大江戸写真散歩
銀座4丁目から 新橋へ
銀座4丁目の角から約250m来ると、昭和通りとの三原橋交差点にいたる。三原橋は昔、三十間堀(現、昭和通り)に架かっていた橋である。その先左側が歌舞伎座である。 歌舞伎座は昭和20年(1945)に東京大空襲で焼失したが、昭和26年(1951)に再建され、平成14年(2002)に文化庁の登録有形文化財に登録されている。しかし老朽化が進み耐震性などの問題もあり、目下立替の準備に入っている。 歌舞伎関係者は歌舞伎座の雰囲気を残したいし、石原都知事からは「銭湯みたい」と意見が出たとか。立替後の開場は平成25年(2013)の予定と聞く。 |
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三原橋から昭和通りを約250M南西に来た南東角に、狩野画塾跡の説明板が立てられている。 明治の近代日本画壇に大きな貢献をした狩野芳崖や橋本雅邦はともに、ここ木挽町狩野家最後の門下生であった。詳しくは、説明板を参照してください。 |
狩野画塾跡 |
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狩野画塾跡からみゆき通りを4ブロック西に進み、あずま通りとの交差点をを右折して100Mほどのところに、あずま稲荷がある。 かって、あずま通りの三原小路に火災が続発したので、このお稲荷さんを祀ったところ、以降全く火事にあわなくなったという。 |
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縁起書 |
再びみゆき通りに出て、中央通りにいたると、その角が松阪屋である。松阪屋の屋上に、護(かくご)稲荷が祭られている。やはり火伏せのお稲荷さんである。 | 護稲荷 | 由来記 |
松阪屋前の歩道に、一橋大学の前身にあたる商法講習所の碑がある。明治8年(1875)、森有礼の私塾という形で渋沢栄一、福沢諭吉、大久保一翁らが力を合わせて始めたものであるという。 |
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松坂屋の前から再びみゆき通りに出て中央通りを横断して西に約550m、外堀通りの1本先の道路を右折して250mほど行くと、数寄屋橋公園に出る。菊田一夫の筆になる「数寄屋橋 此処に ありき」の碑がある。 数寄屋橋は寛永6年(1629年)に江戸城外郭見附として架けられた橋で、橋の有楽町側に南町奉行所があった。 |
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数寄屋橋公園から今来た道を戻って、みゆき通りに入ると右手に泰名小学校の門扉が見える。この門扉は南フランスの貴族の館で使用されていたものであるという。 そのすぐ先に、「島崎藤村 北村透谷 幼き日 ここに 学ぶ」の碑が建っている。「透谷」とは、「数奇屋」を捩(もじ)ったものである。 |
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藤村、透谷の碑 |
みゆき通りとは、明治天皇が海軍学校に行幸されたときに通られたので、そのように名付けられたという。 そのみゆき通りを戻って、中央通りの1本手前の金春通りを右折して西に進み、交詢社通りを過ぎて約150m行った左手に、豊岩稲荷神社の石柱が見える。鳥居や赤い幟が賑やかに立っていないので、お稲荷さんがあるとは分かりにくい。狭い路地の奥に、拝殿がしつらえてある。 |
豊岩稲荷 | 豊岩稲荷 |
金春通りを西に来て御門通りに出る手前右側に、「金春屋敷跡」の説明板と「金春通り煉瓦遺構」の碑が並んでいる。 「金春屋敷跡」の説明板には、能楽の金春家が寛永4年(1627)、この地に屋敷を拝領したこと、後に麹町に移った跡地には芸者が集まり花街として発展し、「金春芸者」といわれるようになった事などが記されている。 「金春通り煉瓦遺構」の碑には、明治5年から10年(1872〜77)にかけて当時の国家予算の4%弱を費やして造られた銀座煉瓦街のことや、金春屋敷地内から発掘された当時の煉瓦をもって記念碑を造り、保存していることが記されている。また、明治初期の写真をもとに銅版に当時の風景を彫金し記念碑に取り付けてある。見る角度により、昼夜の陰影が出るように微妙な細工が施されているという。 |
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御門通りを東に進み中央通りに出たところで東京高速道路の高架下を新橋駅の方向に出ると、すぐ左手に新橋の親柱が見える。柱頂の窓ガラスが破れてはいるが、さすがは東海道筋の橋だけあって貫禄のある親柱である。 昭和36年(1961)に汐留川が埋立てられると同時に、大正14年(1925)製の新橋もその役目を終えた。今は、大正モダニズムの薫り高い親柱だけが保存されていて、往時を偲ばせている。 |
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新橋の親柱のすぐ横に「銀座柳の碑」があり、西条八十作詞、中山晋平作曲の「植えてうれしい銀座の柳 江戸の名残りのうすみどり 吹けよ春風紅傘日傘 けふ(今日)もくるくる人通り」が音符とともに刻まれている。 碑の後ろには銀座の柳二世が植えてあるが、気が付いてみるとそこは銀座ではなく新橋である。 |
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先回(その1)の京橋の項でも同じことを述べたが、高架になっている東京高速道路には「銀座新橋」と書かれている。何のために書かれているのか定かでないが、確かにここが港区新橋と中央区銀座の境界線ではある。しかし、うっかりすると、とくに若い人には、この高架部分が「新橋」に見えてしまうのではないだろうか。 |
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あとがき 銀座は、北東を京橋川、北西を外堀、南西を汐留川、東南を三十間堀に囲まれていたが、今では全て埋立てられて、見るべき水の景観はなくなった。前記の3川には東京高速道路(巻頭の地図の記号Z)が走り,三十間堀は昭和通り(同I)となっている。 最近になって日本橋川の上を覆っている首都高速道路の見直しが議論に挙がってきている。失われたものの価値の再発見による移転や立替え、あるいは耐震性の強化とビルの超高層化による地域再開発により、銀座は今後とも急速に変貌を遂げていくことであろう。 |