大江戸写真散歩

西日暮里から  日暮里へ

まえがき
 谷根千(やねせん)コースとは、谷中、根津、千駄木を歩くコースのことである。このコースは3回くらいに分けて歩く予定である。

 第1回の今回は、JR西日暮里駅から「ひぐらしの里」といわれていた諏訪台通りを通ってJR日暮里駅の北口方面に歩を進める。御殿坂に出たら、左右にある坂道を見る。続いて、谷中霊園の西側の寺町に沿って南下し、霊園管理事務所のある入り口付近から霊園内巡ることとする。最後は、天王寺を経て日暮里駅南口にいたる。全行程2km強の短いコースである。
地図
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 JR西日暮里の駅を降りて改札を出ると道灌山通りが走っている。西日暮里4丁目方面の台地は道灌山とよばれた。筑波日光連山が眺められ、虫聴きの名所として知られていたとこである。
 
 JRの高架線路に沿って日暮里駅方向に間(あい)の坂を上ると、西日暮里公園に出る。そこを過ぎて100mも行くと諏方(すわ)神社の横に出る。
間坂
西日暮里公園
西日暮里公園
 西日暮里公園から諏方神社にかけての高台は、「ひぐらしの里」と呼ばれていた。江戸時代、人々が日の暮れるのも忘れて四季折々の景色を楽しんだところから、「新堀」という地名に「日暮里」の字を当てたといわれている。雪見の名所でもあった。

 諏方神社は「」の字を書き、信濃国上諏訪社と同じ建御名方命(たけみなかたのみこと)を祀る。拝殿の右手にある坂は地蔵坂と呼ばれ、JR西日暮里駅の西脇へ屈曲して下っている。淨光寺の六地蔵ちなんだ坂名である。
諏方神社
諏方神社
地蔵坂
 神社の先に淨光寺があり、山門をくぐると左手に、高さ一丈(約3m)の地蔵菩薩立像がある。元禄4年(1691)に造られた江戸六地蔵の一つで、現存するものは2体しかない。彫刻史や地蔵信仰を知る上で重要な遺産となっている。また、この寺は眺望に優れた諏訪台の上にあり、特に雪景色素晴らしいというので「雪見寺」ともよばれた。寺の先右手に、富士見坂がある。この辺りからは、富士山筑波山も望むことができた。

 「富士見」を冠する地名のなかで、現在も富士山を望むことのできる数少ない坂の一つであるが、残念ながらビルの陰で全景を見ることはできない。
淨光寺
地蔵菩薩立像
富士見坂
 富士見坂の斜め向かい側に養福寺がある。ここの仁王門は、宝永年間(1704〜11)の建築と伝わっている。本堂など江戸期の建造物は戦災で焼失したが、この仁王門だけは焼失を免れて現在にその姿をとどめている。仁王像運慶の作という。

 諏訪台地の下にある日暮里駅周辺の超高層ビルが、台地を見下ろす形に建っている。啓運寺からは、借景と見れば一興である。お寺の近所には、明治から昭和にかけての下町風情が、今も残っている。
養福寺
仁王門
啓運寺の借景
下町寸景
 御殿坂に出て、左手に経王寺本行寺があり、右手に延命院がある。

 経王寺は、慶応4年(1868)の上野戦争のとき敗走した彰義隊をかくまったため、新政府軍の攻撃をうけることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っている。

 御殿坂の由来は、俗に御隠殿(寛永寺輪王寺宮の隠居所)がこの先にあったからといわれているが、根拠は定かではない。
経王寺
山門の銃弾の痕
御殿坂
 本行寺は景勝の地に建てられており、通称「月見寺」とも呼ばれていた。門の桜が美しい。したがって多くの文人が訪れ、句碑などを残している。

山頭火ほっと月がある 東京に来ている

一茶陽炎や 道灌どのの 物見城
本行寺
山頭火句碑
一茶句碑
道灌丘碑
 延命院七面堂には日蓮宗守護神七面天女が祀られている。ここに八百屋お七をかけて女の子授かったので、お七名付けたという。

 境内には、樹齢600年を越える大椎(都指定天然記念物)が繁っている。
延命院
延命院
七面大明神
シイの大樹
 延命院の先に、「夕焼けだんだん」と「七面坂」が並行した形で通っている。いずれの写真も、見下ろした景色である。

 「夕焼けだんだん」は戦前まではであったが、ここに石段を造って道を通した。平成2年の改修時に坂の愛称を募って「夕焼けだんだん」とした。「だんだん」は「段々」である。

 「七面坂」は、坂上の延命院七面堂ちなんで名付けられている

 坂ノ下に、「谷中銀座」の看板が見える。 
夕焼けだんだん
七面坂
 経王寺の前の道を入ると、朝倉彫塑館がある。ここは、彫塑家朝倉文夫が、明治40年(1907)から昭和39年(1964)没するまでの56年間アトリエ兼自宅として使用していた場所である。建物は国登録有形文化財に指定されている。彫塑館の裏口の先に、幸田露伴の旧居跡がある。

 幸田露伴は、明治24年(1891)からほぼ2年間この地に住み、すぐ目と鼻の先に見えていた天王寺の五重塔をモデルにして
、名作「五重塔」を著した。
朝倉彫塑館
幸田露伴旧居跡
錻力店
 朝倉彫塑間からは一筋道である。150mほどいくと右手に観音寺がある。

 四十七士に名を連ねる近松勘六行重と奥田貞右衛門行高は、当寺第六世朝山大和尚であった。朝山はできうる限りの便宜を与え、寺内ではしばしば彼らの密会が開かれたという。本堂向かって右側に写っている宝篋印塔は、四十七士慰霊塔として古くから伝えられている。

 また、この寺の200年前の古い築地塀は、谷中のシンボル的景観である。
観音寺
観音寺本堂
観音寺築地塀
 観音寺の先左手にある功徳林寺の境内に、「お仙」で有名な笠森稲荷がある。社前に「鍵屋」という茶屋があって、鈴木春信(1725〜70)が錦絵モデルにしたお仙という18歳の超美人が接待していた。噂は噂を呼び、江戸中の大評判になり茶屋大繁盛した。

「掛け行灯に灯を入れる 白きうなじの立ち姿」と唄われれた春信の錦絵も大いに売れた

 また、お仙は子供らの童唄にまで歌いはやされた。
向こう横丁お稲荷さんへ 一文あげて ざっと拝んでお仙の茶屋へ 腰を掛けたら渋茶を出して 渋茶よくよく横目で見たら 米の団子か 土の団子か お団子 団子」(手毬唄)。 古来より、土の団子で願を掛け、お礼参りは米の団子を供える慣わしあり。
功徳寺
笠森稲荷
 谷中霊園の南の入り口を入ると左手に管理事務所がある。その前あたりを右に入って、乙2号8側を探すと佐々木家の墓がある。ここに、落語「佐々木政談」に登場する名奉行:佐々木信濃守顕発(あきのり)(従五位佐々木蘭斎)のがある。

 その奥西側に徳川慶喜〔天保8年(1837)〜大正2年(1913)〕の墓所がある。慶喜は、朝敵としての自分が赦免されたことに対し、仏教から神道に改宗している。彼の墓は、寛永寺にも増上寺にもなく、谷中霊園に神式の墳墓として祀られている。
佐々木家の墓
従五位佐々木蘭斎の墓
徳川慶喜公墓所
徳川慶喜の墳墓
 もと来た霊園中央通りに戻る。江戸時代は、感応寺(天王寺)の門前には御茶屋が軒を連ねていたことだろう。明治になって谷中霊園となり、茶屋は休憩所から供花屋へと姿を変えていった。「おもだかや」もそのうちの一軒である。

 その先50mほど左手、甲1号11側に、落語「中村仲蔵」に登場する中村仲蔵の墓がある。

 その先50mほど右手に、稀代の悪婦とも、また貧困と差別のうちに男に利用された気の毒な女ともみなされている、高橋お伝の墓がある。

 その先20mほどに、オッペケペ節で一世を風靡した川上音二郎(1864〜1911)の銅像台座が残っている。銅像は、戦時中に供出されてしまった。
おもだかや
中村仲蔵の墓
高橋お伝の墓
川上音二郎の
銅像台座
 その先の四辻に交番があり、その後ろに、天王寺の五重塔跡がある。総欅造りで高さ十一丈二尺八寸(34.18m)は関東で一番高い塔であった。上野戦争、震災、戦災の被害を免れたが、昭和32年邪恋の道連れの放火により焼失した。紅蓮の炎に包まれた塔の写真が張り出されている。

 天王寺に向かって歩を進めると、門前で、道の左側に、「故圓遊 故若柳吉蔵 参道」の標石が建っている。
五重塔跡
炎上する五重塔の写真
圓遊墓所参道
 墓域の奥右手に、「唱行院圓遊日悟居士」と彫られた円筒形の墓石がある。これが「ステテコ踊り」で有名になった、いわゆる初代(実は三代目)の三遊亭圓遊の墓であるという。

 墓域の中には三遊派に関係のあるいろいろな碑などが見られる。

 ここのすぐ右斜め前が、天王寺の門である。
三遊亭圓遊の墓域
三遊亭圓遊の墓
三遊派の碑など
 天王寺は、室町時代、応永(1394〜1427)頃の草創といわれ、感応寺と称していたが、天保4年(1832)に天王寺と改めた。東京に現存する寺院で、江戸時代以前に草創の寺院は多くないが、そのなかでも天王寺は都内有数の古刹であるという。門を入って左手に、「天王寺大仏」として親しまれていた銅造釈迦如来坐像がおわす。

 江戸時代、ここで「富くじ」興行が開催された。目黒の不動湯島の天神とともに江戸三富と呼ばれて有名であった。
天王寺の門
天王寺
天王寺大仏
 正門は山門形式ではないが、その右隣に古い形の門がある。護国山天王寺説明板は、なぜかこちらの門の傍らに立ててある。

 この門を出た角には、道行く人を見守るかのようにお地蔵さんが祀られている。

 この辺り一帯天王寺の寺域であったが、明治になってその広大な境内地は、一部を残して東京府に移管され、共同墓地谷中霊園となって今日に至っている。中央通りは桜並木になっており、花見の人出でにぎわうところである。
天王寺
お地蔵さん
 天王寺に向かって左の道を下がっていくと、すぐに紅葉坂にいたる。紅葉が美しかったのでの、命名であろう。

 坂を下った先が、JR日暮里駅の南口改札である。
紅葉坂
JR日暮里南口
あとがき
 今日の散歩道は、自動車の排気ガスと無縁のコースで、快適であった。

 谷中霊園には、竹垣の見本が諸所に作られている。ほんの3例をピックアップしてみた。
左:矢来垣」竹矢来(竹を組んで作った囲い)の一種であり、最も歴史の古い透かし垣である。
中:竜安寺垣」京都の竜安寺の境内に作られているためこの名がある。金閣寺垣と並ぶ透かし垣の代表作の一つである。
右:金閣寺垣」京都の鹿苑寺(金閣寺)の境内に作られているためこの名がある。足下垣(脚付近から下位の高さの垣)として最も好まれており、非常に丈夫である。

 次回は、谷中の寺町の西半分と、谷中銀座を歩いてみよう。
矢来垣
竜安寺垣
金閣寺垣

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