大江戸写真散歩
青山一丁目から 六本木へ
この公園は、大正から昭和初めにかけて首相、蔵相を勤め、通称達磨宰相と呼ばれた高橋是清(1854〜1936)の邸宅跡で、池を中心にして石像や石灯篭を配した和風庭園は、ほぼ当時のままの姿を残している。ただ面積は国道の拡幅等でやや狭くなり、現在の面積は5,320uである。彼は2・26事件によりこの地で暗殺された。享年83歳であった。 なお公園の東隣は、明治11年(1878)現在の赤坂・青山地域が赤坂区として誕生した時の赤坂区役所の跡である。 |
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記念公園 |
記念公園 |
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公園を出て今来た道をカナダ大使館の西側まで戻り、そこを左折して300mほど進んで新坂を下る。新坂は、できた当時は、新しい坂の意味だったが、開かれたのは古く元禄12年(1699)だという。その先の突当り右側に、仏様の頭部を高浮き彫りにした大きなレリーフを壁に取り付けた建物が目に飛び込んでくる。この建物は、カンボジア王国大使公邸である。 坂下の突き当りを左折して50mほど行くと道は右にカーブし、稲荷坂にいたる。この坂名は、坂下北側にあった円通院の境内にあった稲荷への門があったことによる。 |
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大使公邸 |
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坂の途中の地蔵尊が立っている四辻を右折して道ナリに左に曲がっていくと赤坂通りに架かっている歩道橋の元に出る。ここを右折して乃木坂を200mほど上って行くと乃木神社にいたる。乃木坂は、幽霊坂と呼ばれていたが、乃木大将殉死の大正元年(1912)以来、乃木坂と改名された。 乃木神社の祭神は、乃木希典命(まれすけのみこと)と静子命(しずこのみこと)である。 |
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この建物は、明治35年(1902)に新築されたもので、乃木希典大将夫妻が、大正元年(1912)3月13日、明治天皇大葬の日、明治天皇に従って殉死するまで住んでいた建物で、軍人の家らしく、飾り気がなく簡素で、傾斜地を巧みに利用した半地下構造になっていて、合理的に造られている。 境内にある赤坂王子稲荷神社は、乃木将軍のご両親の崇敬が篤かった東京都北区の王子稲荷を勧請鎮座せしものという。 正松神社の祭神は、吉田矩方松蔭命および松蔭の叔父で乃木将軍の青年時代の恩師であり、松下村塾の創立者である玉木文之進命である。 |
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乃木神社から赤坂通りを600mほど東に来て「赤坂5丁目交番前」の交差点を左折すると、突き当りに報土寺の練塀と三分坂が見える。 この寺に文化11年(1814)雷電為衛門が梵鐘を寄進したが、鐘の側面に雷電の姿を鋳出したり、その臍に撞木が当たるようにするなど極めて異形であったことと、鐘楼新造の禁令に触れたために、寺社奉行によって取り壊されてしまった。現在の鐘は、明治41年(1908)に鋳造されたものである。 雷電為衛門は、寛政2年(1790)から引退までの力士生活22年間のうち、大関の地位を保つこと33場所、250勝10敗、勝率9割6分2厘の大業績を残した。 |
三部坂 |
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三分坂(さんぷんざか)のいわれは、坂が急なため、通る車賃を銀三分(さんぷん、100円余り)増しにしたためという。なお、三分(さんぶ)と読むと4分の3両になってしまうので、誤りである、と注記してある。 報土寺の築地塀は約230年前のものである。塀の中に瓦を横に並べて入れた土塀を特に「練塀」という。 報土寺の北側100mのところに、小田原北条氏の菩提寺である種徳寺がある。本堂のガラス戸に、北条氏の三つ鱗紋がつけてある。 |
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三分坂に戻り、坂を上ったところがTBS放送センターである。その北側のビルが赤坂パークビルで、このビルの裏手(北側)に近衛歩兵第3連隊跡の記念碑があり、「銀杏ヶ丘」と名付けられ手いる。ここは、広島藩42万6千石松平安芸守中屋敷跡という。 この一角は、都市再開発された複合施設で、赤坂サカス(akasaka Sacas)という。逆さまに読むと SACA・SAKA・SAKA 坂・坂・坂だそうである。 赤坂通りを南に渡って2筋目の角が氷川公園で、そこを右折した先が転坂(ころびざか)である。この坂名は、通行人がよく転んだことに由来する。 坂の突当りを左折するとその先が氷川坂で、100mほどで右側に氷川神社の参道がある。この坂は、神社が建てられた当時は神社の正面であったという。 |
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八代将軍徳川吉宗の命で、享保15年(1730)「古呂故(ころこ)が岡」(現赤坂4丁目辺り)からこの地に遷座した氷川神社は、本殿、幣殿、拝殿の三つの建物が一体となった、いわゆる権現造りである。 門の内外に4基の石燈篭がある。門内の2基は享保9年(1724)奉納のもの、門外の2基は遷座の年に岡崎城主水野忠之が奉納したものである。 |
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境内にある四合稲荷は、古呂故(ころこ)、地頭(じぬし)、本氷川、玉川の4稲荷を合祀した折、勝海舟により「四合(しあわせ)稲荷と称えられたものである。 西行稲荷は、西行五兵衛と異名を持つ男が、狐の形をした三寸程の鉄像を拾い、これを勧請して西行稲荷と唱えた。 境内には、幹径2.4m,幹周7.5m、樹齢400年余の雄株の大銀杏がある。 また、赤坂、青山地区の料理飲食業関係者の建てた包丁塚がある。 |
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神社の西側の坂を、本氷川坂(もとひかわざか)という。これは、坂の途中に氷川神社に合祀された本氷川明神があったからといい、元氷川坂とも書いた。 氷川坂に戻り、坂の中ほどの電気店の横の狭い道を東に200mほど行った突き当たり角に勝海舟邸跡がある。この地は、勝海舟が明治5年(1872)の49歳から満76歳で亡くなるまで住んでいた屋敷の跡で、この間、有名な「氷川清話」などをここで書き残している。碑には「史蹟 勝安芳邸跡 勝海舟伯終焉ノ地ナリ」とある。 今来た道を100mほど戻って四辻を左折しまた100mほど行くと「南部坂」にいたる。この坂は、忠臣蔵の名場面「南部坂雪の別れ」で喧伝せられたところで、元禄時代には、今の氷川神社の辺りに、浅野匠頭夫人が幽居した里方の備後三次藩浅野土佐守の下屋敷があったのである。 坂の名前は、江戸時代初期に南部家中屋敷があったことに由来する。のち、坂が険しいため難歩坂とも書いたという。 |
本氷川坂 | 勝海舟邸跡 | 南部坂 |
南部坂の坂上をアメリカ大使館官舎の石垣に沿って、氷川神社の正面鳥居の前を通って400mほど西に来ると、三河台にいたる。そこを右折すると檜坂で、坂ノ下に檜町公園が広がる。 この公園は、もと長州藩毛利氏下屋敷3万6千坪の一部、約4千坪(14,011u)を残したものである。 この辺りには檜が多かったので、旧町名や坂名に「檜」が付いている。 |
檜坂 | 檜町公園 |
檜坂を下らずに三河台を南に下り、200mほど来たところの信号器のある角を左折し、200mほど来ると六本木通りに出る。その左角が、三河台公園の入口である。 面積約2,600u、入口の噴水が爽やかである。 公園名のいわれは、江戸時代初期に、越前松平三河守忠直の下屋敷があったからという。 公園の西が俳優座であり、その先が六本木の交差点で、地下鉄日比谷線、大江戸線の六本木駅である。、 |
三河台公園 |
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あとがき 江戸は坂が多いといわれているが、、赤坂、六本木辺りもご多聞にもれず、坂が多い地域である。しかし、「赤坂」という坂はみあたらない。 現TBS放送センターの一帯(赤坂サカス)が近衛歩兵第3連隊の跡であることは先に述べたが、檜町公園の南側に広がる現東京ミッドタウン一帯は長州毛利藩の中屋敷跡で、戦前は陸軍第一連隊の兵舎(戦後は防衛庁防衛施設庁)があった。また、その向側にある現国立新美術館の一帯は、戦前は陸軍第三連隊の兵舎(戦後は東大生産技術研究所)があったところである。このように赤坂近辺は軍人の町であった。そして昭和11年(1936)の2.26事件において、これら3つの連隊がここから出動し、事件の中核をなしたのである。話が江戸時代から昭和にそれたが、「昭和も遠くなりにけり」である。 勝海舟邸跡として、今回は、49歳から76歳まで住んでいた氷川小学校の跡地(赤坂6−6−14)にある碑を見て廻ったが、もう一箇所、36歳から9年間住んでいた屋敷跡が、本氷川坂下(赤坂6−10−39、氷川神社の北側)にあることを付記しておく。 |