大江戸写真散歩

 

広尾駅から    広尾駅へ一周

まえがき
 今回は、比較的江戸の色合いが残っていると思われる広尾から南麻布4丁目一帯を散歩することとする。

 見所としては、「お富与三郎」に関連して知る人ぞ知る、江戸初期の医家である岡本玄冶のお墓、福岡藩初代藩主黒田長政および関連諸大名のお墓群、香淳皇后と美智子皇后と二代の皇后に関連のある旧久邇宮邸の建造物、光林寺のオランダ人ヘンリー・ヒュースケンの墓などである。

 同じ道を行ったり来たりして、コース設定が好ましいものではないが、ご容赦願うこととする。総行程は、おおよそ5kmである。

 出発点は、地下鉄日比谷線広尾駅2番出口とする。
地図

地図及び画像は
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 広尾駅の2番出口から、200mほど商店街を行った突当たりが祥雲寺である。

 突き当りの右側の坂道を上る。上宮寺聖心女子大南門真如苑の前を400mほど進んだところの三叉路を右に回り、チェコ大使館の前を通って400mほど行ったところに聖心女子大学の入口がある。これが大学の正門とは気がつきにくい。その奥には、お寺の門のように見える建物がある。これから先は立入禁止で、入ることは出来ない。
広尾駅駅2番出口
上宮寺
チェコ大使館

 江戸時代、本学の敷地と北に隣接する日本赤十字医療センター等をあわせた一帯は、下総佐倉藩堀田家の下屋敷であったという。

 敷地内には、旧久邇宮(くにのみや)邸の御常御殿(登録有形文化財)が保存されている。香淳皇后(昭和天皇の皇后)は、大正13年(1924)ご成婚の折、隣接する本館車寄せより宮中に向かわれたという。

 先にお寺の門のように見えた建物は久邇宮時代の宮邸の門であった。

 なお、現美智子皇后は当女子大の卒業生であり、二代にわたって皇后陛下に縁のある女子大学である。

聖心女子大学
聖心女子大学
日本赤十字医療センター
 聖心女子大から今来た道を戻って祥雲寺に至る。山門をくぐると、両側に坊院が並んでいる。

 東江寺には木造聖観音坐像(区指定有形文化財)が、霊泉院には木造十一面観音立像(同)や阿弥陀種子(しゅじ)が刻まれた、明徳5年(1394)造立の板碑(いたび)があるという。種子とは、仏尊を表す梵字である。
祥雲寺
東江寺
霊泉院
 香林院の茶室は、仰木魯堂(大正・昭和初期に活躍した数奇屋建築家)が大正8年(1919)に自らの茶室として設計施工したものという。

 祥雲寺の墓地に入ってすぐ右手に建っている大きな石碑は、明治32年(1899)から数年間ペストが流行したときに殺されたネズミの霊を供養するため明治35年に建てられた珍しい動物慰霊碑、鼠塚である。
香林院
祥雲寺本堂
鼠塚
 墓地の中ほど左手に、宝生流家元代々の墓があり、その向かい側に、まんじゅう型笠付きの常磐津節の開祖常磐津文字太夫の墓がある。

 墓地中央奥の右手に、大名の墓石群が見える。写真の右手前に、「秋月黒田家」の標石が見える。
宝生流家元代々の墓
常磐津文字太夫の墓
大名の墓石群
 大名の墓石群の奥、一段と高いところに黒田長政(福岡藩52万余石初代藩主)の墓がある。長政が元和9年(1623)に没すると、当祥雲寺が開山建立された。この長政の墓は雄大なもので、戒名には金箔が施されている。お堂小屋に入れて保護されている。

 まわりには、福岡藩の分家秋月藩主黒田家、久留米藩主有馬家など諸大名の墓石群がある。
黒田長政の墓
黒田長政の墓
黒田長政の墓
 黒田長政のお墓の奥上段右手(東側)に、一角を画した岡本玄冶一族の墓域がある。岡本玄冶(1587〜1645)は江戸初期の医家で、二代将軍秀忠、三代将軍家光の侍医ととして、たびたびその病用に侍して効を収めた。後年、日本橋人形町屋敷を拝領した。歌舞伎狂言「余話情浮名横櫛」の舞台「源氏店(げんじだな)で有名になった玄冶店(げんやだな)の名の起こりをなした。

 祥雲寺を出て、出発地点の広尾駅前の交差点に戻る。
岡本玄冶の墓
岡本玄冶の墓
 交差点を渡ってまっすぐ100mほど行くと、突当たり左手に有栖川宮記念公園の入口が見える。

 その入口の右手脇に、南部坂の標柱が立っている。この場所には、赤坂から移ってきた盛岡城主南部家の屋敷があったために名付けられた坂である。なお、忠臣蔵にでてくる南部坂は、赤坂の南部坂のことである。(名所旧跡編「赤坂コース」参照)

 今来た道を戻って、突き当りで左折した道をまっすぐ南に100mほど進むと、広尾神社がある。
 
有栖川宮記念公園
有栖川宮記念公園
南部坂
 広尾神社の拝殿の天井を覘き見ると、水墨の線と濃淡のぼかしをたくみに生かした一頭のが描かれている。この絵は、西洋の油絵の技法をいち早く取り入れた画家として歴史的な評価をうける高橋由一(1828〜94)の作である。

 神社の南隣にある三基の庚申塔は、方形角柱の笠塔婆型で、塔身が太く、堂々としている。中央の塔には元禄3年(1690)の年号がある。
広尾神社
広尾神社
広尾の庚申塔
広尾の庚申塔
 さらに南に400mほど来ると、フランス大使館の建物が見える。

 この先100m弱で明治通りに出る。この角に、フランス大使館へ行く入口であるとの標識が立っている。

 目前の高架は首都高速道路2号目黒線天現寺出入口である。高速道路の下は、古川が流れている。
フランス大使館
フランス大使館標識
首都高速道路
 明治通りを左折して、古川の下流方向に200mほど来ると、ヒュースケンの墓がある光林寺に来る。

 当時日本人はオランダ語を解し、ほとんど英語を解していなかった。日米修好通商条約を締結したタウンゼント・ハリスはオランダ語と英語が話せる通訳として、オランダ人ヘンリー・ヒュースケンを雇っていた。彼は、ここから古川下流の中之橋で、万延元年(1861)攘夷派の薩摩藩士らにより暗殺されることになる。享年28歳であった。
 幕府は、ヒュースケンの母に1万ドルの弔慰金を支払って事件を決着させた。
光林寺
ヒューストンの墓
ヒューストンの墓
 光林寺の先の坂が、新坂である。この新坂は、新しく開かれた坂の意味であるが、開かれたのは、明治20年代(1887〜)だと推定されている。

 明治通りをはさんだ向かい側の古川に架かる橋が、五之橋である。その先に五の橋商店街がつながっている。

 古川は、改修工事の最中である。
新坂
五之橋
改修中の古川
 五之橋から古川を遡って天現寺橋に向かう。この間約500mである。

 丁度、天元寺橋が渋谷区と港区の区界にあたり、ここより上流を渋谷川と、下流を古川と命名している。渋谷川は、昭和の始め頃までは灌漑の水源として、古川は小舟の舟運に利用されていた。その後、都市化の進展に伴い、水質の悪化や水量の減少が見られ、平成7年より清流復活事業を実施し、新宿区にある落合水再生センターで高度処理した再生水を渋谷川に流して、流域の水辺環境の改善をめざしている。天現寺橋の右岸下流側に「清流の復活」の碑がある。
天現寺橋
清流の復活碑
改修の済んだ渋谷川
 「清流の復活」の碑の横手に、慶應義塾の初等教育から大学までの一貫教育のスタートとなる「慶應義塾幼稚舎」の建物が見える。

 明治通りと外苑西通りとの交差点が天現橋交差点で、四方に渡って井桁状の大きな歩道橋が架かっている。歩道橋の上から、新築間もない天現寺のお堂が見える。
慶應義塾幼稚舎
天現寺歩道橋
 天現寺橋交差点の北東角に、天現寺がある。

 享保2年(1717年)の創建と伝えられ,徳川家康が守護神としていた平安時代の作と伝えられる毘沙門天像が祀られている。

 なお、当山開創300年記念行事のため、本堂並びに伽藍が建て変えられ、本年(2011)10月に落成法要が営まれるとのことである。
天現寺
天現寺
天現寺
 天現寺橋から外苑西通りを北に向かって約350m行くと、地下鉄広尾駅に着く。

 この辺りの歩道には、区の木であるケヤキ(欅)や、区の花であるハナショウブを描いた陶板のプレートが、はめ込まれている。

 今回の散歩は、広尾駅を出て広尾駅に戻る周回コースであった。
歩道のプレート
歩道のプレート
あとがき
 地下鉄日比谷線の駅名は「広尾」であるが、駅を出たところの交差点は「広尾橋交差点」であり、都バスのバス停も「広尾橋」である。現在、川や橋があるわけではない。このいわれは、往時、今の外苑西通りに沿って笄(かんざし)川という川が流れており、この川は天現寺橋のところで古川に合流していた。

 祥雲寺前からまっすぐ旧盛岡藩主南部美濃守下屋敷(現有栖川宮記念公園)に延びていた参道が、この笄川を渡るところに架けられていた橋が「広尾橋」であった。そしてその名残りが、今日に伝わっているのである。

 江戸末期の古地図を見ると、広尾橋から南部美濃守下屋敷までの間に町家が並んでおり、この一帯を広尾町と記してある。

 現在は、天現寺から地下鉄広尾駅にかけて、渋谷区と港区の区境が引かれていて、「広尾」は区境西側の渋谷区の町である。そして区境の東側は港区の「南麻布」である。したがって、昔の広尾町今の「南麻布」にあったことになる。

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