大江戸写真散歩

世田谷から   豪徳寺へ

まえがき
 今回の散歩は、前回の「松蔭神社コース」の続きとして「豪徳寺コース」を設定した。東急世田谷線に沿っての、約4kmの短い行程である。

 東急世田谷線の世田谷駅から、先回訪れた円光院、大吉寺を左手に見ながら世田谷通りを越えて南に250mほど来ると、中央病院の信号に出る。ここを右折すると、約400mのボロ市通りが始まる。

 世田谷のボロ市の歴史は、天承6年(1578)小田原城主北条氏政が、小田原と江戸との間にあった世田谷宿における伝馬の確保のために世田谷宿を繁盛させるために発した「楽市掟書」に起源を持つという。ボロ市の名称は、明治時代に草鞋の補強や野良着を繕うためのボロ布や、古着などが商品の大半を占めていたことによるという。

 現在のボロ市は、毎年12月15,16日と1月15,16日に開催されているが、これは新暦旧暦2回、歳の市を行っているからである。昔は歳の市として12月に開かれていたが、明治になって新暦が取り入れられてからは、1月にも開催されるようになったのである。
 現在では、古着などのボロのみならず骨董品、生活用品、植木、玩具および食べ物などの露店が立ち並び、幅広くいろいろな商品が売られている。また、観光バスで来る観光客もおり、東急世田谷線も臨時電車を走らせて、客の輸送に当たっている。
地図

写真および画像は
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 ボロ市通りに入って約300mほど西に進むと左手に世田谷代官屋敷跡がある。

 豊臣秀吉小田原攻めにより、世田谷城主吉良家没落し、その重臣であった大場氏帰農していたが、寛永10年(1633)彦根藩伊井家世田谷領拝領した際に、大場氏代官に起用され、以後世襲して、明治4年(1871)まで領内統治してきた。

 屋敷は江戸中期の建築で、茅葺寄棟造り母屋、表門、土蔵、白州跡などが残されている。
ボロ市通り
世田谷代官屋敷跡
(表門)
代官屋敷跡の碑
 屋敷内を一巡して母屋の裏手に行くと、世田谷区立郷土資料館がある。代官屋敷跡も資料館も、入場無料である。

 資料館前庭には、富士登拝33回敢行記念碑や、大山道の道標、庚申塔、供養塔、三界万霊塔、地蔵菩薩像、摺臼、搗臼、麦打コロなどが陳列されている。

 資料館を出て世田谷線上町駅横の城山通りを北に約300m行くと、世田谷城址にいたる。
代官屋敷跡の
母屋と白州跡
大山道道標
各種標石

 世田谷城は、南北朝時代1300年代)に吉良氏により築城されたが、天正18年(1590)秀吉小田原攻めによる小田原北条氏滅亡とともに、縁戚関係にあった吉良氏の世田谷城廃城となった。今は世田谷城祉公園となり、土塁および一段高くそびえる(くるわ)が現在でも残されている。

 公園から城山通りを北に300mほど行くと豪徳寺にいたる。

世田谷城址
豪徳寺参道
豪徳寺山門
 山門に入る前の左手に「都史跡 伊井直弼墓」の碑があり、山門を入ると左手に新しい三重塔が見える。

 伊井家は、遠江国伊井谷(いいのや)に勢力を持った士族で、伊井直政関が原の合戦で武功を立て、初代彦根藩主となって藩の礎を築いた。二代直孝大阪夏の陣で功績を挙げ、譜代大名の筆頭格となり、以後、幕政に関与してきた家柄である。

 豪徳寺仏殿は、延宝5年(1677)完成し、当時流行の黄檗様式の影響が随所に見られ、建築史学上価値の高いものである。
伊井直弼墓の標柱
豪徳寺仏殿
五重塔
 三重塔の四面には十二支の動物が置かれているが、北側の「子」の場所には、ネズミ一緒招猫が置かれている。

 この猫と向き合って、招福殿山門がある。

 伊井家と猫のかかわりについては、次のような伝説がある。
招猫と両脇のネズミ
招福殿山門

 二代藩主直孝が、豪徳寺の前身である弘徳院の前を馬で通りかかったとき、一匹の猫が寺内からしきりと直孝を招いたので寺に入ると、その直後、今まで居たところにが落ちた。難を免れた直孝は弘徳院を菩提寺とした。直孝の没後に、その法号にちなみ豪徳寺寺号改めた

 この由来をもって、境内には招福観音を祀る招福殿観音堂があり、お堂の左手奥には願いが成就したお礼として奉納された、白色右手をあげた「招福猫児(まねきねこ)」が祀られている。こんなところから、ここが招き猫発祥の地だなどといわれている。

招福殿観音堂
白色の招き猫
 もともと弘徳院は、世田谷城主吉良政忠が、文明12年(1480)亡くなった伯母菩提として建立した寺である。
 その後、寛永10年(1633)頃、世田谷彦根藩伊井家所領となったのを機に、領内の弘徳院が伊井家の菩提寺に取り立てられ、直孝の没後、その法号「久昌院殿豪徳天英大居士」にちなみ豪徳寺寺号改め、以後、江戸で亡くなった藩主家族が葬られた。藩主、正室、世子、側室の墓石は、唐破風笠付位牌型である。

 ここの梵鐘は、延宝7年(1679)完成後、今日まで移動なく当寺に伝っている。
伊井家墓地
井伊直弼墓
鐘楼
 豪徳寺を出て世田谷線を宮の坂駅の北側で渡り、駅前の信号を右折すると100mほどで世田谷八幡神社にいたる。

 寛治51091奥州鎮守府将軍であった源義家により創建され、天文151546)年からは吉良家祈願所となった神社で、朱の大鳥居をくぐると右手に厳島神社がある。その奥に土俵がある。「江戸三大相撲」のひとつとして奉納相撲が有名であったところである。

世田谷八幡神社
厳島神社
世田谷八幡神社
 世田谷線に沿って250mほど北進し、2本目の踏み切りの地点で左折すると、100mほどで乗泉寺世田谷別院にいたる。

 入口正面に、世田谷の銘木百選に選ばれているクスノキの巨木がある。また、その横には、「南無妙法蓮華経」とヒゲ題目が彫られた大きな石柱が建っている。
乗泉寺
世田谷別院
クスノキの巨木
ヒゲ題目
 乗泉寺世田谷別院の裏手に、常徳院がある。お寺のただずまいも静寂だが、近所の住宅地も静かな地域である。

 常徳寺を出て、豪徳寺駅前商店街を200mほど来ると、小田急線豪徳寺駅に出る。

 今回の散歩は、ここを終着点とする。
常徳院
常徳院
鐘楼

あとがき
 前回と今回の散歩は、ほぼ東急世田谷線線路に沿って歩いたので、ここに世田谷線の概略を記す。


 明治40(1907)年多摩川から東京市中に砂利を運ぶため渋谷〜二子玉川間に民営の玉川電鉄(ジャリ電、玉電)が開通した。

 大正14年(1925)近郊の人口増加に伴い、玉電の支線として三軒茶屋〜下高井戸間が新しく開通した。

 昭和44年(1969)本線の渋谷と二子玉川間の路線が廃止されたが、支線の三軒茶屋から下高井戸までは残り、世田谷線と改称されて今日に至っている。その名残で、今でも玉電と呼ばれることがある。

 現在、世田谷線の宮の坂駅保管・展示されている電車は、大正14年(1925)に製造され、昭和44年まで渋谷〜二子玉川間・下高井戸間を走り、その後現在の江ノ電譲度され平成2年まで65年間走り続けていた江ノ電601号である。

保管・展示してある
  江ノ電601号    
現在の世田谷線
沿線風景
(山下駅付近)

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