大江戸写真散歩
千駄木から 根津へ
須藤公園は、加賀支藩の大聖寺藩の屋敷であった。明治22年(1889)実業家須藤藤吉左衛門の所有となり、昭和8年(1933)に東京市に寄付された。 園内には回遊式の池や須藤の滝がしつらえてある。 滝の横の石の形が見事な歌碑は、昭和10年に町内の青年団が建てたものという。入江為守(大正天皇の侍従長、歌人)の 「かしこくも 親王(みこ)あれませり 九重の御園の松に 月の昇る頃」が彫られている。 |
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歌碑 |
須藤公園の崖上の道を西に100mほど行くと広い通りに出る。右折して北に少し行くと、老人ホーム「文京千駄木の郷」の先に安田邸跡がある。 大正7年(1918)普請道楽で知られた藤田好三郎(豊島園創設者)の邸宅跡である。大正12年(1923)安田財閥創始者安田善次郎の娘婿善四郎が購入し、その長男楠雄が住んでいたところである。和風建築の書院造や数寄屋造を継承しながらも、応接間などの和洋折衷を取り入れた建築様式が残されている。 安田邸の先50mほど行った左手に、宮本百合子が昭和26年(1951)亡くなるまで住んでいた実家の跡がある。説明板の横手に、当時の門柱の一部が残してある。 |
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ゆかりの地 |
この屋敷町のなかに、真黄色に塗られた建物がぽつんと回りの景観と不釣合いに建っている。このような目障りな建造物が二箇所で目に付いた。 また、道路に向かって「禁葷酒」の石柱が目に付いた。何のいわれがあるかは知らないが、怪訝(けげん)である。禅寺のものは「不許葷酒入山門」というのであるから、云わんとするところはおおよそ分かる。しかし、「禁葷酒」だけでは、訴える内容が強すぎる。 |
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「宮本百合子ゆかりの地」からなお100mほど来た左手に、「高村光太郎旧居跡」の説明板がある。明治45年(1912)自ら設計した木造の外観は黒塗りの風変わりなアトリエを完成した。昭和20年(1945)戦災で焼失するまで、ここで数多くの彫刻、詩などが生まれた。 思い出せば、「その1」で歩いた谷中の朝倉文夫彫塑館も真っ黒に塗られていて、不気味な建物であった。 今来た道を戻って「宮本百合子ゆかりの地」の説明板の前のL字型の細い路地を入り、左に曲がった地点が、高村光雲が昭和9年(1934)亡くなるまで42年間住んでいた所である。長男光太郎も住んでいた所である。遺宅は三男の豊周(とよちか鋳金家)が継いだ。 |
高村光太郎旧居跡
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もと来た広い道を300mほど戻り、団子坂上の四つ辻に出る。ここまでの道路は電線や通信ケーブルが目に見えないところに敷設してあり、空が広く見えて、美しい町並みを形成している。 四つ辻の西南角が森鴎外の「観潮楼跡」(文京区本郷図書館分室鴎外記念室)であるが、日曜日以外は閉館になっている。 鴎外は、大正11年(1922)60歳で没するまでの30年間をここに暮らし、文芸活動の場とした。門や玄関の礎石は当時のままで、庭には、幸田露伴、斉藤緑雨と三人で腰掛けて雑誌『めさまし草』の新作の合評をおこなったという「三人冗語の石」がある。樋口一葉の「たけくらべ」は、この場で絶賛されたという。 |
よい町並み |
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観潮楼の前の歩道に、鴎外の初期の代表作「舞姫」にちなんで「舞」と題する彫刻(一色邦彦制作)が設置されている。この道を「藪下通り」といい、東京湾の海が眺められたという。観潮楼の名も、ここに由来する。 汐見小学校の裏辺りを汐見坂という。お屋敷が続いている。その先を右に入ったところに「ふれあいの杜」があるが、鬱蒼として足を踏み入れ難い雰囲気である。都心には珍しい空間である。 この杜の入口の脇に「お化けだんだん」が、また少し先の日本医科大学の横に「かいぼう坂」という階段坂がある。解剖実習室が坂の横にあるとか。とかく小学校の近辺には、階段(怪談)話が多いようである。 |
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お化けだんだん |
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観潮楼から藪下通りを約600m来ると、根津神社の裏門坂(日医大つつじ通り)に出る。 根津神社は「根津権現」ともいう。権現の称は、明治初期の神仏分離の際に使用が禁止されたが、今でも「権現様」と呼ぶ慣わしが残っている。 神社やお寺へお参りするのに、裏門や横門から入ったのでは願い事が叶えられない、と聞かされたので、まずは表門に迂回する。 |
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大鳥居はすでに漆塗り補修が済んでいて、きれいに光っていた。 この地は、5代将軍綱吉の兄綱重(甲府中納言)の屋敷があったところで、長男綱豊(6代将軍家宣)が生まれた地である。 宝永3年(1706)綱吉は、家宣の産土神(うぶすなのかみ)として、現在の地に権現造りの社殿を造営した。 |
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唐門、神橋、鳥居は、漆塗りの修復作業が終わっていて、その美しい色合いが、写真から窺い知れる。 楼門、拝殿、本殿などは修復作業が進められている最中である。 権現造りの完成形として、本殿、拝殿、幣殿、唐門、楼門が国の重要文化財に指定されている。 境内はつつじの名所でもある。 |
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透かし塀
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境内にある乙女稲荷には、本殿に通じる参道が3本ある。また千本鳥居も並んでいる。 参道の途中に、十数個の割り石を雑然と積み重ねた6代将軍家宣の胞衣(えな)塚がある。 蛇足ながら、徳川家康の胞衣塚は大変立派なもので、愛知県の岡崎にある。 |
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乙女稲荷の北側に、駒込稲荷がある。駒込稲荷は、徳川綱重の邸内社であったものという。 駒込稲荷の北側に、6基の庚申塔がある。道の辻などに建てられたものが、明治以降、道路拡幅などのため、ここに納められたものという。 庚申塔の奥に塞(さえ、さい)の大神(おおかみ)碑が青いシートに包まれてある。これは、東大農学部前の旧中仙道と旧岩槻街道との追分(分疑点)にあった物で、邪霊の侵入を防ぐ神であり、道行く人を災難から守る道祖神でもある。 |
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表の鳥居を出ると、すぐ右手の坂が「権現坂」である。根津から本郷通り方面に通じる比較的新しく(幕末に)造られた坂なので「新坂」ともいう。また、森鴎外の小説「青年」のなかでS字状の坂と表現されていたので、若い者は好んで「S坂」と呼んでいた。 表鳥居を出た斜め左前の染物屋の側壁に、「根津遊郭の跡地」の説明板がある。江戸時代に門前町にできた遊郭は、明治20年(1887)にいたり、東大、一高が本郷向岡に開設されるにおよび、風紀上の問題により、州崎に移転させられた、とある。 なお、一高寮歌「--栄華の巷低く見て 向ヶ岡にそそりたつ 五寮の健児意気高し」の、「栄華の巷」は「根津遊郭」のことである。 |
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根津神社から根津小学校の裏手の階段を上る。この階段を、「お化け階段」という。以前は、昇りと降りが別の階段であったというが、今は一本になっている。よく見ると、階段の石の色が異なっているのが分かる。 お化け階段を昇りきって左に折れると「異人坂」が目の前に現れてくる。ここからこの急坂を下る。東大に関係する外国人の通行が多かったのだろう。 坂を下りたところで右折すると、言問通りに出る。 |
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言問通りに出ると、そこは弥生坂の中腹である。坂の上の右手が東京大学の農学部(旧一高跡)、左手が工学部である。 坂の下が、言問通りと不忍通りとの根津交差点である。 丁度ここが、地下鉄千代田線の根津駅である。 今回の散歩はここを終点とし、解散する。 以上をもって、「谷根千コース」全4巻の終結とする。 |
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あとがき 「谷根千」という語句を使ってきたが、これは谷中、根津、千駄木の頭文字をつなげたものである。谷根千工房が発行してきた地域情報誌「谷中、根津、千駄木」の略称としても、有名である。ただし、最近は購読数が減少し、2009年の夏をもって四半世紀も続いた出版を終了するという。 さて、この「谷根千コース」は、当初「その3」までで纏める予定であったが、「その4」まで続く長編物となってしまった。その理由は、実際に歩いて見ると、3っの地域が全くといっていいほど異なった町の景観と趣を残していたからである。大雑把に仕分けしてみると、「その1」と「その2」が谷中の寺町、「その3」が3っの町を含んだ下町、「その4」の前半、須藤公園から根津神社裏門坂までが千駄木のお屋敷町、後半、根津神社から根津交差点までが門前町といったところうである。 ざっとこんな点を感知しながら楽しく歩いていただければ、ホームページ冥利に尽きる次第である。 |