大江戸写真散歩
千駄木から 根津へ
まえがき 先回は、三崎坂の中途にある大円寺を拝観したところで一段落とし、地下鉄千代田線の千駄木駅で解散とした。今回は大円寺の角を出発点として、寺の東側の道を北に(左に)入って、先回の続きを歩くこととする。 このコースは江戸時代の話は少なく、明治以降の旧跡がほとんどである。 歩く距離は、おおよそ2km強である。 |
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谷中霊園から観音寺の築地塀に沿って進んだ先に蛍坂がある。この坂下の宗林寺付近は蛍沢といわれ、蛍の名所であった。そこからこの坂の名が付いたという。 坂を下ったところが、岡倉天心記念公園のすこし手前である。 |
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明治31年(1898)岡倉天心が中心となって日本美術院がこの地に創設され、従来の日本画の流派に反対し、洋画の手法を取り入れて、近代日本画に清新の気を与えた。明治39年(1906)に茨城県五浦(いずら)に移るまで、ここが活動の拠点となった。 公園内の六角堂は昭和41年(1966)に建てられ、堂内には平櫛田中作の金色の天心坐像が安置されている。六角堂は、天心自らが設計したといわれている五浦の六角堂を模したものという。 |
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岡倉天心記念公園の入口の標識は背が低いので、見落としがちである。 公園入口の左手に「岡倉天心先生旧宅跡、日本美術院発祥之地」の碑がある。 また、天心の歌碑がある。そこには、 『谷中鶯 初音の血に染む紅梅花 堂々男子は死んでもよい 奇骨侠骨 開落栄枯は何のその 堂々男子は死んでもよい』 と、横山大観の書と画で彫られている。 |
公園 |
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天心公園を出てすぐ左手に宗林寺がある。昔は、寺の前を藍染川が流れており、たくさんの萩が生えていて、萩の名所であった。それ故に萩寺ともいわれていた。 また、陶芸家の尾形乾山(1663〜1743)が京都御所から戴いてきた蛍をこの辺りに放ったという。江戸の蛍よりも大きく、ひときは明るく光ったという。前述ように蛍の名所で、一名、蛍寺ともいわれていた。 |
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宗林寺の先右手に、七面(しちめん)坂がある。坂の名は、坂の上にある、延命院の七面堂に由来する。 七面堂は、甲斐の国身延山久遠寺の西方、七面山から勧請した日蓮宗の守護神七面天女を祀る堂である。 七面坂と平行して夕焼けだんだんが通っている。 八百屋お七の名前が、この七面堂にちなんでいることや、「夕焼けだんだん」という坂の名は、平成2年に公募して付けられた愛称であることは、先々回の「谷根千コースその1」で触れたところである。 |
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夕焼けだんだんの先が、谷中銀座に続いていく。戦前は、「安八百屋通り」といわれて、今の通りより100mほど北側にあったという。空襲で一旦は消滅したが、終戦後今の場所に再建して、今日の谷中銀座の大繁栄を見るにいたっている。各店の看板が独創的に統一されていて奇抜である。 谷中銀座を200m弱進むと、よみせ通りに突き当たる。そこを左折して約350m進むと三崎坂の通りに出る。 |
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三崎坂の通りを横切ると、そこから先は道がくねくねと曲がっている。道の名前も「へび通り」となっている。へび通りは谷中と千駄木の町境であると同時に、台東区と文京区の区境でもある。ここは藍染川の流れていた跡である。 へび通りを約350m来ると、道が大きく左に曲がり、以降は直線の道になる。染物屋が目に付いた。 |
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直線道路に入って約400mで「言問通り」に出る。この間には狭い路地が何本も平行に通っており、瀟洒な下町風景を見ながら歩くことになる。骨董品の店や気の利いた居酒屋などが点在する。 言問通りを越えて少し行くと、三階建ての木造建築が見える。大正時代の建物で、関東大震災や戦災を潜り抜けて現存している。表側は不忍通りに面しているが、道路の幅員拡張のために建物の一部が削り取られ、そのあとを矢来構造で補強している姿は、見るも痛ましい。 |
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(裏通り側) |
あとがき 今回の散歩の中で、後半に歩いた「よみせ通り」から「へび通り」の辺りは江戸時代は日比谷入江に続いていて、潮が引くと一条の川ができて不忍池に流れ込んでいたという。従って、この辺りでは蜆(しじみ)がよく採れ、蜆川ともいわれていたという。 明治期に入って埋立てが進むにつれて藍染川となり、大正期に入って暗渠化が図られた。今回歩いた道筋はこの上を歩いたことになる。 今回は、先回を引継いだ形で歩いたので、「その2」と「その3」は一つに纏めてみてもらった方がまとまりがよい。歩いた距離は、約2kmである。これで「谷根千コース」の「谷中」部分を歩き終えたことになる。次回は、「根津」「千駄木」を一括して歩いて「谷根千コース」の完結とする予定である。 |