大江戸写真散歩

門前仲町から   森下へ

まえがき
 今回のコースは、門前仲町駅(地下鉄大江戸線、東西線)から2区北の森下駅(地下鉄大江戸線、新宿線)まで、清澄通りに沿って直線的に歩けば1.6kmほどのコースである。しかし実際には、左右(東西)にくねりながら歩くので総行程6kmほどになる。

 コースの中には、閻魔様が出てきたり、歌舞伎の舞台があったり、平賀源内のエレキテル実験の場があったり、紀伊国屋文左衛門の予想外の墓石に出合ったり、松尾芭蕉の奥の細道出立の地があったり、幅広いジャンルの歴史的名所旧跡を巡るコースである。

 一般に、散歩というと運動ということが前面に出て、とかく単調な歩行の連続になりがちであるが、いろいろなジャンルの、知っているようで知らないことを少しづつ掘り下げながら歩いていると、散歩に奥行き深さ醸されてくる。知るということは、楽しいことである。
地図

地図及び画像は
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 門前仲町駅6番出口を地上に出ると、目の前に高速道路が見える。その高架の下に和倉橋の親柱が保存されている。高速道路の下は油堀川の跡で、遊歩道のようになっている。これに沿って300mほど東に行くと、落語編の「富久」で歩いた和倉の渡場にいたる。ここを左折して200mほど行くと葛西橋通りに出る。その右手斜め前に冬木弁財天が見える。

 冬木弁財天は、木場の材木豪商冬木弥平次が、宝永2年(1705)茅場町から深川に転宅した際、邸内に竹生島から移した弁財天を安置したのがそのまま今日まで残ったものである。よって、今でもこの町を冬木町というようになった。
和倉橋の親柱
冬木弁財天
冬木弁財天
 冬木弁財天から葛西橋通りを西に400mほど来ると玄信寺がある。紫檀楼古喜の墓があるというが、立ち入り拒絶された。その先が清澄通りとの交差点で、その角に陽岳寺がある。

 天明の大飢饉(1783〜87)の頃、山城国伏見奉行悪政にあえいだ領民が、幕府に直訴を企てた。その結果、直訴は成功し、伏見奉行は罷免された。そのとき犠牲になった領民代表3名の遺体陽岳寺に葬られている。

 伏見義民の墓の横に、江戸中期の画家、観嵩月(かんすうげつ)や英信勝(はなぶさしんしょう)(英一蝶の子)のが並んでいる。
玄信寺
陽岳寺
伏見義民の墓
 清澄通りをはさんで「えんま堂」の向かい側の公衆便所の外壁に、歌舞伎「梅雨小袖昔八丈」(髪結新三)一場面が画かれている。ここに画かれている橋が「えんま堂」の前に架かっていた黒亀橋で、もとの富岡橋である。富岡橋の親柱が、高速道路下に保存されている。

 その奥の方面が、四谷怪談「深川三角屋敷」の一角である。地図を見ると、今日でもこの辺りの地形は、三角形をしている。
 
髪結新三の舞台絵
富岡橋の親柱
深川三角屋敷方面
 陽岳寺の隣が、法乗院深川えんま堂である。写真の右が本堂、左の赤いお堂がえんま堂である。
 えんま堂には、願いごと別の複数の賽銭箱が置かれており、選択的に祈念して賽銭を挙げるようになっている。

 境内に、生きもの殺生供養の「鳥塚」がある。
法乗院深川えんま堂
えんま坐像
鳥塚
 「鳥塚」の前に、曽我五郎の足跡を刻したと伝えられている石が置かれている。

 また、虚無僧の「尺八塚」と並んで「中興之始祖 初代古童 豊田風憧史蹟」の碑がある。豊田風憧(?〜1851)は、江戸後期の尺八奏者で、後に古童と号した。
 
曽我五郎の足跡
尺八塚
 法乗院の隣が心行寺である。心行寺の境内に空風火水地五層の石塔があり、元亨4年(1324)の銘がある。この記録は、江東区内に現存するもののうちで最も古い年号を記録しているという。

 その横に影窓院(ようそういん)地蔵が立っている。結縁地蔵として縁結び願いごと成就の地蔵尊として江戸時代から参詣の人々でおおいに賑わった、という。
心行寺
五層の石塔
影窓院地蔵
 その横の宝篋印咒塔(ほうきょういんじゅとう)は、文化文政頃の江戸の名妓川口直が、その夫忠七(竹明と号して笛の名手)の菩提を弔うために建てたものという。

 心行寺の先2つ目の筋を右折すると増林寺である。ここには、江戸中期の書道家であり篆刻家である三井親和(みついしんな)(1700〜1782)の墓がある。
宝篋印咒塔
紅葉の美しい境内
増林寺
三井親和の碑
 増林寺から東に1つ目の筋を左折して100mほど行った突当たりの右側が、正覚寺である。

 東都三十三間堂は、京都の三十三間堂を模して当初浅草に建てられたが、元禄11年(1698)の大火で焼失し、後、深川再建された。この間の記録が記された「三十三間堂旧記」正覚寺移管され、今日に伝えられている(三十三間堂跡については、落語編「富久」を参照)。

 境内には、江戸後期の狂歌師、元ノ杢網(もとのもくあみ)夫妻の墓がある。
正覚寺
正覚寺の案内碑
元ノ杢網の墓
 正覚寺の前の道を西に100mほど戻ると、清澄通りに出る。通りの向かい側に採荼庵(さいとあん)が見える。

 採荼庵は、芭蕉の弟子で幕府出入りの魚問屋杉山杉風別邸で、芭蕉は、ここから舟で千住に行き、「奥の細道」の出発点としている。芭蕉旅立ちの像がある。

 庵は、仙台堀川に架かった海辺橋の南西詰めに建っている。

採荼庵
海辺橋
 海辺橋を渡って左折し、仙台堀川に沿って500mほど行った右手に、「本邦セメント工業発祥の地」の碑がある。「此地ハ元仙台藩ノ蔵屋敷跡ニシテ明治五年大蔵省土木寮ニ於テ始メテセメント製造所ヲ建設セリ云々」とある。

 この先の隅田川沿いの道に突当たって右折すると、右手に「平賀源内電気実験の地」の碑がある。平賀源内(1728〜1780)は、安永5年(1776)オランダ製のエレキテルを修復して、この地にあった自宅で静電気の実験をしたという。

 今来た道を海辺橋まで戻ると、児童館の前に「滝沢馬琴誕生の地」の説明板と本を積み上げた形記念碑がある。山東京伝の門人である滝沢馬琴(1767〜1848)は曲亭馬琴とも号し、読本、黄表紙、随筆にいたる約470種もの著作を残している。
本邦セメント工業発祥の地の碑
平賀源内
電気実験の地
滝沢馬琴誕生の地
 清澄通りを約150m北に進むと、通りはやや左に曲がっている。ここから約30m先の筋を右に入ると二筋目に成等院がある。その隣に紀伊国屋文左衛門(1669〜1734)の大きな碑と文左衛門とは不釣合いに小さな墓石がある。

 紀文の墓の先30mで左折し60mほど行くと突当りが深川江戸資料館である。資料館の前に、風変わりなみやげ店がある。

 資料館の西隣が霊巖寺である。
成等院
紀伊国屋文左衛門の碑
紀伊国屋文左衛門の墓石
 霊巖寺を入ってスグ左に、享保2年(1717)頃深川の地蔵坊正元の発願により造立された、第5番目の江戸六地蔵がある。像の高さ2.73m。

 その奥左手に、白川楽翁を号し、寛政の改革を断行した老中として知られる松平定信(1758
〜1829)の墓所がある。
霊巖寺
江戸六地蔵
松平定信墓所
松平定信墓所
 霊巖寺の前の路を入ると出世不動尊(長専院不動寺)がある。丁度、先に訪れた紀文の記念碑のあった成等院の北隣に当たる。此の辺りには多くの寺院があり、寺町を形成している。

 霊巖寺の西側に雄松院があり、芭蕉の門人である渡会園女の墓がある。

 雄松院から清澄通りに戻る途中に、資料館の前で見たみやげ店と同じ造りの店があり、人目を引いていた。
出世不動尊
雄松院
渡会園女の墓
 清澄通りから清澄庭園の北側の道を西に進むと、清澄庭園の正門にいたる。

 正門の近くに、常照寺がある。元和3年(1615)明から渡来して、徳川家康の侍医を勤めた呂一官の墓がある。呂一官は、ポマードの柳屋の元祖である。
常照寺
呂一官の碑
臨川寺
墨直しの碑など
 また、松尾芭蕉が度々参禅に通った臨川寺がある。境内には、墨直しの碑、芭蕉由緒の碑、玄武佛梅花佛などがある。

 また、賀茂真渕の門人で、歌人であり国学者でもあった村田春海(はるみ 1746〜1811)の墓がある本誓寺もある。

 清澄庭園は、その一部が紀伊国屋文左衛門屋敷跡と言われているが、享保年間(1716〜36)には、下総国関宿藩主久世家の下屋敷であった。明治11年(1878)三菱財閥の岩崎弥太郎が荒廃していたこの地を買収し、造園工事をおこなった。
本誓寺
村田春海の碑
清澄庭園正門
清澄庭園
 臨川寺の前の信号を渡って北に2筋行った角が、寛永7年(1630)の創建と伝えられている深川稲荷社である。深川七福神のひとつ布袋尊として親しまれている。

 高橋に戻り、小名木川を渡る。橋の北西詰めに「二代目中村芝カン(習ヘンに元)(1796〜1852)宅跡」の説明板が立っている。芝カンが天保の頃この辺りに住んでいたので、小名木川に面していた河岸は「芝カン河岸」と呼ばれていた。
深川稲荷社
高橋
中村芝カン宅跡
 清澄通りを200mほど北に進み、最初の信号の次の交差点を左折する。100m弱進んだところに深川神明宮がある。

 この辺りは慶長年間(1596〜1614)に摂津国深川八郎右衛門ほか6名新田を開拓し、八郎右衛門のをとり深川と名付けられた。八郎右衛門は持地内小祠に神明を勧請したと伝えられ、これが深川神明宮となっている。

 鳥居の前に、「伊東深水の誕生の地」の説明板が立っている。伊東深水(1898〜1972)は、江戸の浮世絵の伝統を受け継ぎ、日本画特有の優雅な美人画得意としていた。
深川神明宮
深川神明宮本殿
伊東深水誕生の地
あとがき
 深川江戸資料館通りの清澄通り入口側と、資料館のまん前に似たような造りの「江戸みやげ屋」がある。いずれの店にも「日本一まずい佃煮でごめん」青地黄丹色の字で書かれた横幕が掲げてあり、人目を引く。「まずい」の字が逆さまに書かれていて、人を食ったところが面白い。資料館前の店が支店で、旦那が商いをしている。その出立(いでたち)は、チョンマゲの鬘(かつら)を付けて、紺の前掛けに、襟に「江戸みやげ屋」と染抜いた浅黄色の袢纏を着て、手には南京玉簾を持ち「---さては南京玉簾 チョイと伸ばせば 阿弥陀如来か釈迦牟尼か 後光が見えれば おなぐさみ---」といったところである(蛍光灯の後光が差していた)。その時の笑顔がなんともいえないほど和やかで、散歩の疲れ癒してくれた。
 なお、資料館通りの入口の店が本店で、奥さんが社長とのこと(冗談?)。この社長さんも袢纏を着て、愛想よく客を迎えていた。
思い出に残る一齣であった。
ユニークな
江戸みやげ屋本店
心和む江戸の風情

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