大江戸写真散歩
JR巣鴨駅から 本妙寺を一周
JR巣鴨駅を出て白山通りを渡って北西に200mほどいくと、左方へ旧中山道が分かれている。この分岐点に江戸六地蔵第三番の真性寺がある。 このあたりの中山道沿いには、優れた野菜の種を商う問屋や小売店が建ち並び、さながらタネ屋街道になっていた、という説明板が寺の入口に立っている。 |
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3ヶ月前に取材に訪れたときは、地蔵尊は大修理のため不在で、小形の身代り地蔵尊が鎮座ましましたが、今回は正徳4年(1714)造立、座高2.68mの本来の地蔵尊が戻っておられた。 境内には、多くの古い石碑などがある。写真の左から3ッ目は芭蕉の「白露も こほれぬ萩の うねりかな」の句碑である。 |
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中山道に入ると、街道沿いに巣鴨地蔵通商店街が続く。通称「おばあちゃんの原宿通り」である。お年寄り向けの衣料品店や食品店が多い。 200mほどいくと右手にの高岩寺がある。ご本尊は秘仏の延命地蔵菩薩で「とげぬき地蔵」として知られている。昔、過って針を飲み込んだ女中が、菩薩の尊像を描いた紙を水とともに飲んだところ、この紙の尊像に針が刺さった形で吐き戻したという。尊像を描いた縦4cm、幅1.5cmの和紙を御影(おみかげ)といい、本堂で授与されている。 境内にある聖観世音菩薩の立像は、自分の悪いところを洗うと快癒するという「洗い観音」として有名である。 |
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高岩寺より700mほどで庚申堂にいたる。ここを右折すると、飛鳥山、王子方面にいたる王子道である。江戸時代は中山道の立場(宿と宿との間の休憩場所)として栄えたところである。 庚申堂には、申(さる)のよしみで猿田彦大神が合祀してある。写真の奥の方に、「史蹟 庚申塚」の標柱が見える. |
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庚申堂から栄和通りを250mほど北東に進み、白山通りに出て左折し、白山通りを西北に200mほど行くと右手に正法院、盛雲寺(新門辰五郎の墓)、西方寺(新吉原の投込み寺。二代目高尾太夫の墓)などが並んでいる。明治時代に当地に移転してきた寺が多い。 いったん都電荒川線の線路を渡ってお岩通りに出る。50mほど東北に行って左折し、再び都電の線路を渡って50mほど行くと妙行寺にいたる。 |
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妙行寺の入口右手には、「お岩様之寺 妙行寺」の石柱と「浅野家歴世之墳墓数基あり」との石碑が建っている。 当寺は、四谷怪談のお岩様の嫁先、田宮家の菩提寺で、明治42年四谷より現在地に移転してきたという。 |
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左の写真は、浅野内匠頭長矩公夫人瑶泉院殿供養塔、浅野内匠頭長直(長矩の祖父)公夫人高光院殿之墓、浅野大学長廣(長矩の弟)公夫人蓮光院殿之墓がある浅野家の墓所である。 右の写真は、田宮家の墓所にあるお岩様の墓である。 |
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お岩様の墓 |
境内には、魚河岸で犠牲になった生類の供養のため建てられた「魚河岸供養塔」や都内全うなぎ商の菩提心により建てられた「うなぎ供養塔」がある。 また、清潔な仏水で洗えばその箇所がよくなるという「淨行様」が祀られている。 |
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妙行寺の隣が善養寺で、本堂には高さ約3mの木造閻魔王坐像が鎮座し、「おえんまさまの寺」とも呼ばれている。杉並区松ノ木3の華徳院(けとくいん)、新宿区新宿2の太宗寺(たいそうじ)の閻魔王とともに、江戸三大閻魔のひとつとなっている。 境内には、江戸中期の陶工であり絵師であった尾形乾山(けんざん 光琳の弟 1663−1743)の墓がある。 |
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善養寺の奥(北側)には清巖寺、良感寺が並んでいる。 このあたりで引き返してくると、都電の踏み切りの手前に、一見お寺には見えない智泉院がある。智泉院といえば、落語編の「心眼」で萱場町の智泉院を思い出すが、こことの関係は知らない。本堂の横が妙行寺の駐車場になっていた。 |
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都電の線路を渡ってお岩通りを渡って朝日通りに入り、東南に100m少し来ると左手に白泉寺がある。朝日観音霊場とある。 境内に、万倍稲荷や「一字納経」と刻した塔や石灯篭がある。 隣に「赤門寺」の総禅寺がある。手塚治の墓参は有料(定額線香代)、初代三遊亭圓右の墓の有無については知りません、とのことであった。 |
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朝日通りを南に250mほど来て巣鴨5の8と34の間の道を左折する。そこから150mほどで、明暦火事の火元とされている本妙寺に着く。門の右手に、史蹟一覧が掲示されている。広い境内には多くの史跡(お墓や供養塔)があるが、これらの配置を示した境内図が掲示してあって、拝観者にとってよく整備されている。 本堂裏手に「明暦の大火供養塔」がある。 |
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境内ある墓所を巡っていく。 関宿藩主(千葉県野田市関宿)久世大和守歴代の墓がある。久世重之(1659−1720)は老中を務めた人物である。 この並びに、囲碁本因坊の歴代の墓があり、その裏側に千葉周作(1793−1856)の墓がある。 |
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本因坊歴代の墓 | 千葉周作の墓 |
千葉周作の墓の裏側左手に江戸後期の北町奉行遠山金四郎景元(1793−1855)の墓が、その左手に江戸後期の将棋棋聖天野宗歩(1816−1859)の墓がある。 本堂の裏手に来ると明暦大火供養塔がある。その手前左側に、日本最初の通訳森山多吉郎(1820−1871)の墓がある。嘉永7年(1854年)のペリー来航の際に通訳を務めている。 |
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本妙寺を出て200mほど南東に進み、左手に墓地が見えたら左折して墓地の塀を右に見ながら狭い路を200mほど北に行くと慈眼寺の門前にいたる。 門を入って左手に、新内で「明烏夢泡雪」(あけがらすゆめのあわゆき)としてうたわれた浦里(吉原の遊女三芳野)と時次郎(札差伊勢屋のむすこ伊之助)の比翼塚がある。落語編の「明烏」にも、浦里と時次郎(若旦那)の噺が出てくるので、参照してください。 |
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本堂の前の道を隔てて墓地がある。 芥川龍之介(1892−1927)の墓石は、遺言により愛用の座布団と同じ形と寸法に作られているという。 日本で最初に銅版画の創製に成功した司馬江漢(1747-1818)の墓や、江戸中期各地を歩いて綿密な調査と考証を重ね、名著「武蔵野話」を刊行した斉藤鶴磯(さいとうかっき1752−1828)の墓などがある。 墓地を出て中央卸売市場豊島市場の東側を通って白山通りに出る。一路JR巣鴨駅に帰着する。この間、約900mである。今回の散歩は、以上で終了とする。 |
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あとがき 江戸の三大火事は、上記の「明暦の大火」(明暦3年1657 振袖火事)と「目黒・行人坂の大火」(明和9年1772 迷惑火事)および「文化の大火」または「丙寅(へいいん)の大火」(文化3年1806 芝・車町火事)である。 「目黒・行人坂の大火」については、落語編「目黒のさんま」において火元となった大園寺を訪ねているので、参照してください。 なお「明暦の大火」は、「ローマ大火」(64)、「ロンドン大火」(1666)と並んで世界三大火事のひとつに数えられている。 蛇足ながら、「八百屋お七の火事」は「天和の火事(1682)」といわれるもので、「振袖火事」とは別の火事である。落語編「くしゃみ講釈」を参照してください。 |