるとのことであった。

 福徳神社の社殿は、そのままのお姿で屋上から筋向いの福徳茶屋に遷移されていた。茶屋を入ってすぐ左手に鎮座ましまして、店内を見渡しておいでである。
浮世小路 B
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福徳神社 B
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 「再開発1B」は「浮世小路B」の写真の右側(北側)の風景で「百川」の面影などは何もない。「再開発2B」の写真は道路を挟んだ左側(南側)の広い空き地の状況で、右に三井、中央に三越、左に刃物の木屋のビルが見える。

 斜め向かい角には「福徳茶屋」が出来ていた。開店は今年(2007年)1月であったとのこと。さすが「百川」とは名付けなかったようである。しかしこのビルも、2,3年後には取り潰して再開発されるとのことであった。

 いろいろお話を伺った福徳茶屋の福原店長に、謝意を表します。
再開発1B
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再開発2B
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福徳茶屋 B
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 「百川」に思いを残しながら、「 再開発1B」の通りを100mも行くと大伝馬町に通じる通りに出る。そこを右折する。この辺りは、昔は薬問屋の集まっていた地域で、今でも製薬会社のオフイスが多い。国道1号線の下をくぐって、250m程行くとホテルギンモンドの前に出る。

 ホテルの前に「銀杏堂」という印章屋があったが、ホテルとの関係はないようだ。
 ちなみに、「ギンモンド」の命名のいわれは、
「200年の歴史をもつ総合繊維商社チョーギン株式会社が、貢献者二代目社主・小林吟右衛門(1800〜1874)にちなみ、その吟(ギン)にフランス語の上流社会という意味のモンドを付して、ギンモンドと名付けました。」
 という次第である。
ホテルギンモンド
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旧日光街道本通の碑
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 このホテルの脇に「旧日光街道本通り」の碑が建っている。

 この街道筋は、日本橋から日光に通じる日光街道の一部で、将軍の日光参詣の御成道として栄えた道筋であった。

 碑の左右両面説明書きがあるので、参照してもらいたい。
旧日光街道本通の碑
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旧日光街道本通の碑
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 人形町通りに出て右折し、人形町方向に歩を進める。一つ目の信号のもう一本先の通りを右折して50m程先の左側に、椙森(すぎのもり)神社を見る。

 江戸三森神社(柳森、烏森、椙森)のひとつで、富興行が行われた場所である。落語「宿屋の富」では、ここが噺の舞台になっている。境内には、全国的にも珍しい富塚がある。


 ちなみに、江戸三富といえば、湯島天神、谷中感応寺、目黒不動である。
椙森神社
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椙森神社本殿
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冨塚
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 人形町通りに戻って100m程進むと左手に、 三光稲荷神社のアーケイドが見える。この裏には、三光新道と書かれている。

 百兵衛さんが使いにやらされた、長谷川町三光新道である。

三光稲荷神社の
アーケイド
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三光新道
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 入口の右側に、「三光稲荷神社参道」という石碑が建っている。参道の長さは、せいぜい100mである。

 参道を3分の2ほど行った左側に 三光稲荷神社の鳥居があり、その奥に本殿がある。

 参道には2軒ほどの飲食店がある程度である。
三光稲荷神社参道
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三光稲荷神社
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 人形町通りに戻って左に200mほど行くと、そこはもう人形町の交差点である。

 交差点手前に、「寄席 末広跡」の石盤がビルの前の歩道面に埋められており、その向かい側に、「史蹟 玄冶店」の石碑が建てられている。
寄席 末広跡
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史蹟 玄冶店
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あとがき
 今回は日本橋三越前から、人形町通りを通って人形町交差点まで、約2kmを歩いた。途中で、日光街道本通の碑や椙森神社に寄り道をしながらの、ゆったりとした散歩であった。

 長谷川町三光新道から東へ少し行ったところが、官許の遊郭、元吉原があった地域である。明暦の大火を契機にして、元吉原は浅草田圃に移り新吉原となるが、その後もこの人形町辺りは、寄席や芝居小屋があって、大層繁盛した界隈であった。

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