大江戸写真散歩



高田馬場から  蕉雨庵へ

まえがき
 神田川水源井の頭池である。途中、善福寺池妙正寺池の水を合流して山手線の下を潜り、高田橋、高戸橋から、江戸川橋、飯田橋、お茶の水橋、浅草橋、柳橋を経て、両国橋の上流側で隅田川に注いでいる。全長25kmほどである。

 今回の散歩は、JR山手線の高田馬場駅より隅田川への合流点までを、何回かに分けて歩くこととする。神田川は都心を流れている川にしては珍しく殆どが開渠で、都心散策路としては四季を通じて他に例を見ない長閑(のどか)な風情がある。

 神田川は神田上水と呼ばれ、玉川上水よりも古くから上水道として使われていた川で、松尾芭蕉も工事に関わっていた所である。これらの遺跡を含めて、江戸の名残を確かめながら歩を進めることとする。
地図
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 JR山手線の高田馬場駅のプラットホームでは、鉄腕アトムのメロデーが流れている。駅の早稲田口のすぐ前が早稲田通りである。左斜め前の商店街を150m程進むと清水川橋に出る。

 橋の上から上流の方角を眺めると、島田橋東京富士大学短大部のブリッジでつながった塔の建物が見える。

 下流側には、JRの鉄橋と現在架け替え工事中の西武新宿線が下の方に見える。
島田橋と
東京富士大学

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JRと西武鉄道の鉄橋
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 今来た道を高田馬場駅に向かって戻り、ガードをくぐって神高橋に出る。

 ガードの下には手塚治虫漫画がデザインされている。手塚プロダクションが高田馬場にあり、この意味において鉄腕アトムは高田馬場の生まれだそうだ。

 JRのガード下は「ガラスの地球を救え」、西武線のガード下は「歴史と未来」とテーマが変えてある。右の写真は西武線側の絵である。
高田馬場ガード下
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 神高橋上流側では、「神田川西武新宿線鉄道橋梁架け替え及び護岸工事」が平成21年3月完成予定で進められている。

 下流側は護岸工事が終わっている。これから、この流れに沿って歩いていくこととする。
 
鉄橋架替え工事
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神高橋下流
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 神田川の水は、新宿区下落合で妙正寺川に分流されており、これを高田馬場分水路という。

 左の写真は高戸橋から見た高田馬場分水路の吐口で、真ん中の水路の上に「高田馬場分水路」の名盤が取り付けてある。

 高戸橋で明治通りに入って北へ進み、次の信号を右に曲がる。ここから約300mで氷川神社の前を通って南蔵院に突き当たる。
高田馬場分水路
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氷川神社
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 南蔵院は「怪談牡丹灯籠」「真景累ケ淵」と並ぶ三遊亭圓朝の名作「怪談乳房榎」において、菱川重信がお堂に龍の天井画を描いたといわれるゆかりの寺である。入口に「ゆかりの寺」であるとの看板が立ててあるが、これ以外には何も見当たらない。傍の木も、葉脈からすると、榎ではないように思われた。

 コンクリート造りのお堂の前に並べられた鉢植えのボタンが、今を盛りと咲き揃っていた。
南蔵院
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怪談乳房榎
ゆかりの地

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本堂
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 南蔵院を出て真北に約500m行くと左手に金乗院がある。目白と彫られた台石の上に、不動明王石像がある。目白不動のお堂があることが知れる。

 本堂右手前に、倶利伽羅不動庚申塔が祀ってある。寛文6年(1666)造立とある。
金乗院山門
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金乗院本堂
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倶利伽羅不動
庚申塔
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 本堂の正面塀際に、鍔塚がある。寛政12年(1800)造立とある。

 墓地の奥に、慶安事件(1651)で処刑された槍術の達人丸橋忠弥がある。

 山門を入った右手一段と高いところに、目白不動明王のお堂がある。戦災で関口駒井町にあったお堂が焼けたので金乗院に合併し目白不動明王像を移したという。
鍔塚
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丸橋忠弥の墓
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目白不動明王の
お堂
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 金乗院の前の坂を宿坂といい、昼なお暗い道筋で昔は狸や狐が出たという。

 金乗院の前の四辻に根生院の案内板が出ている。読みは同じ「コンジョウイン」である。足を延ばしてみる。

 先ほど来た道を戻って南蔵院の前を過ぎて神田川まで約400m南下し面影橋にいたる。
宿坂道説明板
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根生院
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 橋の袂のオリジン電気(株)の門前に山吹の里の碑がある。賤の女大田道潅に「蓑(実の)ひとつだに なきぞかなしき」と山吹の小枝を差し出した故事に関わる場所である。

 このすぐ前が面影橋であり、川向こうに甘泉園がある。ここは、落語編高田馬場」で歩いたところであるので、説明は省略する。
山吹の里
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面影橋
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甘泉園
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 都電荒川線終点である早稲田停留所の先の豊橋を渡り、川の左岸を歩く。約400mで新江戸側公園の前を過ぎて駒塚橋に出る。

 左手に、神田上水の守護神である水神社(水神神社)の2本の大銀杏と新しい石の鳥居が見える。平成16年大風で銀杏の枝が折れて安政4年(1857)建立の鳥居を破損してしまった。翌年これを再建したものである。

 水神神社の右手が胸突き坂で、水神坂ともいう。坂の途中には陶製の椅子が2個置いてあり、一服できるようになっている。 
駒塚橋
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水神社
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胸突き坂
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 坂を登りきったところに、永青文庫がある。肥後熊本藩54万石の細川家が代々蒐集した書画陶磁器などの展示場である。昔は、新江戸側公園から目白通り辺りまでを含んだ3万8千坪下屋敷であったという。

 その先右手に、維新の志士、元宮内大臣田中光顕(みつあき)邸跡、蕉雨庵がある。

 蕉雨庵の先が目白通りである。今回の散歩はここまでとする。ここからは、都営バスでJR目白駅に出ることもできる。
永青文庫
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蕉雨庵
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あとがき
 江戸下町では、井戸を掘ると塩分濃度の高い地下水が汲み上げられてしまい、生活用水不自由していた。

 徳川家康は、天正18年(1590)入府後大久保忠行用水事業命じ神田上水完成させた。これが江戸の水道の始まりで、これから半世紀を経て、玉川上水ができる(1654)ことになる。

 大久保忠行三河国300石武士であったが、足を負傷してからは戦列に加われず、餅菓子を作る特技を生かして、時々、家康に菓子を献じたという。家康について江戸に来てからは用水事業に専念し、「主水」の名を賜ったが、水は濁らざるを尊しと「モント」と読むことになったという。以来、子孫は代々主水と称し、幕府御用達菓子司を務めたという。

 今回、あちらこちら寄り道をしながら歩いた距離は、約4kmである。距離の割りには、高低差のあるコースであった。

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