大江戸写真散歩
その1 上野から京橋へ
『下谷の山崎町を出まして』 まず、下谷の山崎町は上野駅の東側辺りというので、東上野4丁目を起点として歩き出す。 この辺りには、長屋風の旧い建物や鱗模様の銅葺外装の家が今でも残っている。 駅の方に来ると、近代的なビルや高速道路のあいだに、昔の風情を残す漢方薬局の建物が目につく。「疲れ目に、八ッ目鰻」と金文字で書かれた看板がひときは目立つ。今どきの若い人には、何のことだか分からないのではないだろうか。 |
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漢方薬局 |
『あれから上野の山下ィ出て、三枚橋から、上野広小路へ出まして、おなり街道、五軒町、その当時堀様鳥居様というお屋敷の前、』 山手線の東側を南下して春日通りに出る手前辺りが三枚橋と見当をつける。三枚橋が正しいか、三橋(みはし)が正しいかの議論は棚に上げておいて、歩を進める。 春日通りを上野広小路に出て、中央通(御成街道)を南下する。整然とした感じのする通りで、右手に「銘酒の殿堂」やら「どら焼き」の老舗がある。 堀様鳥居様のお屋敷というのは、外神田(6)から上野(3)にかけての辺りという。 |
三枚橋辺り |
銘酒の殿堂 click |
『筋交御門から大通りに出まして、』
秋葉原駅の西側で総武線のガードをくぐり、万世橋に出る。橋の上から、旧万世橋駅のレンガ造りの遺構を見る。昔(明治45年)はここが中央線の始発駅であった。今の新橋駅に似ている。 江戸時代は150mくらい上流に筋違御門の橋があったが、明治5年に取り壊されて、その残材を使って日本で一番旧い石造の橋がここに架けられ万世橋となった、と説明板に出ている。そのとき、橋は「よろずよばし」と命名された。 |
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『神田須田町、新石町、』 須田町の交差点を渡ったところの左側に、偶然にも「琴三味線(今年しゃ見せん)」の看板を見つけ、落語「松山鏡」の枕を思い出した(あとがきの補足説明を参照)。 神田多町で、江戸で始めて「きしめん」を売り出したという尾張屋本店を左手に覗き見ることができる。今はきしめんを出していない。 |
今年しゃ見せん |
尾張屋本店 |
『鍛治町、』 神田駅の西口辺りは、江戸時代は大工居住地の一つとして指定された地域で、落語の「三方一両損」「大工調べ」「粗忽の使者」の大工たちが住んでいたところという。 神田界隈は、いろいろな職種の職人が集団的に居を構えていた町である。町名にも、鍛冶町、紺屋町、北乗物町など、なんとなく江戸の昔を思い出させる雰囲気が残っている町である。 |
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『今川橋、』 神田駅のガードをくぐって5分も行くと今川橋跡である。 今川橋は、天和年間(1681〜83)神田堀に架設され、地元の名主今川氏にちなんで名前がつけられた。日本橋から中山道に出るとき、最初に渡る重要な橋であった。 |
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龍閑川、神田八丁堀 とも呼れた 神田堀の跡 |
『本白金町、石町、室町、』 江戸通りと中央通りの交差点に出ると、右手に三井の新館(日本橋三井タワー)が目に入る。続いて三井本店(三井住友銀行)と日本橋三越本店が並び、その日本橋側に三越新館が聳えている。 三井高利(たかとし)が、この地に三井越後屋を開いてから既に320年が経過している。この日本橋三越本店の正面玄関には、青銅製の一対のライオン像がある。これは、ロンドン、トラファルガー広場のライオン像を模して、大正3年(1914)に設置されたという。その正面玄関の上方に目を移すと、3階のバルコニーに、商業の神様マーキュリーの像が、金色燦然と輝いているが、あまり知る人はいない。このマーキュリー像は、イタリヤ国立フローレンス博物館所蔵のジョバニーダ・ポロニヤ作(1598)を模したもので、大正12年(1923)に設置されたという。 三越新館の1階の一部に、呉服の「一越」がある。「三越」と「一越」とは無関係だそうである。また、「二越」という店は無いそうである。 話は少々脱線したが、以上の三越関連の話しは、本店のインホメーションのお嬢さんに聞いてきた話しである。 |
三越を望む click |
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『日本橋を渡りまして、』 日本橋は、徳川幕府が開かれた慶長8年(1603)に、5街道の起点として架設され、大いに賑わいを見せた。高札場や魚河岸が開かれた。現在の橋は、明治44年(1911)のもので、橋銘は15代将軍徳川慶喜の筆になる。橋の上に高架の高速道路が走っており、これに「日本橋」と書かれた大きな銘板がつけてあるので、おのぼりさんは、これが日本橋かといぶかるそうである。 橋の右岸北詰めには、日本国道路元標(複製)があり、左岸南詰めには、日本橋魚市場発祥の地の碑がある。この碑の右下と左後に「乙女の広場」の碑と「乙女の像」がある。像の下に説明の銅版が嵌め込まれているが、読めない状態である。 |
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『通り4丁目から仲橋に出て、南伝馬町、京橋、』 |
コレド日本橋 |
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『京橋』の続き 金色の字でひときは目立つのが「京橋大根河岸青物市場蹟」の碑である。碑によれば、寛文の初め、数寄屋橋辺りにあった青物市場が火災により京橋北詰めに移転、大根の入荷が多かったので「大根河岸」と呼ばれていた。関東大震災のため、昭和10年(1935)2月に築地に移った。 また、「歌舞伎発祥の地」の碑がある。これによれば、「寛永元年(1624)猿若中村勘三郎此地に猿若中村座の櫓をあぐ」とある。京橋は、東京オリンピックを前にして、昭和34年(1959)に京橋川が埋め立てられたことにより撤去された。明治8年(1865)当時の石造橋に使われていた親柱が残されている。 |
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『京橋、新橋を右に切れ、』 京橋を過ぎればそこからは銀座の始まりである 慶長17年(1612)徳川幕府は銀貨幣鋳造の銀座役所をここに設置した。この碑は、昭和30年(1955)に「銀座通連合会」によって、今の銀座ティファニビル前の歩道に建てられた。 先に、日本橋の「呉服の一越」の話をしたが、銀座には「呉服の越後屋」もある。 |
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あとがき さて落語では、西念のなきがらを担いだ葬列が「お祭りじゃないから、ワッショイ、ワッショイはいけないよ」などといいながら、京橋から新橋方面へと一気に走り去っていくのである。 なぜ長屋の連中は西念が死んだその日のうちに、夜道をついて葬列を走らせるのか。それは、明日にかかると仕事を休まねばならないことになリ、お飯(まんま)の食い上げになるからである。 さてこの続きの「銀座」以降は、次回「その2」に引き継ぐこととする。 |
補足説明:落語「松山鏡」の枕に出てくる江戸小噺のひとつである。上方では「鏡屋女房」となっている。
昔の看板は濁点なしの平仮名で書かれていた。 |