大江戸写真散歩
護国寺から 池袋まで
まえがき 以前に、徳川将軍に深いかかわりのある女性に関係した「伝通院コース」と「麟祥院コース」をたずねて歩いた。前者は、徳川家康の生母於大、二代将軍秀忠の長女千姫、三代将軍家光の正室孝子などの墓がある伝通院を巡るコースであり、後者は、三代将軍家光の乳母春日局の墓のある麟祥院を巡るコースであった。 今回は、五代将軍綱吉の生母桂昌院に関係のある護国寺を振り出しに、雑司が谷霊園、法妙寺、鬼子母神堂などを巡って歩くこととする。 これをもって、徳川家にかかわりの深かった女性に関連した旧跡巡りの三部作とする。 護国寺は、桂昌院の発願により、天和元年(1681)に創建せられた。初めは桂昌院の祈願寺であったが、後には将軍家の祈願所となり、寺領も1,200石の大寺となった。 桂昌院は、継嗣が授かるようにとの一念で護国寺に30数回も参詣したという。将軍綱吉もまた、多くの場合これに同道したという。 今回の出発点は、東京メトロ有楽町線の護国寺駅2番出口とする。 |
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有楽町線護国寺駅の2番出口を地上に出ると、目の前に護国寺の仁王門が見える。仁王門の前を、音羽通りが江戸城に向かって真っ直ぐに延びている。桂昌院と将軍綱吉の行列が幾度となく往来した道である。 | 音羽通り |
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この仁王門は、八脚門、切妻造、朱塗で、建造時期は元禄10年(1697)造営の観音堂(現本堂)よりやや時代が下がるという。正面両脇に金剛力士が安置されている。 仁王門に向かって右手に、本坊への通用門である惣門がある。この門は、江戸中期の5万石以上の大名の格式と威容を持っている。 惣門の右手に、豊島岡御陵(皇室の墓地)の門がある。 |
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仁王門の右手奥に本坊があリ、参道の右側に、音羽富士へ登る富士道がある。 参道の両側に、桂昌院寄進の手洗水盤がある。元禄10年(1697)頃の鋳造という。 |
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石段の中程に、昭和13年(1938)建立の不老門があり、その先に本堂が見える。 不老門の左手奥に、不昧庵、圓成庵等の、茶室群が並んでいる。実業家であり茶人であった高橋義夫(1861-1937)との関係によるものという。 |
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本堂の右手奥には、明治の元勲、山県有朋、大隈重信、三条実美等のお墓がある。 |
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本堂の左手奥に薬師堂がある。元禄4年(1691)建立の一切経堂をここに移したもので、本尊の薬師如来像は、当寺草創のとき、当地の蟹ケ池より出現した霊像という。 本堂の右手奥にある素朴で荘重な造りの大師堂は、元禄14年(1701)に再営され、大正15年(1926)以降に大修理されたものである。石畳の左脇に針塚、筆塚がある。 |
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護国寺を出て高速道路池袋線の下をくぐり不忍通りに架かる歩道橋を渡る。雑司が谷(1)32のマンションの前に菊池寛旧宅跡の説明板がある。菊池寛は昭和12年に当地に転宅し晩年をここに暮らした。 雑司が谷(1)25の旧宣教師館は、明治40年(1907)にアメリカ人宣教師が自邸として建てたもので、都内でも数少ない明治期の宣教師館の一つである。 |
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鬼あざみ清吉は、文化2年(1805)31歳を最期として小塚刑場で打ち首獄門になった実在の盗賊である。 江戸家猫八の墓は、初代猫八(1868-1932)のものである。現在の猫八は4代目である。 |
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ジョン万次郎(1827-98)は、15歳のとき漁に出て遭難し無人島に漂着後アメリカの捕鯨船に救助されアメリカに渡る。 25歳のとき帰国し、通訳、講演、翻訳のほか英語、数学、測量、航海術、造船技術の指導などもっぱら教育に尽力し、明治になって開成学校(現東京大学)の教授も勤めた。 安藤鶴夫は落語・歌舞伎評論家である。 この霊園の辺りには、享保4年(1719)以降、幕府の御鷹部屋があった。鷹匠頭をはじめ目付け、同心など常時7,80名がいて、鷹狩りに用いる鷹の育成や訓練などを行っていた。 |
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霊園管理所の前の道を南に出て、急坂を下った右角に「祈雨日蓮大菩薩」の碑が建つ宝城寺がある。その左角には「南無高祖日蓮大菩薩」の碑と「かさもり 薬王菩薩安置」の碑が建つ清立院がある。正面左手に「雨乞いの松」が立っていて、説明板には「正嘉年間(1259)雨乞いに霊験ありとて、干魃(かんばつ)の年は農民この所に集まりて雨乞いす」と記されている。 |
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霊園を出て都電荒川線を渡り西北に300mほど進むと、法妙寺にいたる。ここの梵鐘は享保17年(1732)に再鋳されたものであるが、鐘の下縁に、曲尺、枡、天秤、算盤等の生活用具が陽鋳されている珍しいものである。 墓地には、明治時代の落語の名人四代橘家圓喬(1865-1912)や建武の中興(1334)に大功のあった楠正成の息女の墓がある。別名「姫塚」とも呼ばれている。 |
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法妙寺の正門の前の道を300mほど南に行くと、鬼子母神の裏門にいたる。本殿は寛文4年(1664)、拝殿と幣殿は元禄13年(1700)の造営という。 境内のイチョウの樹は、応永年間(1394-1428)に植えられたと伝えられ、樹高30m、幹周8mの雄株で、都内では麻布善福寺のイチョウに次ぐ巨樹である。 |
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境内に、武芳稲荷の鳥居と幟が多数賑やかに立ち並んでいる。 鬼子母神堂の裏手に、妙見様が祀られている。 ここから裏門を出て左折すると、50mほどで明治通りに出る。JR池袋駅までは、約700mである。 表門から目白通りに出てJR目白駅に出るコースもあるが、歩く距離が少し長いようである。というわけでJR池袋駅に出て、今回の散歩の終点とする。 |
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あとがき 桂昌院については、「神田川コースその4」の「柳森神社」の欄で「狸=他抜き」の話とし触れておいたので、参照されたい。 なお、桂昌院は京都の八百屋の娘であった。寛永16年(1639)16歳のとき江戸城を訪れる機会があり、町娘の闊達さが三代将軍家光の目に留まり、将軍の心を奪う。春日局の部屋子となって於玉と改名し、すぐに中臈(ちゅうろう)となる。僅か2年で長子亀松、次男徳松を生む。家光の正室孝子には継嗣がいなかったので、お楽の方が生んだ子が四代将軍家継となるが跡継ぎがないまま没す。そのとき、将軍継承者としては徳松一人だけが生き残っており、延宝8年(1680)五代将軍綱吉として就任することになる。そのとき桂昌院は57歳で、まさに31年間の辛抱であった。しかし綱吉もまた継嗣に恵まれなかったので、桂昌院はあせって護国寺を建立し、跡継ぎの誕生を祈願したのであった。 |