大江戸写真散歩

JR巣鴨駅から  本妙寺を一周

まえがき
 江戸270年の間に、大火90件近くもあったという。3年に一度の割合である。そのうちで最も大きな火事は、「振袖火事」と呼ばれている明暦3年(1657)の「明暦の大火」である。100町余の町屋が焼け、江戸城天守閣も焼け落ち、死者10万人以上ともいわれた。人形町近くにあった吉原遊郭が浅草寺北側の田圃の中に移されたり、寺社旗本屋敷の多くが江戸の周辺部移された。その結果、市中に広小路火除地が造られ、隅田川に両国橋が架けられて、江戸の町は一変することになった。

 しかしこの大火の出火原因については諸説紛々である。先ずその一が、本妙寺で供養のために振袖を火中に投じた瞬間つむじ風が吹いて火のついた振袖が舞い上がり、本堂に燃え移ったとする「振袖説」である。その二は、本妙寺に隣接する老中阿部忠秋の屋敷から出火したが、本妙寺に火元を身代わりさせたとする「身代わり説」である。その三は、人口が急増した江戸の町を大改造するために、幕府政策的に放火したとする「放火説」である。

 なお、当時本妙寺本郷丸山(現在の本郷5丁目東大正門前辺り)にあった寺で、明治43年(1910)に現在地に移転してきたものである。
 今回の散歩は、JR山手線巣鴨駅出発点として一回りし、また巣鴨駅に帰ってくる総行程4kmほどのコースである。
地図


地図および画像は
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 JR巣鴨駅を出て白山通りを渡って北西に200mほどいくと、左方へ旧中山道が分かれている。この分岐点江戸六地蔵第三番真性寺がある。

 このあたりの中山道沿いには、優れた野菜の種を商う問屋小売店が建ち並び、さながらタネ屋街道になっていた、という説明板が寺の入口に立っている。
真性寺
真性寺
タネ屋街道の説明板
 3ヶ月前に取材に訪れたときは、地蔵尊大修理のため不在で、小形の身代り地蔵尊が鎮座ましましたが、今回は正徳4年(1714)造立座高2.68mの本来の地蔵尊が戻っておられた。

 境内には、多くの古い石碑などがある。写真の左から3ッ目は芭蕉「白露も こほれぬ萩の うねりかな」句碑である。
 
身代り地蔵尊
江戸六地蔵尊
石碑群
 中山道に入ると、街道沿いに巣鴨地蔵通商店街が続く。通称「おばあちゃんの原宿通り」である。お年寄り向けの衣料品店や食品店が多い。

 200mほどいくと右手にの高岩寺がある。ご本尊秘仏延命地蔵菩薩「とげぬき地蔵」として知られている。昔、過って針を飲み込んだ女中が、菩薩の尊像を描いた紙を水とともに飲んだところ、この紙の尊像に針が刺さった形で吐き戻したという。尊像を描いた縦4cm、幅1.5cmの和紙を御影(おみかげ)といい、本堂で授与されている。
 境内にある聖観世音菩薩立像は、自分の悪いところを洗うと快癒するという「洗い観音」として有名である。
巣鴨地蔵通商店街
高岩寺
洗い観音
 高岩寺より700mほどで庚申堂にいたる。ここを右折すると、飛鳥山、王子方面にいたる王子道である。江戸時代は中山道の立場(宿と宿との間の休憩場所)として栄えたところである。

 庚申堂には、申(さる)のよしみで猿田彦大神合祀してある。写真の奥の方に、「史蹟 庚申塚」標柱が見える.
猿田彦大神
庚申堂
 庚申堂から栄和通りを250mほど北東に進み、白山通りに出て左折し、白山通りを西北に200mほど行くと右手に正法院盛雲寺(新門辰五郎の墓)、西方寺(新吉原の投込み寺。二代目高尾太夫の墓)などが並んでいる。明治時代に当地に移転してきた寺が多い。

 いったん都電荒川線の線路を渡ってお岩通りに出る。50mほど東北に行って左折し、再び都電の線路を渡って50mほど行くと妙行寺にいたる。
正法院
西方寺
盛雲寺
 妙行寺の入口右手には、「お岩様之寺 妙行寺」石柱「浅野家歴世之墳墓数基あり」との石碑が建っている。

 当寺は、四谷怪談お岩様の嫁先、田宮家菩提寺で、明治42年四谷より現在地に移転してきたという。
お岩通り
妙行寺
お岩様之寺
浅野家の石碑
 左の写真は、浅野内匠頭長矩公夫人瑶泉院殿供養塔浅野内匠頭長直(長矩の祖父)公夫人高光院殿之墓浅野大学長廣(長矩の弟)公夫人蓮光院殿之墓がある浅野家の墓所である。

 右の写真は、田宮家の墓所にあるお岩様の墓である。
浅野家の墓所
お岩様の墓
 境内には、魚河岸で犠牲になった生類の供養のため建てられた「魚河岸供養塔」や都内全うなぎ商の菩提心により建てられた「うなぎ供養塔」がある。

 また、清潔な仏水で洗えばその箇所がよくなるという「淨行様」が祀られている。
魚河岸供養塔
うなぎ供養塔
淨行様
 妙行寺の隣が善養寺で、本堂には高さ約3m木造閻魔王坐像が鎮座し、「おえんまさまの寺」とも呼ばれている。杉並区松ノ木3の華徳院(けとくいん)、新宿区新宿2の太宗寺(たいそうじ)の閻魔王とともに、江戸三大閻魔のひとつとなっている。

 境内には、江戸中期の陶工であり絵師であった尾形乾山(けんざん 光琳の弟 1663−1743)の墓がある。
善養寺
閻魔大王の碑
尾形乾山の墓
 善養寺の奥(北側)には清巖寺良感寺が並んでいる。

 このあたりで引き返してくると、都電の踏み切りの手前に、一見お寺には見えない智泉院がある。智泉院といえば、落語編「心眼」萱場町の智泉院を思い出すが、こことの関係は知らない。本堂の横が妙行寺の駐車場になっていた。
清巖寺
良感寺
智泉院
 都電の線路を渡ってお岩通りを渡って朝日通りに入り、東南に100m少し来ると左手に白泉寺がある。朝日観音霊場とある。

 境内に、万倍稲荷「一字納経」と刻した石灯篭がある。

 隣に「赤門寺」総禅寺がある。手塚治墓参有料(定額線香代)、初代三遊亭圓右の墓の有無については知りません、とのことであった。
白泉寺
万倍稲荷
一字納経塔
赤門寺
 朝日通りを南に250mほど来て巣鴨5の8と34の間の道を左折する。そこから150mほどで、明暦火事の火元とされている本妙寺に着く。門の右手に、史蹟一覧が掲示されている。広い境内には多くの史跡(お墓や供養塔)があるが、これらの配置を示した境内図が掲示してあって、拝観者にとってよく整備されている。

 本堂裏手に「明暦の大火供養塔」がある。
本妙寺
本妙寺史跡一覧
明暦大火供養塔
 境内ある墓所を巡っていく。

 関宿藩千葉県野田市関宿)久世大和守歴代の墓がある。久世重之(1659−1720)は老中を務めた人物である。

 この並びに、囲碁本因坊の歴代の墓があり、その裏側に千葉周作(1793−1856)の墓がある。
久世家歴代の墓
本因坊歴代の墓
千葉周作の墓
 千葉周作の墓の裏側左手に江戸後期の北町奉行遠山金四郎景元(1793−1855)の墓が、その左手に江戸後期の将棋棋聖天野宗歩(1816−1859)の墓がある。

 本堂の裏手に来ると明暦大火供養塔がある。その手前左側に、日本最初の通訳森山多吉郎(1820−1871)の墓がある。嘉永7年
(1854年)のペリー来航の際に通訳を務めている。
頭山金四郎の墓
天野宗歩の墓
森山多吉郎の墓
 本妙寺を出て200mほど南東に進み、左手に墓地が見えたら左折して墓地の塀を右に見ながら狭い路を200mほど北に行くと慈眼寺の門前にいたる。

 門を入って左手に、新内で「明烏夢泡雪」(あけがらすゆめのあわゆき)としてうたわれた浦里(吉原の遊女三芳野)と時次郎(札差伊勢屋のむすこ伊之助)の比翼塚がある。落語編「明烏」にも、浦里時次郎(若旦那)のが出てくるので、参照してください。
慈眼寺
比翼塚
 本堂の前の道を隔てて墓地がある。
 芥川龍之介(1892−1927)の墓石は、遺言により愛用の座布団と同じ形と寸法に作られているという。

 日本で最初に銅版画の創製に成功した司馬江漢(1747-1818)の墓や、江戸中期各地を歩いて綿密な調査と考証を重ね、名著「武蔵野話」を刊行した斉藤鶴磯(さいとうかっき1752−1828)の墓などがある。

 墓地を出て中央卸売市場豊島市場東側を通って白山通りに出る。一路JR巣鴨駅に帰着する。この間、約900mである。今回の散歩は、以上で終了とする。
芥川龍之介の墓
司馬江漢の墓
斉藤鶴磯の墓
あとがき
 江戸の三大火事は、上記の「明暦の大火」(明暦3年1657 振袖火事)と「目黒・行人坂の大火」(明和9年1772 迷惑火事)および「文化の大火」または「丙寅(へいいん)の大火」(文化3年1806 芝・車町火事)である。

 「目黒・行人坂の大火」については、落語編「目黒のさんま」において火元となった大園寺を訪ねているので、参照してください。

 なお「明暦の大火」は、「ローマ大火」(64)、「ロンドン大火」(1666)と並んで世界三大火事のひとつに数えられている。

 蛇足ながら、「八百屋お七の火事」「天和の火事(1682)」といわれるもので、「振袖火事」とは別の火事である。落語編「くしゃみ講釈」を参照してください。

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