大江戸写真散歩

その2 銀座から木蓮寺へ

まえがき
上野は下谷の山崎町を出た葬列は、下記のルートを通って木蓮寺に到着するのであるが、今回はその後半をたどって歩くこととする。
『下谷の山崎町を出まして、あれから上野の山下ィ出て、三枚橋から、上野広小路へ出まして、おなり街道、五軒町、その当時堀様鳥居様というお屋敷の前、筋交御門から大通りに出まして、神田須田町、新石町、鍛治町、今川橋、本白金町、石町、室町、日本橋を渡りまして、通り4丁目から仲橋に出て、南伝馬町、京橋、新橋を右に切れ、土橋、久保町、新し(あたらし)橋を通って、愛宕下、天徳寺を抜けて、神谷町、飯倉6丁目の坂を上がって、飯倉片町、その頃おかめ団子といった団子屋の前を真っ直ぐに,麻布永坂を下りまして、十番に出まして、大黒坂を上がって一本松から麻布絶江釜無村の木蓮寺に着いたときには、皆くたびれた。 私もくたびれたぁ。』(ここで、ドーット笑いを取る)

前回もお断りしたように、古地図をもとに正確な道順を調べたわけではなく、おおよその見当で歩くことを、前以ってご承知おき願いたい。

なお、木蓮寺に到着した後のことは、あとがきの後で述べることとする。
地図
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京橋、新橋を右に切れ、

慶長17年(1612)徳川幕府は銀貨幣鋳造銀座役所を、駿府からこの地に移設したことは、前回述べたたところである。銀座というのは役所の名前であって。、町名ではない

この碑は、銀座2丁目のティファニビル正面の、歩道上にある。
銀座役所跡の碑
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銀座ティファニ
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京橋、新橋を右に切れ、』続き

落語では京橋を出ると一気に新橋である。銀座についてなにも触れていない。というのは、銀座という町名は明治2年以降のことで、それも4丁目までであった。「銀座の終わりは、尾張町の始まり」というのは、この意味である。銀座5,6丁目を 尾張町というのは、尾張藩が埋め立て造成したことに由来する。出雲町(銀座8丁目)も、また然り。

銀座4丁目の鳩居堂前は日本一地価の高いところで、1坪の価格が約8,237万円という。はがき1枚当たりに換算すると37万円だそうで、小判4枚くらいが貼り付けてある勘定になる。ここを土足のまま踏ん付けて通るとは、豪気なもんである。とはいうものの、磨(す)り減っていくのではないかと、足跡を振り返えりながら通ってきた。

鳩居堂前
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新橋を右に切れ、

銀座8丁目で右折して、一筋目を金春通りに少し入ると、「金春通り煉瓦遺構の碑」が建っている。この碑は、金春屋敷跡から発掘された当時(明治5〜10年頃)の煉瓦を使って建てられている。
ここは、能の金春屋敷があったところである。

金春芸者といえば、能との関わりでことのほか芸道に深く精進したという。

もと来た道に戻ると、「金春通り入口」の標識と「銀座の柳二世」の標識が並んで立っている。
煉瓦遺構の碑
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銀座の柳二世
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土橋、

外堀通りの上を高速道路が通っている。ここが土橋である。

外堀通りを虎ノ門に向けて進む。若い頃によくお世話になった烏森の飲み屋街に敬意を表して、烏森神社にお参りしていく。


土橋
烏森神社
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烏森神社本殿
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久保町、新し(あたらし)橋を通って、愛宕下、

外堀通りを左折して(実際はもう一本東の通りかもしれないが)愛宕通りを南下すると、第10森ビルの手前の角に木造の古い建物の蕎麦屋が見えてくる。

のれんには「大坂屋 砂場」とある。これは、大坂の菓子屋「和泉屋」が大阪城築城の折、資材の砂置き場の脇に蕎麦屋を出したのが蕎麦屋の始まりで、通称「砂場」と呼ばれていた。後に家康に従って江戸に出て麹町に店を構えた。明治に入って、これが当家「虎ノ門の砂場」と、「室町の砂場」に別れたという。

「愛宕」の交差点を右折して、愛宕山を巻くようにして天徳寺に至る、する。
蕎麦屋
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愛宕下、』続き
天徳寺に至る手前僅か300メートルほどの間に、お寺が5軒ほど並んでいる。昔はこの当たり一帯は天徳寺の境内であったという。

この中に栄閑院というお寺がある。ある日、ここに猿回しに変装した盗賊が逃げ込んだ。住職に諭された賊は改心し、諸国行脚の旅に出た。残された猿は境内の人気者になり、以来、栄閑院は猿寺と呼ばれるようになった。猿塚や猿の彫刻などがある。

また、墓地には解体新書で有名な杉田玄白のお墓がある。
猿寺栄閑院
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猿塚
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天徳寺を抜けて、神谷町、飯倉6丁目の坂を上がって、飯倉片町

天徳寺から桜田通りに出る。地下鉄神谷町駅を過ぎ、麻布台1丁目で右折して霊友会釈迦殿の前から雁木坂を上って狸穴に出る。この先が飯倉片町である。

雁木坂とは、標柱の説明によれば、ここの敷石が「入」字状に組まれていた(雁の行列のようにギザギザ状に組む)ので雁木坂と呼ばれたという。


天徳寺
霊友会釈迦殿
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雁木坂
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その頃おかめ団子といった団子屋の前を真っ直ぐに,麻布永坂を下りまして、十番に出まして、

飯倉片町の先の細い道を左折して永坂を下る。この角におかめ団子の店があったという。

永坂は文字通り長い坂である。坂を下りたところが麻布十番で、右手に永坂更科そば店がある。
永坂
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蕎麦屋
大黒坂を上がって

まずは大黒坂を登る。この坂がなかなかきつい。右に七面坂、暗闇坂、狸坂を見ながら一本松坂に出る。

この辺りは、坂、坂、坂の町である。
大黒坂
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暗闇坂
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狸坂
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一本松から

一本松坂の坂上に“一本松”と呼ばれる松の木がある。源経基(みなもとのつねとも)が平将門討伐の折、この松の木に装束を掛けたとの伝説が残っている。現在の松は、五代目だという。右の写真は、暗闇坂から松を見たところである。

一本松坂を登った所が仙台坂上である。

真っ直ぐ進むと奴坂から薬園坂に出る。
暗闇坂から見た
一本松
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仙台坂上
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奴坂
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麻布絶江釜無村の』

昔、薬園坂の西側に幕府の薬用植物園があった。小石川植物園の前身である。このため役人が多かったので、役人坂が薬園坂になったともいう。

その先が目指す絶江(絶口)坂である。承応5年(1654)、この坂の東側へ赤坂から曹渓寺が移転してきた。そこの初代和尚絶江が名僧で、付近の地名となり、坂名ともなったという。
薬園坂
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絶江坂
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木蓮寺に着いた。

絶江坂の横手を裏側に下っていくと曹渓寺の入口に出る。中に入ると右手に絶江児童公園がある。落語の木蓮寺がこの曹渓寺かどうかは定かではないが、いろいろな記述や描写よりして、間違いなくこの寺を想定して物語が組立てられているとされている。

お庫裏さんにお会いして、お話を伺うことができた。以前は、落語家さんが集まって、いろいろな装束をつけて、境内で「黄金餅」の落語劇などをやられたこともあったそうである。



曹渓寺入口


曹渓寺本堂
あとがき

長屋の連中は、西念の亡骸(なきがら)を入れた樽を担いで、ワッショイ、ワッショイと3,4時間で走り抜けて来たようであるが、私は一人で道に迷いながら、そして写真を撮りながら、説明板を読みながらの気ままな散歩であったので、4回に分けて走破した。ここには書かなかった寺社や旧所名跡を尋ねて脇道に入っていったので、3倍も4倍も時間をかけたことになる。

地図の上で測ると、無駄なく歩いて12kmから14kmくらいによめるが、それにしても昔の人は足が丈夫で早かった。旧い町名や橋の名前などは詮索せず、不正確な知識を頼りに、ともかく下谷山崎町から延々絶江釜無村の木蓮寺までたどり着いた。 私も、ああ、くたびれた!

補足:
さて、木蓮寺に着いた金兵衛はその後どうしたか。まず葬儀の値段を値切り、焼き場の切手と、テケレッノパァといった中途半端なお経を上げて貰い、仲間には新橋に夜通しやっている居酒屋があるから、そこで飲って、自分で金を払って帰ってくれと、追い返してしまう。 
 その後は、西念の亡骸が入った樽を一人で担いで、古川橋から高輪台五反田から桐ヶ谷の焼き場まで約4,5kmを持っていき、朝一番で焼いて、腹は生焼けにしてくれと脅かしながら頼み、それから新橋まで約11kmを戻って朝まで時間を潰してから、また桐ヶ谷まで戻り、遺言だから俺一人で骨揚げするからと言いって、持ってきたアジ切り包丁で切り開き、金だけを奪い取って、骨はそのままにしておいて、焼き場の金も払わずに出て行ってしまう。
全く凄惨な話であるが、これが落語にかかると、笑いの中に埋没してしまうから不思議である。
 その金で、目黒に餅屋を開いてたいそう繁盛したという。江戸の名物「黄金餅」の由来、という一席でございます。

長々とお付き合い、有難うございました。

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