本丸コース
まずは大手高麗門をくぐる。鉄の鋲で堅胴桟を打ち付けた堅牢な扉が開いている。門の裏側では、左右の控柱が頑丈に門を支えている。 枡形門を形成し、右に回ったところに渡櫓(わたりやぐら)がある。上の方から入城してくる者を威圧している感じがする。現在の渡櫓は昭和43年(1968)に再建せられたものである。 |
右:渡櫓 click |
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大手高麗門標石 click |
枡形門の一角に鯱が置かれている。渡櫓の屋根に取り付けてあったもので、振袖火事(1657)の直後に作られたものであると推定されている。 枡形門を形成する石垣はきっちりと隙間なく積み上げられておリ、綺麗な模様を描いている。 |
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枡形門の石積み
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大手門で、入園証を受ける。これは、退園時に戻すことにより、入出園者数を照合しているのであろう。 大手門を入ってすぐ右手にある三の丸尚蔵館(皇室の宝物館)の前を過ぎると、突き当たり右側に同心番所がある。 番所とは、警備の詰所のことで、百人番所、大番所とここの同心番所が現存している番所である。城の奥に行くほど上役の者が詰めていた。ここは同心が詰め、主に登城する大名の供の監視に当たっていた。 |
同心番所標石 click |
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同心番所の突き当りを左折すると、百人番所の前に出る。 百人番所は本丸と二の丸に通じる大手三之門の前に設けられた番所で、鉄砲百人組と呼ばれた甲賀組、伊賀組、根来(ねごろ)組、二十五騎組の4組が昼夜交代で詰めていた。各組には同心が100人ずつ配置されていた。 本丸に通じる中之門を入ると、右手に大番所がある。他の番所よりも位の高い与力、同心によって警備されていた。 |
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大番所 click |
大番所の前を通り過ぎ、坂を上がると、本丸の入口である中雀(ちゅうじゃく)門跡にいたる。 昔を思えば、ここまで通ってこられるのはほんの少数の選ばれた人達だけで、われわれ風情が、がやがやと物見に入ってこられるところではなったはずである。 |
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細い道を南に来ると、富士見櫓が見える。 櫓とは、倉庫や防御の役割をもった建物で、かって江戸城には19の櫓があったが、今は伏見櫓、桜田二重櫓と、この富士見三重櫓のみである。明暦3年(1657年)の大火で焼失した天守閣の代用としても使われ、将軍が両国の花火や品川の海を眺めたところでもある。 |
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富士見櫓から天守台に向かって歩を進めると、松之大廊下跡の標石が目に入る。 ここは、元禄14年(1701)、浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)への刃傷事件があったところで、後の赤穂浪士討ち入りにつながったことで知られている。 廊下に沿った襖戸に松と千鳥が描かれていたのが名前の由来である。江戸城中で2番目に長い廊下で、畳敷きの立派なものであった。 |
松之大廊下跡標石 click |
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松之大廊下跡の先に、石室がトーチカのように見えてくる。 抜け穴とか、金蔵とか諸説があるが、大奥御納戸の脇という場所柄から考えて、非常の際、大奥の調度などを収めたところと考えられている。内部は20平方メートルで、伊豆石で作られている。 この石室の正面辺りが本丸の跡であるが、昔日の栄華を誇る建物は何もない。 本丸は「大奥」、その南側に「中奥」、そのまた南側に「表」と、大きく3つに分かれていた。 「中奥」は、将軍の日常の居所であり、政務を執る公邸の機能があった。 「表」は、謁見などの儀式の場所や諸大名の執務する部屋などがあり、老中、若年寄の部屋は特に「中奥」に近いところにあった。 |
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今は高さ11メートルの天守台の石積みしか残っていないが、かってはその上に五層の天守閣がそびえ、その周りを二重三重に白壁の櫓が取り囲んで厳重な防備をしいていた。その威容は豊臣秀吉の築いた大阪城をもはるかに上回る規模であって、江戸市中から美しく眺められていた。 築城の責任者には藤堂高虎があたり、五層の天守閣ができたのは慶長12年(1607)であった。その後も増改修が続くが、惜しくも明暦3年(1657)の振袖火事で焼け落ちてしまった。以後再建されることはなかった。江戸城に天守閣がそびえていたのは、わずか50年ほどであった。 |
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あとがき 太平の御世が続く限りは、戦闘のための天守閣などは無用の長物である、とお城のシンボルである天守閣を築かなかった歴代将軍ならびにそのブレインたちは、なかなかの見識者であった。 また、江戸は幾たびも火災に見舞われているが、その都度、人口の再配置の契機ととらえて、寺社、遊郭などの郊外への移転、武家屋敷の再編、都市域の拡大を積極的に行ってきた。しかし、政治の中心である江戸城は幕末までほぼ同じ規模と構造を維持し続けてきた。 |