大江戸写真散歩
鶯谷から 千駄木へ
まえがき 先回はJRの西日暮里駅を出発点として荒川区西日暮里の4丁目と3丁目を歩き、台東区に入って谷中7丁目すなわち谷中霊園を縦断する形で歩いた。 今回は「その2」として、JR鶯谷駅から言問通りを南西に進んで、裏門から寛永寺に入り、そこから4万8千体のお地蔵さんが並んでいる淨名院をたずね、つづいて谷中1,2丁目と6,4丁目の境を三崎(さんさき)坂に向かって歩くこととする。 このコースには、寛永寺、淨名院、全生庵など、見所の多い寺院がある。落語フアンのあいだでは、全生庵は初代三遊亭圓朝とその師である山岡鉄舟の墓があることで、よく知られている寺である。 |
JR鶯谷駅の北口(日暮里駅側)を出ると、飲食店街の屋上に建てられてた立派なお社が、頭上に覆いかぶさるように見える。「厄除祈願承ります 元三島神社」と広告が出ている。 言問通りに出て、寛永寺橋を渡って約300m来ると左手に寛永寺の裏門がある。 |
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境内にある虫塚は、増山雪斉(ますやませつさい)の遺志により、写生に使った虫類の霊を慰めるため、文政4年(1821)に建てられたものである。 了翁禅師は隠元禅師に師事した僧で、錦袋円という薬で巨万の富を得、それを被災民の救済や経典の購入に投じ、教育に尽力した僧である。 「乾山深省蹟」は、酒井抱一が文政6年(1823)に建てた尾形乾山(けんざん)の顕彰碑で、深省(しんせい)は乾山の別号である。 |
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乾山深省蹟、墓碑 |
慈海大僧正は、東叡山の学頭を勤めた高僧である。 境内には、寛永寺ゆかりの人たちの石塔が多い。 鐘楼の鐘は、明治維新以降に移設されたものだという。 |
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裏門から入って表門に抜けてきたが、表門側の構造物が補修されて、以前と比べると新しくきれいになっているように思われた。 |
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寛永寺の門を出て右に100mも行くと、言問通りに出る。通りの向こう側が、4万8千体の地蔵さんで有名な淨名院である。 ここの門は享保年間(1716〜35)の建立である。比丘尼妙運和尚が明治12年(1879)に石造地蔵菩薩1,000体の建立満願を迎え、引き続いて4万8千体建立の大誓願に進んだものだという。 |
淨名院山門 |
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その数は現在も増え続け、境内全域に広く配置されている。 境内にある青銅の地蔵菩薩坐像は、以前深川永代寺にあった江戸六地蔵第6番の地蔵像が治維新のとき壊されて寺も廃寺になったため、明治39年(1906)に再造されたものだという。 |
地蔵尊群
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浄明院を出て言問通りを300mほど来た四つ角に、下町風俗資料館付属展示場があり、明治43年(1910)に建築した吉田酒店の店舗が展示してある。ここの店舗で実際に使われていた諸道具や帳簿なども、展示されている。 |
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展示場の角を北に曲がって100m弱行った左手に、大雄寺がある。ここには、山岡鉄舟の義兄に当たる高橋泥舟の墓がある。泥舟は幕臣で剣術の名人として世に賞賛されていた。鳥羽伏見に戦いのあとは、将軍に恭順を説き、将軍が水戸に転居のときは遊撃隊を率いて警護にあたった。廃藩置県後は要職を退き、隠棲して書を楽しんだ。勝海舟、山岡鉄舟とともに幕末の三舟といわれた人である。 |
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大雄寺を出て言問通りに戻り、150mほど行ったところで、一乗寺の先の細い道を北に入る。ここから先は道が分かりにくいので、正式の地図を頼りに歩を進めてもらいたい。 大名時計博物館は寂れた佇(ただずまい)をしている。勝山藩下屋敷跡の標石が建っていた。 そこから、谷中2丁目と4丁目の境の道を350mほど歩いて三崎(さんさき)坂に出る。三崎の由来は、駒込、田端、谷中の三つの高台にちなむとされている。 |
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坂を100mほど上って行くと左側に「全生」の大きな標石が見える。全生庵は、明治16年(1883)幕臣であった山岡鉄舟が、明治維新戦争で国事に殉じた人たちの菩提を弔うために創建した寺である。 門を入ってすぐ右手に、山岡鉄舟と初代三遊亭圓朝の顕彰碑がある。 |
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圓朝の墓は鉄舟の墓のすぐ近くに建っており、鉄舟が「おい」と呼べば、「ハイ」と応えられる位置と距離にある。墓石の「三遊亭圓朝無舌居士」は、山岡鉄舟の筆になる。 圓朝および両者にまつわる逸話は「あとがき」で触れることとする。 「春よ来い」「叱られて」などの作曲で知られる弘田龍太郎の墓所もある。 |
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全生庵を出て、今来た坂を150mほど下っていくと右手に大円寺がある。境内に入ると、道がYの字形に分かれて二つの社殿に通じている。 左が日蓮聖人像を祀った経王殿で、右が瘡守稲荷を祀った薬王殿となっている。しかしこれら二つの社は一つ屋根の下に鎮座ましますのである。遠目に見ると、その様子がよく分かる。 |
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境内に、永井荷風撰の「笠森阿仙の碑」と笹川臨風撰の「錦絵開祖鈴木春信」碑が建てられている。題字は、いずれも東京美術学校校長正木直彦の手になるものである。 お仙は、前回の「その1」に書いたように、功徳林寺の笠森稲荷に店を出していた茶屋「鍵屋」の看板娘である。これらの碑を建てるならば、功徳林寺のほうだ、と単純に思えるのだが、如何なものだろう。 |
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あとがき 初代三遊亭圓朝(1839〜1900)は、稀代の噺家であると同時に、人情話の「芝浜」「文七元結」、怪談の「牡丹燈籠」「四谷怪談」「真景累ケ淵」「怪談乳房榎」などを創作し、また海外文学や戯曲からは「死神」「錦の舞衣」などを翻案している。本業以外にも、茶道、香道、和歌、俳句、川柳、書道、骨董の目利きなどにも秀でており、建築、作庭にも優れていたという。また、高橋泥舟の紹介で山岡鉄舟の門に入り禅を学んだという。これにはいろいろのエピソードがあるが、その一つに、「舌を使わずに噺をせよ」との禅問にたいし大悟を開いたので「無舌居士」の法名が与えられたという。 毎年、初代圓朝の命日(8月11日)の前の日曜日に、落語フアン待望の「圓朝祭り」が全生庵で行われていることを付記しておく(平成21年は、8月9日)。 今回は以上で一段落とし、三崎坂を200mほど下って団子坂下に出て、地下鉄千代田線の千駄木駅で解散とする。歩いた距離はおおよそ2.5kmである。 |