大江戸写真散歩

春日駅から  茗荷谷駅まで

まえがき

 今回の散歩は、地下鉄三田線春日駅より伝通院をめざして出発し、途中、由緒のある寺院旧跡を巡って最後は丸の内線の茗荷谷駅に到着するコースを歩く。

 総行程は、寄り道の分を見込んで、約5kmである。

 春日駅は、A5出口に出る。白山通りを北に100mほど行き、最初の信号を左折する。そこからまた100mほど行った突き当りが、「こんにゃくえんま」の源覚寺である。
地図

地図および写真は、
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 江戸時代後期、閻魔さまが自分の右目を眼病の老婆に与えて治した。それに感謝して、老婆が自分の好物こんにゃくをお礼に供え続けたという。今日でも眼病治癒の「こんにゃく閻魔」としての庶民信仰があり、本殿にはたくさんのこんにゃくが供えられている。

 閻魔坐像は、高さ100.4cmの桧材の寄木造りで彩色を施し玉眼が嵌入してあるが、右目黄色濁っているという。

 本堂右手には、地蔵尊の患部に塩を塗って平癒を祷り、完治の折には塩の量を倍にしてお礼参りをする「塩地蔵尊」が祀られている。
こんにゃく閻魔
源覚寺
こんにゃく閻魔
塩地蔵尊
 源覚寺を出て左200m先の信号を左折すると、善光寺坂が見える。緩やかな坂の途中右手に、善光寺がある。伝通院塔頭縁受院と称したが、明治になって信州善光寺別院となって善光寺と改称したという。

 坂を上っていくと、狛犬と3個の小さい社が配置されている広場がある。この先の慈眼院に問い合わせたところ、『江戸後期の名所図絵・傳通院境内図ではあの場所に「八幡宮」の社が有ったようです。明治以後は慈眼院の建物が有りましたが老朽化で取り壊しました。今後は境内地として整備予定です。』とのことであった。
善光寺
善光寺坂
広場
 なおも坂を上っていくと右手石垣の上に、澤蔵司(たくぞうす)稲荷慈眼院がある。

 千代田城内稲荷大明神が浄土宗の奥義極めるために、澤蔵司という修行僧になって伝通院の栴檀林(せんだんりん、学寮)にいた。3年目的達し、元の神にかえっていったという。そこで、伝通院の住職が澤蔵司稲荷を境内に祀り、慈眼院別当寺とした、という。

 境内には、江戸時代の旧社殿を示す標石が建っている。
澤蔵司稲荷

澤蔵司稲荷
慈眼院
旧社殿跡
 また、本殿右手に霊窟おあな)の標石があり、石段を降りていくと朱塗りの鳥居が並んでいて、こんもりと木々に囲まれた(ほこら)がある。祈念している人の邪魔にならぬように、遠くから撮影して引き返す。

 石段を戻って裏門から善光寺坂に出る手前に、芭蕉句碑が建立されている。 この辺りの小石川や礫川(れきせん、こいしかわ)の地名に因む句であるという。
「一しぐれ 礫(つぶて)や降りて 小石川」
おあな
霊窟祠
芭蕉句碑
 善光寺坂に出るとすぐ右手が、坂上である。道路の真ん中に、巨木がある。これは(ムク)の樹で、澤蔵司の宿るといわれる神木である。江戸時代には、この木の周りに茶屋などもあり憩いの場にもなっていたが、明治20年頃の道路拡張工事で現在のように道路真ん中に出てしまった。昭和20年5月の空襲で上部が焼け、昭和30年代に2/3ほどの幹が伐採され今日に至っている。

 この神木のすぐ横が、幸田露伴幸田文旧居跡で、今日でも子孫が住まっている。
ムクの神木
幸田露伴旧居跡
 坂上から150mくらいで、伝通院の入口にいたる。ここから本堂にかけては、見事な桜並木になっている。境内に隣接して淑徳女学校がある。

 
伝通院は、応永22年(1415)小石川極楽水(湧水井の名)の小さな草庵で無量山寿経寺として開創され、慶長7年(1602)徳川家康生母於大の方が亡くなると、この寺が菩提寺と定められた。於大の方の法名傳通院殿」から「伝通院」と呼ばれるようになった。以来、徳川家の庇護のもと大伽藍が整えられ、また。学僧修行勉学の場となり、明治以後には淑徳女学校が設立された。
伝通院
本堂
本堂扁額
 門を入ってすぐ左手に仏足石(蹟)があり、その奥に法蔵地蔵尊三尊がある。中央のご本尊が法蔵地蔵尊、脇待は、向って右が観世音菩薩、左が勢至菩薩である。
仏足石(左下)
仏足石
法蔵地蔵尊
 墓地には、徳川ゆかりの人々の墓石が並んでいる。そのうちの三基を取り上げてみる。

 於大(1528〜1602)は、三河刈屋城主水野忠政の娘で、岡崎城主松平広忠に嫁して家康を生む。後に離婚して阿古屋城主久松俊勝に再婚するも、織田方や今川方を人質として転々とするわが子家康に、慰めの音信を絶やさなかったという。法名は「伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼」である。

 千姫(1597〜1666)は、二代将軍秀忠の長女で、7歳にして豊臣秀頼に嫁し、大坂落城後、本多忠刻(ただとき)と再婚するも死別とともに落飾して天樹院と号す。

 孝子(1602〜1674))は、前関白鷹司信房の娘で、三代将軍家光の正室となるが、京の公家出身で武家の生活になじめず、中の丸を造営して生涯一人暮らしをした(させられた)という。
於大の墓
千姫の墓
孝子の墓
 伝通院の入口を出てすぐ右手に、処靜院(しょじょういん)跡の説明板と「不許葷酒入門内」の石柱が立っている。処靜院は、文久3年(1863)幕末の治安維持を目的に、山岡鉄舟以下250名が「浪士隊」の結成大会を行ったところである。

 道の向かい側に、福聚院がある。ここの大黒天は、数少ない古式武装神スタイルを整えた、鎌倉時代の木像である。
処靜院跡
福聚院
福聚院
 さて、伝通院から春日通りに出て茗荷谷駅の方向に400mほど進み、「春日2丁目」の信号を左折して今井坂のほうに150mほど下ると、目下建設中国際仏教学大学院大学の工事現場に出る。
敷地面積7,030u、建築面積1,749u、延べ面積5,613u 、地上3階、地下1階である。ここが「徳川慶喜終焉の地」である。見るべきものは、特に何もない。

 この先の小日向の信号を右折し、緩やかな上り坂を250mほど行くと地下鉄丸の内線(この辺りは地上を走っている)をくぐるガードに出る。この右側の坂が庚申坂で、左の坂がキリシタン坂である。
徳川慶喜終焉の地
庚申坂
キリシタン坂
 キリシタン坂を上りきって突き当たりを右に少し行くと、右手角(小日向1-24-8)に切支丹屋敷跡の碑がある。左の小さい古い石は「八兵衛の夜泣き石」という。

 この先に蛙坂がある。先の慈眼院の蛙は、学僧たちの勉学の邪魔になるからと鳴かなかったというが、ここの蛙は、さぞやかましく鳴いていたことだろう。

 坂を下ると、宗四郎稲荷神社がある。ここから地下鉄丸の内線のガードをくぐると、藤寺がある。
切支丹屋敷跡
蛙坂
宗四郎稲荷神社
 藤寺といわれている伝明寺藤棚も立派であるが、八重の桜もお見事である。

 今来た道を戻って拓殖大学の方にいくと深光寺がある。ここには滝沢馬琴がある。またその後ろには、路女(みちじょ)のがある。路女は馬琴の長男の嫁で、馬琴が晩年失明してからは、彼女に文字を教えながら口述筆記により「南総里見八犬伝」を完成させたという。
伝明寺(藤寺)
深光寺
滝沢馬琴墓
路女墓
 深光寺を出てまた少し行くと林泉寺がある。いずれのお寺も道路からは一段と高いところにある。道路沿いは、いわゆる茗荷谷である。

 林泉寺には、縛られ地蔵が祀られている。願をかけるときにはこの地蔵尊を縄でぐるぐる巻きに縛り、願いが叶うと縄を解きに来るという。お地蔵さんも、縛られていたのでは苦しいので、早く願いを叶えてくれるのかもしれない。塩地蔵といい、こんにゃく閻魔といい、昔の人はいろいろなことを考えたものだ。

 以上で、今回散歩完結した。もう200mほどで地下鉄丸の内線の茗荷谷駅である。
林泉寺
縛られ地蔵
あとがき
 伝通院は、家康生母於大の方菩提寺となってからは幕府手厚い保護のもとに繁栄を極め、壮大な伽藍が聳え立つ大寺院となった。寺の名も、於大の法名から「傳通院」と呼ぶようになった。、幾たびか火災に見舞われているが、そのつど再建、復興し、最盛期には1,000人もの学僧を有する壇林(学問所)でもあった。今日歩いてきた、善光寺、澤蔵司稲荷、福聚院などは伝通院の寺域内にあった塔頭などである。

 明治政府になってからは特別な庇護なくなり寺域分散し、加えて今次の戦災により寺の情景寂しいものになったという。また、墓域には一般人のお墓も建てることができるようになった。これらは、寛永寺増上寺ともに同じような運命をたどってきた。徳川から明治への変革一断面を見る思いである。

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