大江戸写真散歩

三軒茶屋から   世田谷へ

まえがき
 今回の散歩は、渋谷から田園都市線で2区目の三軒茶屋駅出発点として、東急世田谷線世田谷駅までの、約7kmのコースである。このコースは、あとがきで述べるように、次回の「豪徳寺コース」と物語的に対を成すものである。

 三軒茶屋は、玉川通り(国道236)、世田谷通りおよび茶沢通りとの分岐点を形成している。そばにキャロットタワーがそびえており、その一階に東急世田谷線三軒茶駅がある。この追分に三軒の茶屋があったことから、三軒茶屋の地名が付けられている。

 大山は、またの名を「あふり山」といい「阿夫利」「雨降」の字を当てる。標高1251mで、丹沢山塊東端の独立峰を形成し、古代から船乗りの目印となっており、航海の安全商売繁盛の神とあがめられていた。また、常に雲や霧をはらんでいて雨を降らすことより、祈雨止雨を叶える五穀豊穣の神として、また、武運長久賭博必勝の神としても信仰を集めていたという。かくして大山講は、富士講高尾講と並んで、江戸三大登山講のひとつであった。
地図

地図及び写真は
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 三軒茶屋駅の大山道出口を地上に出たところに、標頭に不動明王の像を戴いた道標がある。碑の正面には、「左相州通 大山道」、向かって右側面には「右富士世田谷登戸道」、同左側面には「此方 二子通」とある。相州通、二子通は、ほぼ現在の玉川通り(246号線)であり、富士、世田谷、登戸道は、ほぼ現在の世田谷通りである。詳しくは、写真の説明板を参照。
大山道道標
道標説明板
道標側面
道標側面
 世田谷通りを、キャロットタワーを右に見て二つ目の信号のもうひとつ先の道を右に入って世田谷線の踏切を渡ると、目の前に教学院がある。

 教学院は、竹園山最勝寺教学院といい慶長9年(1604)江戸城紅葉山に建てられたという。本尊は、阿弥陀如来である。境内にある不動堂目青不動は、東都五色不動(五眼不動)の一つである。

 墓地には、相州小田原城主大久保家歴代の墓がある。
教学院入口
不動堂
大久保家の墓
 教学院の東門を出て茶沢通りを300mほど北に行くと烏山川緑道があり、太子橋の親柱が立っている。緑道を入ったところには、八幡橋の石柱も立っている。

 ここへ来る間の商店街の歩道には、昔の三軒茶屋の風景を鋳出したプレートが埋め込まれている。
歩道のプレート
烏山川緑道
太子橋
八幡橋
 茶沢通りを約300m進んだ信号機のある交差点に、「聖徳太子参道」と刻した石柱の道標が建っている。ここを右折して150mほどいくと円泉寺の塀が見える。その角に、「林芙美子旧居」という説明板が立っている。ここの路地の二軒長屋の1軒に林芙美子が、もう1軒に壺井繁治、栄夫婦が住んでいたという。

 その先の門の脇に「聖徳太子之碑」が建っている。
聖徳太子参道
林芙美子旧居説明板
聖徳太子之碑
 円泉寺境内には、明治4年(1871)「郷学所」が設けられ、これが世田谷の近代教育発祥の地となったという。

 境内にある聖徳太子を祀った太子堂由来から、この地区の町名太子堂という。

 この辺りにあるケヤキの大木は、この地が農村だった頃、随所に見られた屋敷林の名残だという。
円泉寺
弘法大師像
 境内右手の一段と高いところに、聖徳太子を祀った太子堂がある。お堂の右側に、聖徳太子の立像が建っている。

 円泉寺を出て今来た道を戻り、「聖徳太子参道」の道標が建っている交差点を渡って、右に清水湯の煙突を見ながら道なりに400mほどいくと、太子堂八幡神社に出る。
太子堂
聖徳太子像
清水湯
 神社の西側を鎌倉街道が通っており、文禄年間(1592〜6)源義家が父頼義と共に朝廷の命を受け陸奥阿部氏征討に向かう途中、八幡神社に武運を祈ったと伝えられているので、当社の創祀は、少なくとも文禄年間以前に里人により岩清水八幡分霊勧請してお祀りしたものといわれている。

 なお、先に訪れた円泉寺は当社の別当寺であるという。
太子堂八幡神社
太子堂八幡神社
 八幡神社を出て鎌倉街道を南に200mほど来ると、先の烏山川緑道に出る。「若林橋」の石柱が目に付く。緑道を西へ、環7通りをこえて700mほど来ると「しょういんばし(松蔭橋)」の石柱がある。ここで緑道を外れて左に100mほど行くと松蔭神社に出る。
若林橋
松蔭橋
 松蔭神社の祭神は、吉田寅次郎藤原矩方命(のりかたのみこと)(吉田松陰)である。松蔭は安政の大獄に連座し、江戸伝馬町の獄中にて三十歳の若さで処刑された。その4年後の文久3年(1863)、門下生により、当時長州毛利藩の所領であったこの地に改葬せられ、明治15年(1882)に神社が創建されて今日に至っている。

 鳥居をくぐって参道を進むと、左手に松蔭の坐像が見える。その奥に、毛利元昭(もとあきら、長州藩最後の藩主の長男・貴族院議員)をはじめ、門下生の伊藤博文、山縣有朋、井上馨、桂太郎、乃木希典らにより奉献された石燈篭32基がずらりと並んでいる。
松蔭神社
松蔭坐像
石燈篭
 社殿の右手奥に、松蔭の叔父である玉木文之進が天保13年(1842)に設立し、松蔭もここで学んだという松下村塾がある。この建造物は、萩の松蔭神社境内に保存されている松下村塾を模したものという。

 松蔭がここで講義をしたのは安政6年(1856)8月頃から2年半ほどであったが、この間に90名ほどが学んだ、と説明板に書かれている。
松下村塾
松下村塾
 社殿に向かって左手に鳥居が建っていて、墓地へ通じる参道がある。

 墓地正面の鳥居は、木戸孝允寄進したものである(写真)。

 墓地には、安政の大獄で刑死したもののほか、多くの長州藩士等が祀られている。

 また、禁門の変、長州征伐(1864)の折に破壊されていた墓地を、明治元年(1868)木戸孝允等が修復したとき、徳川家から謝罪の意を込めて寄進された燈篭水盤も建っている。
墓地正面の鳥居
墓地
徳川家寄進の
燈篭
 松蔭神社を出ると、南に向かって松蔭神社通り商店街が延びている。世田谷線松蔭神社駅を過ぎると、200mくらいで世田谷通りに出る。ここを左折して世田谷通りを100mほど来ると、左手に「北原白秋住居跡」の説明板が歩道に面して建っている。

 その先、約400mで環7通りとの交差点「常磐橋陸橋」に出る。
松蔭神社通り
北原白秋住居跡
常磐橋陸橋
 常磐橋陸橋で右折して環7通りを南に約150m来ると、駒留八幡神社(若宮八幡)にいたる。

 祭神は天照大神、応神天皇で、北条成願が徳治3年(1308)社殿を造営し、経筒を納め駒留八幡とあがめた。その後、世田谷城主吉良頼康が、その子の追福のため、八幡宮に一社相殿として祀り若宮八幡と称したという。また、その母常磐弁財天として祀ったという。

 駒留八幡の西側の細い道を世田谷通りに出る途中に、「常磐塚」がある(上馬5−30)。
 
駒留八幡神社
駒留八幡神社
 常磐塚の隣に、「伝承史跡常盤塚」の碑がある。これによれば、南関東の覇者世田谷城主七代吉良頼康奥沢城主大平出羽守の息女常磐の方をこの上なく寵愛していたが、他の側室たちの讒訴を信じてしまい、その結果、鷺草(さぎそう)にも比すべき麗人常磐は、あわれ19歳の花の命を胎内の若子諸共に田の露と消え果たのである。後にこれは冤罪であることが明らかになり、頼康は後悔のほぞをかみ、若子駒留八幡に相殿として祀った時人常磐の方を憐れみこの地に一塚を築き語り伝えたとある。

 また、世田谷区の資料「サギソウ伝説」によると、死を決した常盤は、幼い頃から可愛がっていた白鷺の足に遺書を結びつけ、自分の育った奥沢城へ向けて放った。白鷺は奥沢城の近くで狩りをしていた頼康の眼にとまり射落とされてしまうが、足に結んであった遺書を頼康が読むこととなり、常磐の無実の罪は晴れた。そのとき、白鷺の血の跡から一本の草が生えに似た白い可憐な花を咲かせた。これが鷺草と呼ばれるようになったという。

 昭和43年(1968)区民から一般公募し、世田谷区の区の花として「サギソウ」制定された。
常磐塚
伝承史跡常盤塚の碑
 世田谷通りに出て西へ約700m来ると、通りの右側に大吉寺がある。ここには、江戸中期の有職故実研究者・伊勢貞丈の墓がある。

 本堂前の金色の大形香炉が、ここに吾あり、と自己主張しているようである。

 作家・スポーツライターであった寺内大吉が、この寺で生まれこの寺の住職であったことは、知る人ぞ知るところである。
大吉寺の門
大吉寺本堂
大吉寺香炉
 大吉寺のスグ隣が、玉川八十八ヶ所霊場49番札所円光寺である。

 円光寺の西側の道を北に100mほど行くと世田谷線世田谷駅である。

 今回の散歩は、ここを終着点とする。
円光寺
あとがき
 今回の散歩コースは、次回の豪徳寺コースと合わせて、一編を形成するものである。しかし一度にアップ・ロードすると、いささか長すぎるので、2つのコースに分割した。

 既にお気付きの方も多いと思うが、今回が吉田松陰を祀った松蔭神社コースであり、次回が、井伊直弼の菩提寺である豪徳寺を巡るコースであるとくれば、両者の対比がはっきりしてくるであろう。井伊直弼が指揮・推進した安政の大獄で松蔭は捕らえられ刑死している。その翌年、尊皇攘夷派の志士によって、伊井直弼は桜田門外の変で暗殺斬首されている。この両極の指導者二人が、こんなに近い処に眠っているとは、どんな縁(えにし)があってのことであろうか。幕末政治舞台大転換思いを馳せながら、次回も旧跡を訪ねて歩くことにしよう。

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