大江戸写真散歩

赤坂見附から  新橋へ

まえがき
 往時の弁慶橋から赤坂見附辺りにかけては、清水谷公園や紀尾井町方面から、きれいな水豊富に流れ込んでいた。神田上水玉川上水が整備されるまでは、この湧水を今の特許庁辺りで堰き止めて貯水池を造り、上水として使っていた。ここから溜池の名がついたといわれている。

 弁慶堀から流れてきた外堀は、赤坂御門辺りで溜池につながり、虎ノ御門手前の堰までの約1.4km江戸城の外堀形成していた。堰から流れ落ちる水の音がドンドンと響いていたので、この堰は「赤坂のどんどん」と呼ばれていた。なお、溜池の幅は所により45〜190mであった。

 虎の御門からは、新し橋を経て第一ホテルの横を流れて幸橋(みゆきばし)御門にいたり、その先の土橋から汐留川となって芝口御門を経て浜離宮の西側から海に注いでいた。

 一方、外堀としては、土橋の手前で分流して北に折れ(左折し)、ほぼ外堀通り沿いに山下御門(帝国ホテル付近)の方向に流れていた。

 今回は、地下鉄赤坂見附駅から新橋駅に向けて、溜池、外堀沿い約3km歩くこととする。
地図

地図と画像は
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 日枝神社は、秩父氏の館にあった山王権現大田道灌江戸城内に奉祀し、それ以降、城内紅葉山半蔵門外、溜池を望む景勝の地星が岡に再度遷座し、明治維新の神仏分離により日枝神社と改称して、現在に至っている。山王まつりは、神田まつりと共に天下祭り御用祭りとして華麗豪壮、まさに天下随一と称えられている。氏子区域は、皇居を中心として、外堀の内側一部その周辺を占めている。

 赤坂見附駅から約300mで、先ず本殿西側の黒塗り赤坂鳥居にいたる。日枝神社の鳥居はすべて山王鳥居の形式(あとがき参照)である。階段を上がったところに「山王日枝神社」の標石があり、ここを左に昇ると本殿の裏に出る。右に行くと、本殿南側の二の鳥居の上に出る。
赤坂鳥居
山王日枝神社標石
 先の黒い赤坂鳥居の前を通って100mほど行くと、二の鳥居の前に出る。鳥居の左手に「山王橋」が架かっている。

 一番右の写真は、鳥居の裏から溜池があった付近を見た景色である。古地図を見ると、この辺りが池の幅最も狭くなっている地点であるが、橋の印ない

 階段の右側にエスカレータが設置されている。右手の林からキャピトル東急ホテルの辺りが、北大路魯山人で有名な「星が岡茶寮」の跡である。星がきれいに眺められた岡であったという。
二の鳥居
山王橋
溜池跡の遠望
 神門の正面(東方向)に、53段の石段があり、その先に山王鳥居が見える。ここが正面の参道「男坂」と呼ばれ、山王坂(国会議事堂方面)に通じている。左手のキャピトル東急ホテル裏の坂道が「女坂」である。

 神門の手前に宝物殿があり、その近くに、国歌に詠われている「さざれ石」が置かれている。この石は、国歌発祥の地といわれている岐阜県揖斐郡春日山の山中より発掘されたもので、学名は石灰質角礫岩だそうである。
山王鳥居
さざれ石
宝物殿
 神門の左右には随身を安置し、正面頭上には「日枝神社」の額が掲げられている。
神門(表側)
神額
神門脇の奉納樽
 神門の裏側に回ると、そこには、日吉神の使いである神猿(まさる)が衣装をつけて門の左右に鎮座している。そして門の上には、「皇城の鎮(しずめ)」の額が掲げられている。

 もともと山王権現社は、江戸城(皇居)の裏鬼門鎮護するために祀られた社である。
神門(裏側)
神額
 都心であるにもかかわらず、本殿前は都内有数のパワースポットとなっている。

 拝殿の左右には、狛犬ならぬ神猿の像が配されている。左の女猿は子を抱いており、安産、子育て霊験あらたかという。
本殿
神猿(女猿)
神猿
 本殿に向かって右手奥に末社として、山王稲荷神社、八坂神社、猿田彦神社が祀られている。そばに由緒書きが、立てられている。

 裏口を出て、星が岡の裾に沿って時計回りに切り通しを200mほど行くと、左手に日比谷高校があり、その先が山王坂につながっている。
末社
末社由緒書
 日比谷高校は、東京府立第一中学校時代の昭和4年(1929)に日比谷からこの地に移転してきたが、発祥地の名を今日に継承している。

 日比谷高校の向かい側に「わが国黎明期の牧場」と題した説明板が立っており、この地域が、明治初年における、東京の酪農誕生の地であることが詳しく説明されている。
日比谷高校正門
わが国黎明期の牧場」説明板
山王坂
 山王坂下を左折してキャピトル東急ホテルの前をから外堀通りに出る。右角の山王パークタワーは、2・26事件反乱部隊が本拠地とした赤坂山王ホテルの跡である。左の高台に、首相官邸が見える。

 この角を左折すると、100mほどで溜池交差点に至る。高速道路の下をくぐった先の東側(左側)に「溜池発祥の碑」がある。この辺りが池の幅が最も広くなっていた地点で、不忍池に匹敵する江戸の名所となっていた。鯉や鮒が泳ぎ、三代将軍家光も遊泳したと伝えられている。また、江戸後期には料金を取った銭取橋が架けられていたことなど、明治以降のことも含めて詳細に説明されている。
溜池から虎ノ門方面を見る
溜池発祥の碑
 地下鉄虎ノ門駅3番出口を出た先の三井ビル横の三角空き地「江戸城外堀の跡」の碑がある。

 その並びに、わが国の近代司法制度の基礎を確立した江藤新平の「遭難遺址」の碑が建っている。明治2年(1869)この地において暴漢に襲われ右肩に重傷を負い、明治天皇から見舞金若干を賜ったと記されている。若干とは、150両だったという。

 またその横に、「新聞創刊の地」の碑がある。
江戸城外堀跡の碑
江藤新平君遭難遺址碑
新聞創刊の地の碑
 道路を隔てて、金刀比羅宮の塀が見える。讃岐丸亀藩江戸藩邸にあったをこの地に移したものである。銅鳥居百度石が保存されている。

 江戸では諸藩邸内の神仏一般庶民に公開し、賽銭収入を期待したようで、そのためか、このように派手な鳥居が作られていた。また百度石には、元治元年(1864)十二月吉日の銘がある。
金刀比羅宮
銅鳥居
お百度石
 地下鉄虎ノ門駅の11番出口に、外堀の保存石垣が展示してあり、地下の見学室からもよく見ることができる。外堀の説明図「外堀水位」などが示してある。 
保存石垣
外堀の水位
 虎ノ門交差点の東北角に戻る。地下鉄8番出口の脇に「虎ノ門遺趾」の碑がある。虎ノ門の名前の由来は、朝鮮から虎が持ち込まれたとき、門が狭くて通れなかったので、檻の大きさに合わせて造り直したからだそうだ。その他、白虎説などなど諸説がある。

 外堀通りの北側の道を200mほど進むと、大同生命ビル横のオープンテラスの植え込みの中に江戸から明治、昭和にかけて、この周辺地域が如何に変化していったかの歴史的解説板が展示されている。また、外堀の流路が分かりやすく示してある。
虎ノ門遺趾」の碑
虎ノ門遺趾」の碑
周辺地域の
歴史的説明板
 愛宕通りを渡った点で道が分岐したり、日本酒造会館の裏手で屈曲したりしている。外堀の流れていたである。ここの愛宕通り辺りが「新し橋」の架かっていた地点である。

 物産ビル別館増築工事の際、地下4m余りの所から発掘された石垣保存されている。

 日比谷通りを渡って第一ホテルの横をJRのガードまで歩を進める。
分岐路
屈曲路
保存石垣
 このガードを幸橋架道橋という。なお、架道橋とは、鉄道が道路を渡る橋のことである。

 幸橋御門は、この辺りにあったと思われる。

 外堀はおおよそ、このガードの下辺り流れていて、第一ホテル堀の中に建っている感じである。
幸橋御門の辺り
幸橋架道橋
 外堀土橋にいたって分流する。外堀としては左折して山下御門(帝国ホテル方角)に流れる。外堀通りがほぼこれに並行して走っている。

 一方本流はまっすぐに、土橋の下を通って汐留川として芝口御門を経て浜離宮の方角に流れる。汐留川に沿った通りは「御門通り」と呼ばれている。汐留川は埋め立てられて見る影もないが、高速道路土橋の上を走っている格好になっている。

 土橋から100mほどで新橋駅にいたる。ここを、今回の散歩の終着点とする。
 
土橋とその上の高速道路
御門通り
あとがき
 山王鳥居という形式の鳥居は、明神鳥居の上に破風型の合掌をつけた鳥居で、合掌神仏習合を表している。

 溜池と外堀の跡は、千代田区と港区の区境として今日に残っている。200年以上過ぎても、街のところどころに往時の面影が残っている。
 今回、古地図を見ながら溜池コースを歩いてみて、江戸時代の溜池の大きさがおぼろげながら分かってきた次第です。 

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