大江戸写真散歩
JR鶯谷駅から 地下鉄銀座線浅草駅まで
まえがき 今年(平成22年)は、7月6,7,8日が入谷鬼子母神の朝顔まつり(通称、朝顔市)であり、7月4日から10日までが、合羽橋(かっぱばし)本通りの「下町七夕まつり」が開かれている。また7月9,10日は浅草寺の四万六千日にあわせてほうずき市が開かれている。これらは下町の夏の風物を彩る行事である。ただし、朝顔市とほおずき市は日がずれているので、一日で3箇所の行事を見て回ることはできないことを、お断りしておく。 今回の散歩は、JR山手線の鶯谷駅を出発点として、朝顔市を巡って入谷の鬼子母神にお参りし、入谷の交差点から清洲橋通りを経て七夕飾りのはためく合羽橋本通りを通ってかっぱ橋道具街を抜け、浅草通りから仲見世通りを経て浅草寺にいたるコースを歩くこととする(実際には、二日間にわたって歩いたところである)。総行程は5km程と見込む。 |
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きりっと鉢巻を締め、満面に笑みを湛えて商談中のお姉さんたちに、朝顔の花も顔負けである。 鬼子母神(真源寺)はお線香の煙が立ち込め、大勢の善男善女で込み入っていた。 入谷交差点に建てられた「入谷朝顔まつり、下町七夕まつり」の門形アーチが、多くの人を呼び込んでいる。 |
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合羽橋本通りに入ると七夕の飾り付けが眺められ、通りの先に、建設中の東京スカイタワーが展望される。七夕の飾り付けは、国際通りまでの約800mにわたり施されている。 約300m来た左手に、通称「かっぱ寺」の曹源寺がある。伝承によると今から約200年前の文化年間(1804〜17)に、雨合羽商の合羽川太郎(合羽屋喜八)が私財を投じてこの地の治水工事を始めた。その難工事の様子を見た河童たちが夜な夜な現れては人知れず工事を進めたという。そして、その河童を見た人は、なぜかそれから運が開け商売が繁盛したという。 |
合羽橋本通り |
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当寺には河童大明神が祀られている。 河童の面のついた賽銭箱には、河童の好物であるキュウリが供えられていた。 |
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河童堂の左手に、合羽川太郎の墓と伝えられる石碑があり、「てつへんへ 手向けの水や川太郎」という句が刻まれている。 お寺の門を入ったすぐ右手に、「かっぱのぎーちゃん」なるものがあるが、これについての説明板はない。 合羽橋交差点近くにあった橋の名前も「合羽橋」となっており「河童橋」ではないことに注意。合羽橋交差点からも、東京スカイタワーがよく見える。合羽橋交差を右折して、かっぱ橋道具街を南下する。 |
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この商店街の生い立ちについては、「あとがき」で触れることとする。 現在は、言問通りから浅草通りまで、850mの両側に170程の店舗が軒を連ねて、厨房設備、料理飲食店用器具、装飾品、サンプル、のれんなどを売っている。 最近は、「提灯看板(ちょうちんかんばん)」とか「へっつい」などといっても通じないことがあるが、ここへくれば、それらが売られている。 ビールのサンプルは、「−500円引き」となっている。今年の夏は猛暑続きであったとはいえ、小首をかしげる次第である。 |
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この道具街を歩いていると、ひときわ大きな看板や広告が目を引く。 あまり奇抜すぎて、気付かずに通り過ぎてしまう人もいる。 |
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合羽橋交差点の南西角にミニパークがあり「かっぱ河太郎像」が金色に輝いている。この像は、道具街誕生90年を記念して建てられたという。 通りを西に入ったところに黒塀の目立つ松源禅寺と三十三間堂の矢場の先にあった矢先稲荷神社がある。三十三間堂は火災により深川に移ったという。 |
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矢先稲荷神社 |
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浅草通りに出て左に100mも行くと東本願寺の入口である 浅草通りを挟んで見えるガソリンスタンドの隣の本法寺には、「はなし塚」がある。ブロック塀には、昔懐かしい芸人の名前が刻まれている。昭和16年(1941)落語界では、演題を甲乙丙丁の四種に分類し、丁種には花柳界、酒、妾、廓に関する噺53種を選び、時局に合わない禁演落語として、ここに「はなし塚」を建てて封じ込めた。戦後の昭和21年(1946)、塚の前で禁演落語復活祭を行い、代わりに「仇討ちの噺」などを封じた。 |
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浅草通りに戻り、雷門から仲見世通りを通って宝蔵門(仁王門)をくぐり本堂にいたる。 本堂は、平成21年2月より同22年11月まで、平成の大営繕が行われている。工事現場は、本堂外陣天井の川端龍子画伯の「龍之図」 をモデルとした巨大な金龍を画いたメッシュシートで覆われている。 三代将軍徳川家光により建立された本堂、仁王門、五重塔などは、昭和20年(1945)3月10日、他の伽藍とともに被爆焼失したが、戦後復興が進められ、その後数十年を経た現在、それらの営繕が行われている。 |
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本堂向かって左手に、「迷子しるべ石」がある。「迷子しるべ石」の正面には「南無大慈悲観世音菩薩」と刻み、一方を「志らする方」、他方を「たづぬる方」とし、それぞれに要件を記した貼り紙をして情報交換をしたものである。また、作曲瀧廉太郎、作詞東くめの「鳩ポッポの歌碑」もある。 「四万六千日」というのは、7月10日に参拝すると、46,000日分(約126年分)の参拝に相当する功徳(利益)があるといわれるもので、浅草寺では享保年間(1716〜36)ごろより始まったという。この数については「米一升分の粒数が46,000粒にあたり、一升と一生をかけた」など諸説がある。なお、一番乗りを目指して前日の9日より人出が多くなったので、ついに両日が功徳日となったという。 この両日には「ほおずき市」がご縁日にちなんで開かれている。もとは、芝の愛宕(あたご)神社の縁日に始まった行事という。 |
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境内には所狭しと、ほおずきや軒忍ぶを売る店がびっしり立って大変な賑わいを呈している。イナセな姿のお姉ちゃんが、片手でほおずきの鉢を高く掲げて客を呼び込む風景や粋な姉さんが軒忍ぶをあきなう風景は、まさに夏の風物詩である。 浅草神社の神明鳥居の前から、新装なった二天門の外に出る。このあたりでも、津軽三味線の路上演奏などが行われていて、大変にぎわっている。 |
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現在の二天門は、その形式と技法より慶安2年(1649)頃に建立されたものといわれている。関東大震災や戦災を免れてきた。 創建以来、補修・改築が加えられていたが、平成22年(2010)の解体大修理にあたって創建当初の形式に戻されたという。 「二天門」の扁額は最後の太政大臣、三条実美(さんじょうさねとみ1837〜91)の筆という。 弁天山に行く途中、宝蔵門の東側に旧五重塔跡の石碑が建っている。ここは、慶安元年(1648)三代将軍徳川家光により再建された旧国宝の五重塔(木造・高さ33m)が建立されていた場所で、現在の五重塔とは反対側に位置していた。 本堂東南の弁天山にお祀(まつ)りする弁天さまは、白髪のため「老女弁財天」と呼ばれている。 お堂に向って右手前の鐘楼の鐘は、元禄5年(1692)に改鋳されたもので、江戸時代の「時の鐘」の一つである。松尾芭蕉(1644〜94)の句「花の雲 鐘は上野か 浅草か」で有名な鐘である。 |
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今回の散歩もこれでおしまいとし、東京スカイタワーが見える伝法院通りから、東武伊勢崎線と地下鉄銀座線の浅草駅へと向かう。 |
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あとがき 「合羽橋」の名前の由来については、小身の侍や足軽が内職で作った雨合羽を橋にずらりと干していたという「合羽」説と、前述の「かっぱ寺」の伝承による「河童」説がある。 交差点は「合羽橋」となっているが、通りや商店街の名前には「かっぱ」や「合羽」が使われている。 「かっぱ橋道具街」は、明治の終わり頃に古道具屋が店を出し始め、関東大震災後には菓子道具を扱う店もでき、以後徐々にこれが発展拡大し今日の日本一の道具街を形成するにいたっている。 なお、本法寺ならびに「はなし塚」に関しては、本ホームページの落語編「もと犬」の項をご参照下さい。 |