大江戸写真散歩

新宿西口から 熊野神社へ

まえがき
 今回はJR新宿駅西口出発点として、現在は新宿高層ビル街となっている旧淀橋浄水場跡の碑を見ながら、その北側を大きく回って、淀橋の名の由来となっているを見て、成子天神社から熊野神社を経て、これも浄水場跡地に造られた新宿中央公園までを散歩することとする。

 JR新宿駅西口改札口からエルタワーの北側に歩を進めると、そこに植栽の一角がある。
地図
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 ここは、明治31年(1898)から昭和40年(1965)までの67年間淀橋浄水場正門があった所で「淀橋浄水場跡」の碑がある。浄水場の総面積34万500u で、今は新宿中央公園高層ビルの建ち並ぶ街区になっている

 植栽の中にはもう一つ「(むち)の井」の碑がある。鷹狩りにでた徳川家康(1542〜1616)が、尾張攝津守下屋敷に名水の井戸のあるを聞き、その水を飲み、また鷹狩の策を洗ったので、その名があるという。
淀橋浄水場正門跡
策の井の碑
 エルタワーから青梅街道に出て250mほど西に行くと、野村ビルの対面に枝垂れ桜で有名な常円寺常泉院と並んで建っている。

 常円時の境内には、狂歌師便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりふ)(1749〜1818)の代表作「三度たく米さえこはしやはらかし おもふままにはならぬ世の中」が、大田南畝(蜀山人)(1749〜1823)の筆で刻まれている碑がある。狂歌史上貴重な碑であるという。
常円寺
便々館湖鯉鮒句碑
常泉院
 常泉院の角を右折して北に450mほど進み小滝橋通りに出て中央線のガードをくぐりすぐ左折して、まっすぐに400mほど北に進むと大久保通りに出る。この右側が、皆中稲荷神社である。

 皆中とは「みなあたる」の意で、ここ新宿区百人町に屋敷を与えられていた幕府鉄砲百人隊信仰を集めていた稲荷神社である。

 神社の 50m 東が、山手線の新大久保駅である。西へ 200m ほど行くと中央線の大久保駅である。
皆中稲荷神社

皆中稲荷神社
(大久保通り側)
説明板
 大久保駅のガードをくぐって 150m ほど行くと、小滝橋通りとの交差点にでる。その北西角に金塚地蔵堂があり、3体の地蔵尊と1体の庚申塔が見える。いずれも同じ絞り柄の赤い衣がつけてあるので本体の損傷具合は見えないが、1体の地蔵尊は頭部から上がなく、代わりに大きな石が載せてあった。お堂は、しっかりした造りに見えた。しかしこのお堂は道路拡幅工事のため平成20年7月撤去され、今はなくなっている。地蔵尊が造られたのが宝暦2年(1752)で相当痛んでおり、針金を巻いて補強してあったという。

 地蔵堂から大久保通りを西に次の信号まで 約200m 進み、そこで右斜め前に右折し、約350m 行った右側に円照寺がある。この境内に、江戸三名桜の一つといわれた「柏木右衛門桜ゆかりの地」の碑があり、枝垂れ桜の若木が植えられている。
金塚地蔵堂
柏木右衛門桜ゆかりの地の碑
 円照寺の裏手(北側)に鎧神社がある。
 社名の起こりは、日本武尊(82〜113)が東征のおりこの地に甲冑を埋めたことによるとか、あるいは藤原秀郷(生没年不詳)が平将門(?〜940)征討の後その祟りをおそれて将門の鎧を埋めて一祠を建てたことによる、などといわれている。
鎧神社
本殿
 鎧神社の隣に天神社がある。

 社殿両側に一対の狛犬型庚申塔がある。右の写真が阿形像(雄)で、左の写真が叫形像(雌)である。狛犬型の庚申塔は珍しいという。

 神社の北側のすぐ近くに、中央線の線路がみえる。
天神社
狛犬型の庚申塔(雌)
狛犬型の庚申塔(雄)
 鎧神社を出て今来た道を大久保通りに戻り、西に向かって 350m ほど行くと神田川に架かる末広橋に出る。橋を渡らずに手前を左折して右岸を遡って550m ほど行くと青梅街道に出る。ここの右手に架かっている橋が淀橋である。この辺りでは、神田川は南から北へと流れている。

 中野長者といわれていた鈴木九郎(1371頃〜1440)が、自分の財産を地中に隠す際、他言をおそれて人夫を殺して神田川に投込んだところから、昔の橋の名は「姿見ずの橋」とか「いとま乞いの橋」といわれていたが、三代将軍家光(1604〜1651)が「この付近の景色が淀川を思い出させるので、淀橋と改めるように」と命じたことにより、改名されたという。

 神田川新宿区中野区を流れているので、淀橋は両区をつなぐ形になっている。青梅街道は交通量が多く、拡幅工事がおこなわれた結果橋も新しくなったが、橋の親柱は、大正14年当時の物を保存する形でうまく使われている。
淀橋
説明板

 青梅街道に出たところで左折して新宿駅向かって 500m ほど来ると、左手に大きな鳥居が見える。鳥居を入った参道の奥に成子天神社の本殿がある。

 この神社の創立は、菅原道真公(8345〜903)の亡き後、公の徳をしのんで家臣が大宰府から公の像を持ち帰り祀ったのがはじまりという。はじめは鳴子天神であったが、今は成子天神社となっている。しかし、境内にある稲荷は鳴子稲荷のままである。

 美濃の国真桑村(まくわむら)から来た農民が、幕府の御用畑でマクワウリを栽培した。これが神田川流域の低湿地であるこの辺りでよくできたので鳴子ウリと呼ばれ、名物になったという。
成子天神社
 鳥居を出て鳴子天神下の信号まで約100m 戻り、公園通りに入って350m ほど来ると中央公園北の交差点に到る。ここから中央公園に入ると区民ギャラリーがあり、そこに大田道灌賎の女がある(写真後掲)。区民ギャラリーの南西に熊野神社の裏門がある。

 熊野神社は、室町時代の応永年間(1394〜1428)に、中野長者鈴木九郎故郷である紀州熊野十二所権現を移し祀ったと伝えられている。そして、この辺りが十二社(じゅうにそう)と呼ばれるようになったという。

 本殿に向かって右側に、文政3年(1820)に奉納された、狂歌師大田南畝蜀山人)(1749〜1823)の書による銘文が刻まれた石製の水鉢がある。
熊野神社
本殿
水鉢
 境内には、胡桃下稲荷(くるみがしたいなり)のほか、いろいろな碑や文化財がある。胡桃下稲荷とは、笠間稲荷の別称である。

 かっては、この社の周辺にはがあり、景勝地として茶屋料亭が並び大いに賑わったところである。境内に滝や池が作られていて、往時を偲ばせている。

 なお、本殿裏の大島三社の狛犬は、腹の下くりぬきなっていない珍しいものだそうである。
胡桃下稲荷
珍しい狛犬
説明板
 先に触れた大田道灌賎の女久遠の像)が、二人の距離を適当に置いて製作されている。

 公園内を南に進むと公園広場があり、その先に「写真工業発祥の地」の碑が建っている。この地に、明治35年(1902)小西本店(後の小西六写真工業、現コニカミノルタ)が写真感光材料の国産化を図って研究所と工場(六桜社)を建設した。その後、昭和38年(1963)、新宿副都心建設事業により、八王子・日野へ移転したとある。

 現在の新宿中央公園は、旧淀橋浄水場の一部とこの小西本店跡地に建設せられたものである。


 今回の散歩は、一応ここを終着点とする。
久遠の像
写真工業発祥の地の碑
新宿中央公園
あとがき
 JR新宿駅西口出発して、旧淀橋浄水場の北側をJR中央線沿いに大きく半周して、東京都庁の裏側(西側)の新宿中央公園まで歩いてきた。お江戸の散歩道としては、珍しく坂道のないコースで、この間、約6km の歩行距離であった。

 新宿中央公園からは、京王線初台駅、地下鉄丸の内線西新宿駅、都営大江戸線都庁前駅、同新宿線新宿駅にも近いので、一応ここを終着点とした。なお JR新宿駅、京王線小田急線新宿駅までは、1km弱 である。

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