永代橋から 泉岳寺へ
永代橋は元禄11年(1698)隅田川で4番目に架けられた橋で、長さ110間である。 名前の由来は、上流に千寿(千住)大橋があリ、すぐ上手の小名木川が隅田川に流れ込む地点に万年橋があるので、これらに負けないようにという意味で「永代」と名づけられたという。 永代橋を渡って霊岸島に入る。この辺りは新川といって、上方からの「くだり酒」が陸揚げされたところである。 |
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日本橋川から亀島川に沿って、霊岸橋、新亀島橋、亀島橋を右手に見てコの字型に進み、高橋を渡って八丁堀に出る。 |
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高橋を渡って2つ目の信号を左折し、約600m進んで、佃大橋西の陸橋をわたって築地にはいる。 |
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聖路加国際病院の横を通って「病院前交差点」に至る。ここが慶応大学発祥の地であり、前野良沢等が「解体新書」を翻訳した地である。「日本近代文化事始の地」の碑がある。 |
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南側に隣接する「あかつき公園」に、オランダ商館医員シーボルトの胸像がある。彼は文政6年(1823)長崎に到着し、診療の傍ら鳴滝塾を開き、蘭学者の指導を行った。文政11年(1828)シーボルト事件によって日本追放となるが、安政6年(1859)幕府顧問として再来日し、わが国蘭学の発展に大いなる影響を与えた。 「病院前交差点」を右へ(東へ)折れて150m程行くと、築地川公園に出るが、この間に、立教学院発祥の地の碑、女子学院発祥の地の碑がある。 |
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また、聖路加国際病院のエンブレム、及び、安政6年(1859)ハリスにより元麻布の善福寺に開設されたアメリカ大使館が明治8年(1875)移転してきた所を示すアメリカ大使館跡の碑などがある。 |
エンブレム click |
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築地川公園に出る手前の角に、赤穂藩主浅野家5万石の江戸上屋敷跡の碑がある。 土地は8、970余坪、建屋は3,335坪であった。赤穂義士たちは、この召し上げられて今は主なき屋敷跡を心の中で伏し拝みながら、泉岳寺に向けて凱旋の歩を進めていったことであろう。 義士たちが永代橋を渡るコースを選んだ理由の一つに、この屋敷跡に今生の別れを告げたいという気持ちがあったことがあげられている。 |
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さて、ここからは国道第一京浜に沿って泉岳寺に至るわけであるが、この間にあっても、2,3寄り道をしていくことにする。 先ず、都営三田線の内幸町駅と御成門駅の丁度中間点に、浅野内匠頭がお預けになり、そこで切腹した田村邸の跡がある。浅野内匠頭終焉の地の石碑が立っているが、この碑は、なぜか日比谷通りの車道を向いて建てられている。写真は、反対側の歩道から望遠で撮ったものである。 |
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浅野内匠頭終焉 の地 click |
次いで、芝増上寺の三門(三解脱門)と大門に至る。 芝増上寺には、二代将軍秀忠をはじめとして6人の将軍、同御台所、皇女和宮さまら5名の正室および歴代の将軍の側室、子女多数が埋葬されている。 かっては3,000人の僧侶が修学する寺院となり、木造伽藍は勇壮を誇ったが、明治の廃仏毀釈、大火、昭和の戦災により主な建物を失った。 |
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め組みの喧嘩で有名な芝神明社(芝大神宮)に立ち寄ってから、三田に出る。 三田駅の手前に、江戸開城について西郷隆盛と勝海舟が会見した旧薩摩屋敷跡を示す碑がある。 また、人情噺(落語)に出てくる「芝浜の革財布」は、この土地が舞台になっている。 ここから2km弱で、いよいよ泉岳寺である。 |
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西郷・勝会見の跡 click |
あとがき 今回は5kmくらい歩いたと思う。足の弱い人は途中都営浅草線を利用するのもよい。東銀座駅から乗って新橋(浅野内匠頭終焉の地に近い)、大門(増上寺、芝神明社に近い)、三田(西郷・勝会見の地に近い)、泉岳寺(泉岳寺に近い)の駅で適宜降りて行くのもよいと思う。 次回はその3として、泉岳寺から大石内蔵助らが切腹した細川邸跡を廻って、締めくくりとする。 |