大江戸写真散歩
世田谷から 豪徳寺へ
ボロ市通りに入って約300mほど西に進むと左手に世田谷代官屋敷跡がある。 豊臣秀吉の小田原攻めにより、世田谷城主吉良家は没落し、その重臣であった大場氏も帰農していたが、寛永10年(1633)彦根藩伊井家が世田谷領を拝領した際に、大場氏が代官に起用され、以後世襲して、明治4年(1871)まで領内を統治してきた。 屋敷は江戸中期の建築で、茅葺寄棟造りの母屋、表門、土蔵、白州跡などが残されている。 |
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(表門) |
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屋敷内を一巡して母屋の裏手に行くと、世田谷区立郷土資料館がある。代官屋敷跡も資料館も、入場無料である。 資料館前庭には、富士登拝33回敢行記念碑や、大山道の道標、庚申塔、供養塔、三界万霊塔、地蔵菩薩像、摺臼、搗臼、麦打コロなどが陳列されている。 資料館を出て世田谷線上町駅横の城山通りを北に約300m行くと、世田谷城址にいたる。 |
母屋と白州跡 |
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世田谷城は、南北朝時代(1300年代)に吉良氏により築城されたが、天正18年(1590)秀吉の小田原攻めによる小田原北条氏の滅亡とともに、縁戚関係にあった吉良氏の世田谷城も廃城となった。今は世田谷城祉公園となり、土塁、堀および一段高くそびえる廓(くるわ)が現在でも残されている。 |
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山門に入る前の左手に「都史跡 伊井直弼墓」の碑があり、山門を入ると左手に新しい三重塔が見える。 伊井家は、遠江国伊井谷(いいのや)に勢力を持った士族で、伊井直政が関が原の合戦で武功を立て、初代彦根藩主となって藩の礎を築いた。二代直孝も大阪夏の陣で功績を挙げ、譜代大名の筆頭格となり、以後、幕政に関与してきた家柄である。 豪徳寺仏殿は、延宝5年(1677)完成し、当時流行の黄檗様式の影響が随所に見られ、建築史学上価値の高いものである。 |
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三重塔の四面には十二支の動物が置かれているが、北側の「子」の場所には、ネズミと一緒に招猫が置かれている。 この猫と向き合って、招福殿の山門がある。 伊井家と猫のかかわりについては、次のような伝説がある。 |
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二代藩主直孝が、豪徳寺の前身である弘徳院の前を馬で通りかかったとき、一匹の猫が寺内からしきりと直孝を招いたので寺に入ると、その直後、今まで居たところに雷が落ちた。難を免れた直孝は弘徳院を菩提寺とした。直孝の没後に、その法号にちなみ豪徳寺と寺号を改めた。 |
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もともと弘徳院は、世田谷城主吉良政忠が、文明12年(1480)亡くなった伯母の菩提寺として建立した寺である。 その後、寛永10年(1633)頃、世田谷が彦根藩伊井家所領となったのを機に、領内の弘徳院が伊井家の菩提寺に取り立てられ、直孝の没後、その法号「久昌院殿豪徳天英大居士」にちなみ豪徳寺と寺号を改め、以後、江戸で亡くなった藩主や家族が葬られた。藩主、正室、世子、側室の墓石は、唐破風笠付位牌型である。 ここの梵鐘は、延宝7年(1679)完成後、今日まで移動なく当寺に伝っている。 |
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豪徳寺を出て世田谷線を宮の坂駅の北側で渡り、駅前の信号を右折すると100mほどで世田谷八幡神社にいたる。
寛治5年(1091)奥州の鎮守府将軍であった源義家により創建され、天文15(1546)年からは吉良家の祈願所となった神社で、朱の大鳥居をくぐると右手に厳島神社がある。その奥に土俵がある。「江戸三大相撲」のひとつとして奉納相撲が有名であったところである。 |
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世田谷線に沿って250mほど北進し、2本目の踏み切りの地点で左折すると、100mほどで乗泉寺世田谷別院にいたる。 入口正面に、世田谷の銘木百選に選ばれているクスノキの巨木がある。また、その横には、「南無妙法蓮華経」とヒゲ題目が彫られた大きな石柱が建っている。 |
世田谷別院 |
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乗泉寺世田谷別院の裏手に、常徳院がある。お寺のただずまいも静寂だが、近所の住宅地も静かな地域である。 常徳寺を出て、豪徳寺駅前商店街を200mほど来ると、小田急線の豪徳寺駅に出る。 今回の散歩は、ここを終着点とする。 |
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あとがき |
江ノ電601号 |
沿線風景 (山下駅付近) |